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家を抜け出した彼女は、屋敷の裏側にある木陰に隠れるように停車していた小さな馬車に乗り込んだ。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう」
フードで顔を隠した彼女に恭しく頭を下げたのは、この馬車の馭者を務める少年である。
彼の手を借りて車に乗り込めば、簡素ではあるけれど居心地のいい、彼女好みの空間が作られている。それもそのはず、この馬車は彼女の為だけに用意されたものであった。
この馬車を手配してくれたのは、ロッテの伯父である。今回のみならず、彼女のお忍びは全て、伯父の協力あってのものだ。馭者の少年も、彼女のお忍び用の服も、用意してくれたのは彼だった。
だからこそ、置手紙のアリバイに名前を借りるのだって許してくれるのである。
「公爵領以外の場所を見てみたい」。
初めて伯父に相談した時、彼は二つ返事で協力してくれた。伯父は、元より規律や規則なんてものはさほど気にしない自由な人だったけれど、彼女の為に色々と手配してくれている時の彼は、どこか懐かしむような表情を浮かべていたのを覚えている。
穏やかな馬車の揺れというものは、眠気を誘ってくるものである。それが、ぽかぽかした陽気の、人も少ない平和な旅路なら尚更だ。
彼女の身体はいつしか、うとうとと舟を漕ぎ始めた。
◇◇◇
「…お嬢様、お嬢様」
馭者の少年が呼ぶ声に、彼女は目を覚ました。自分が寝ていたことに気づいた彼女は、慌てたように髪と服を整え、あまり意味はないが何事も無かったかのように背筋を正す。
彼女の返事を律儀に待っていた少年が扉を開けてくれると、彼女はその手を借りて馬車から降りた。
公爵領の外れにある屋敷からは、馬車で30分ほど。
目的地であるあの街から少し離れた森の前に、馬車は停まっていた。
暗く鬱蒼とした森だ。彼女は立ち入ったことはないが、外から見た限りはかなり広そうで、木々の一本一本が大きく枝葉を広げている。
明るく活気に溢れたあの街にはまるで似合わない(と彼女は思っている)雰囲気のこの場所は、例え今日のような良く晴れた日中であっても非常に薄暗い。昼間でもお化けが出そうな場所だ。
そういえば、彼女は以前この場所を訪れた際、この森の奥から子供の笑い声を聞いたことがあった。街からは少し離れているこの場所では聞こえる筈もない、小さな赤ん坊の声だ。
背筋の凍るような体験だった。あれは…一体何だったのだろう。
誰かに─それこそあの男に─聞いてみたくもあるのだが、怖くて聞けていないのである。
この森についても良く知っている筈のあの男や、どうやらこの辺りの事情についても詳しいらしい伯父が口を揃えて「一人では入るな」と彼女に言い含めているが、今のところは素直に聞いておいた方が良さそうだ。
あの街の人々も、この森には滅多に近づかないという。肝試しや度胸試しに立ち入ろうとする若者や子供たちもいるそうだが、そういう馬鹿者は皆あの男から説教を受け、二度とこの森には立ち入ろうとしないのだという。
そんな場所だからこそ、馬車を隠すには最適なのだが、毎回毎回彼女は内心震えているのである。
少年と一言二言だけ言葉を交わし、車を引いてくれた馬を撫で、彼女は去って行く馬車を見送る。
自然豊かな田園風景、その中を走って行く小さな馬車が小さく見えるようになった頃、彼女はあの街に向かって歩き始めた。
小柄な彼女からすれば大きく見える石の門は、少し離れたこの場所からでもよく見える。彼女の足でなら、あそこまでは5分ほどだろうか。
一刻も早く辿り着きたくて、駆け出したくなる気持ちをどうにか抑えながらも、彼女は一歩一歩足を進めた。
しばらく歩けば、目的の場所は見えてきた。
ハミルトン・ヴァレー。
彼女の友が暮らす街。彼女の愛した街である。