フェイズ09「ザ・ディ・アフター「日本孤立」」
ここでは、第二次日中戦争後からソビエト連邦を中心にした社会主義国家群の政治的崩壊までを足早に追ってから、日本の現状を見ていきたいと思う。
1970年代
70年:
カンボジア内戦:
ポルポト率いる原始共産主義勢力は、後ろ盾を失ったことが影響して勢力拡大できず。
アメリカ寄りの右派政権が何とか政府を維持するも内戦で荒廃する。
71年:
ベトナム、「現地政府」の要請を受けて、中華国境を越境。
漢民族以外の少数民族保護を国際的理由にして支配地域を拡大。
内陸部だったため、国連及びアメリカは積極的行動ができず。
72年:
中華内戦沈静化:
国連介入により人民中華の消滅を確認。
しかし域内成立を宣言した多くの勢力(国)は国際的承認に至らず。長らく国家不在地域となる。
SALT-I :
当初は、ABM制限条約の筈だったが、日中の核兵器使用があったため、広範囲での核兵器軍縮条約となる。
73年:
第四次中東戦争:
東アジア情勢のためにアメリカ、ソ連の干渉が無いと考えた双方の陣営が戦闘を拡大。
結果としてイスラエルが大勝利し、占領地域を大きく拡大。
大敗したアラブ諸国は、国際的不利不利を覆すために石油を「武器」として使う。
オイルショック:
大産油国であるソ連を盟主とする共産主義陣営に大きな変化はなし。
74年:
ヒマラヤ問題:
インド、カシミール地区を改めて自国領とする。
またチベットへの浸透も大幅に強化。この結果、インドとパキスタンの関係が悪化。
利害一致が発生したためインドとソ連の関係はむしろ進み、ソ連は東トルキスタンを一層自陣営に組み込むようになる。
75年:
ベトナム戦争終戦:南ベトナム滅亡。
79年:
中華内戦再発:
中華での覇権争いと軍閥同士の抗争が原因。
一年後に国連軍が再投入される。
広州紛争:
ベトナムと国境近辺の中華系軍閥の戦闘。
ベトナム、現地少数民族の保護を理由にして広州地区の一部を占領。
イラン革命:
親米政権が倒れて宗教政権成立。
米ソ共に、中華地域への関心低下。
SALT-II:
核兵器に関する制限がさらに強められる。
アフガニスタン侵攻:
ソ連が、アフガニスタンに侵攻。
アメリカを始めとする西側は、アフガンのゲリラを支援。
この年の一連の戦乱の連続のため、第三次世界大戦が迫ったと西側で言われる。
1980年代〜1990年代
80年:
モスクワオリンピックボイコット:
日本は、戦後初めてオリンピックに参加。
ようやくの事での国際復帰の足がかりとなる。
イラン・イラク戦争:
日本は双方に武器輸出して、外貨と石油を獲得する。
西側が日本を非難。
日本は軍拡で応戦。
83年:
アメリカ、「悪の帝国」発言:
主にソ連に対するものだが、日本も名指しされる。
アメリカ、戦略防衛構想 (SDI):
アメリカ・ソ連双方の軍拡が進み、米ソの対立が激化。
日本もさらなる軍拡に転じて、アメリカと西太平洋でのにらみ合いを激化。
84年:
ロサンゼルスオリンピックボイコット:
日本もボイコットし、以後92年までオリンピック参加できず。
87年:
ソ連、ペレストロイカ:
ソ連の改革解放が始まる。
ソ連と日本の関係が悪化し始める。
INF全廃条約:米ソの接近本格化。
89年:
日本、昭和天皇崩御:
日本国内に特に政治的変化なし。
つつがなく平成天皇が即位。
君主を掲げる一党独裁共産主義体制に対して、世界中が奇異な目で見る。
東欧革命:
共産主義陣営の終焉。しかし北東アジア地域に大きな変化はなし。
日本、人民朝鮮は連携と結束を約束。
91年:
1月:湾岸戦争:東側武器の価値が暴落。日本の外貨獲得に大きな打撃。
STARTI:アメリカの優位が確認されたような状況となる。
8月:ソ連、8月クーデター:軍事クーデターは失敗。
12月:ソ連崩壊:ゴルバチョフは大統領辞任。
日本、人民朝鮮は依然として共産主義体制を維持。
※「ソ連崩壊」
アフガン侵攻以後、ソ連の退勢というより国家財政と経済の傾きはいよいよ明らかとなった。
同時に、北東アジアの共産主義諸国の停滞と退勢も進んでいった。
一方、日本の国有企業は、元が民間企業だったものが多いためなのか、他の共産主義国家よりも状態は「マシ」だとされていた。
しかし西側と比べれば「マシ」なだけに過ぎず、共産陣営全体の退勢が進むと共に日本の社会主義経済も行き詰まりを見せるようになっていた。
しかし日本は、人民中華を核兵器で滅ぼした事で共産主義国家の中でも「悪の帝国」の筆頭とされており、第二次世界大戦の影も重なってアメリカから強く敵視されていた。
しかもベトナム戦争、アフガン紛争とことあるごとに西側陣営の前に日本軍が姿を見せ、少なくない脅威と損失を西側陣営に与え続けていた。
だが、日本は東側陣営の兵器廠といわれたように、ソ連に次いで重化学工業が盛んであり、東側に武器ばかりでなく工作機械や各種工業製品を輸出することで国の発展を行っていた。
GNPも、東側では随一の数字を示すほどだった。
しかしソ連が傾くと、日本の経済モデルは一気に破綻をきたした。
ソ連や東側陣営、反西側、反米諸国への輸出が停滞し、ソ連崩壊後はソ連からの同盟国価格での資源や食料輸入ができなくなったからだ。
これを補完するため、日本は世界中への武器売買を強化し、さらにはリビアやイラン、アフリカ地域など世界政治上で問題を抱える燃料資源国との関係を強める道を進んだ。
そして体制が強固に維持されたままの日本は、それ故にアメリカを始めとする西側陣営との和解ができないまま、冷戦崩壊後の世界を生きなければならなかった。
※「悪の枢軸」
ソ連崩壊及び東欧の民主化後も、依然として北東アジアの国のいくつかは一党独裁の共産主義体制を維持していた。
琉球は台湾を中心にして民主化と市場経済導入に踏み切ったが、日本、人民朝鮮はそのままだった。
ベトナムなどのように、市場の改革解放だけにすら舵を切らなかった。
一方では、いまだ混乱から抜けきっていない中華地域の中にも、いまだ共産党や人民解放軍系の軍閥が支配する地域が多数存在していた。
中には日本との関係を望む中華地方も存在したほどだった。
共産主義が、それほど退勢した証だった。
そう、残された共産主義国家の中で、日本と人民朝鮮が大きな国力を持っていた。
共に総人口が1億5000万人近くに達し、核兵器も保有していた。
本来なら、冷戦崩壊と共に民主化や改革解放に踏み切っても良さそうなものだが、国家体制維持を第一目標としてアメリカなどとの対立をより一層強め、軍事力に頼った国家維持に汲々としていた。
しかも日本は、水爆や大陸間弾道弾を保有する強度の核保有国であり、核兵器を実戦使用した唯一の国として評判は最悪で、世界が受ける脅威も極めて高いと国際的に判断されていた。
人民朝鮮も火事場泥棒的に満州を武力で併合した上に、日本の技術供与で80年代に核開発に成功しており、体制維持も重なってアメリカに簡単になびくことはあり得なかった。
日朝両国の国内は80年代から依然として経済が停滞していたが、海外の情報が遮断される状況が続いたため、民主化など大きな変化には繋がらなかった。
特に日本は、北海道の一部がロシアと接しているのを除いて海で他国と隔てられているため、情報の遮断と閉鎖傾向はより強かったと言えるだろう。
しかも日本は天皇制(君主制)を一部保持し続けたために、イデオロギー的な面以外でも体制崩壊の可能性が低いと判断されていた。
ただしアメリカと比べた場合、核兵器と弾道兵器以外で日本に見るべき軍事力はなかった。
日本が後生大事に持っている旧式戦艦や、国内で世界最精鋭が謳われた空母機動部隊の戦力価値は、アメリカと比べた場合は実質的にはほとんど無きに等しかった。
何とか保有された原子力潜水艦も、実質面での戦力価値はゼロに等しいと言われた。
しかし先進国以外にとっての脅威度は比較的高く、日本は侵略性の高い国家と見れらていた。
人民中華崩壊後も東南アジアが結束しているのは、間違いなく赤い日本の存在が強く影響していた。
その上日朝両国は、様々な国に武器を大量に輸出したり、崩壊したロシアから武器を購入するなど軍備増強には熱心であり、核兵器と弾道兵器を外交の武器にしてアメリカと渡り合う姿勢を強く示していた。
日本などは、ロシアから大量の戦車や戦闘機、果ては未完成の空母や潜水艦を購入したりもした。
日本は自力でのロケット打ち上げ能力もあるため、ロシアからの技術輸入などもあって偵察衛星や通信衛星すら自前で持っていた。
ただし、冷戦崩壊後に日本の強硬姿勢がより強まった事から、旧東側諸国との関係は希薄化した。
インドなど比較的友好的だった国々の多くも、さらに距離を置くようになった。
世界ではグローバル化が進んだというのに、日本と各国との貿易も武器売買以外では最低限だった。
しかも度々国際問題を起こしては、アメリカなどから経済制裁を受ける始末だった。
それでも1991年には、ようやく日本の国際連合への加盟が認められたが、これはソ連崩壊後に孤立した日本との交渉チャンネルを確保するための方便であり、日本人が喜んだように日本の力が認められた訳ではなかった。
多産政策により総人口1億5000万人近くを抱えるようになった大規模な軍事国家が野放しでは、今後の世界情勢に著しく不利益をもたらすと考えて事だったのだ。
しかも日本は、冷戦時代は最も成功した社会主義国とまで言われ、国内には技術レベルは低いながらも十分な規模の工業基盤を持っていた。
一人当たりGNPも、一時はソ連を上回る4000ドル近くあった事もあった。
これら日本の工業施設がせっせと兵器を製造して輸出しているのだから、世界が困るのは当然だった。
世界に知られた日本の国有企業といえば、ほぼ間違いなく軍需企業だった。
一方で、1969年に四五分裂状態に陥った中華中央部だが、戦乱の中で国際管理都市とされた上海を中心にして西側資本が入り、また沿岸部を中心にして少しずつ各地の安定化も進んでいた。
揚子江沿岸部と香港のある広東では西側諸国の進出と受注により工業生産も伸びており、各地に乱立した政治組織を整理統合しての「中華連邦構想」が少しずつだが具体化しつつあった。
また改革解放と民主化を実現した琉球は新興国として頭角を現し、アメリカとの関係を強め日本との関係を年々希薄化させていった。
人民朝鮮は、中華戦争の混乱で満州を事実上併合して一気に国力を大きく伸ばしたが、その後は共産主義国家特有の停滞により国力の増大は伸び悩んでいた。
しかも金体制維持に汲々としたため、冷戦崩壊後に改革解放や市場経済化に入ることもなく、日本共々国際的孤立を深めていた。
一時は、日本と人民朝鮮が、また侵略戦争を始めるのではないかと観測されたほどだった。
特に湾岸戦争の頃は高い緊張に包まれ、アメリカ軍は戦力の一部を北東アジア地域から動かせなかったほどだった。
イラクの大統領フセインは、自らのクウェート侵攻に連動して日本が共に立ち、再びアメリカと戦うと信じていたと言われている。
だが、アメリカが本気で無数の戦略核と空母機動部隊を向けた状態では、流石の日本も何もできなかった。
それでもイラクに派遣されていた軍事顧問団が、イラク軍と共に多国籍軍への反撃を企てた事があったが、イラク軍共々実質何もできないままに袋叩きにされただけに終わった。
当然、日本の国際評価はさらに下がった。
評価したのは、原理主義者だけと言われた。
冷戦崩壊後の世界でも、日本と人民朝鮮は徐々に国際的孤立をより深めていた。
人民朝鮮は1994年に金日成が死去すると、併合後の扱いに不満をためていた高句麗自治州(満州)で自主独立の動きが活発化した。
体制維持派と戦闘状態に突入して、大規模な内乱となった。
ここで日本は金体制派を援助し、軍隊まで派遣する。
一方アメリカなど西側は、民族自決などの観点から満州側への支援を発表。
いまだ統一からはほど遠い中華中央部から、軍事力のパワープロジェクションも実施した。
そうして戦乱は拡大し、朝鮮半島内でも様々な勢力が入り乱れた形で体制派と改革派が衝突。
人民朝鮮は完全な内乱状態となり、激しい戦闘で国土が大きく荒廃する事になる。
朝鮮・満州での大規模な戦闘は97年に終息して、満州には満州連邦共和国が成立。
朝鮮でも、国連の支援もあって核兵器を物理的に押さえた改革派が勝利し、破れた金正日とその一派は朝鮮半島内を破壊できるだけ破壊して日本に亡命した。
そして独裁者のいなくなった朝鮮半島では、新たに民主化をうたった大韓民国の成立が宣言された。
また、内乱の期間中からその後しばらく、大量の亡命者が朝鮮半島から日本へとなだれ込んでいた。
朝鮮の共産主義体制が無くなると、日本の孤立はますます深まった。
しかも人民朝鮮は、満州を持っていた事から日本にとっての貴重な穀物輸入国だったため、日本の経済的停滞と食料不足が極度に悪化した。
日本国内では食糧増産と経済躍進が叫ばれたが、金も技術も何もない状態ではどうにもならなかった。
しかも既に国土は開発しつくされており、生産性が低いまま日本の農業では効率的な増産も夢物語に等しかった。
朝鮮民主化後は、日本中でサツマイモなど救荒作物の栽培が一般的となっていった。
そして自らの窮状打破のため、必然的にアメリカと極度に関係の悪い国との交流を活発化させ、さらに国際的孤立を深めるという悪循環を繰り返した。
2001年9月11日、イスラム原理主義による「9.11テロ」が起きると、アメリカの強硬姿勢は一気に強まった。
当初アメリカの矛先はそのまま原理主義に向かったのだが、徐々にイラン、イラクなどに武器や弾道ロケット、核関連連技術を輸出する日本への非難が強まってきたからだ。
そうして2002年、アメリカはイラン、イラクに並んで日本を「悪の枢軸」と名指しで非難した。
特に大威力の核兵器と大陸間弾道弾を持つ日本を「悪の枢軸」の筆頭だと決めつけた。
アメリカの日本への非難は、長年大陸間弾道弾を向け合っていたので今更の感はあったが、それでも改めて敵視された事に違いはなかった。
これに対して日本の国内世論は、いつも通り激高した。
日本政府も、自国経済の低迷や食料不足を、外圧によって回避しようと世論誘導を行った。
日本国内ではアメリカ討つべしとの声が溢れ、さらなるアメリカとの対立姿勢を強めていく事になる。
時の日本の為政者は、「アメリカの包囲網をぶっ潰す」と獅子吼して、日本国民から喝采を浴びた。
日本は、自らが強力な武器を持つ限り、アメリカから決して戦端を開くことはないと見透かしていたのだ。
そしてアメリカとしても、水爆や大陸間弾道弾を保有する日本に対して安易に武力を用いるわけにもいかず、両者の対立は平行線を辿っていた。
そこで、日本、アメリカ、日本の仲介役となるロシアを中心に近隣の韓国、琉球を加えた「北東アジア協議」が開催されるようになる。
口では強硬意見ばかりな日本も、外交の行き詰まりは流石に看過できなかった。
会議では、日本の大幅な軍縮、特に核軍縮と、国連による日本への貿易規制の解除などについての話し合いが行われるようになった。
しかし日本の強硬姿勢は依然として続いており、辛うじて経済特区を設けて市場経済の導入が始められたに過ぎなかった。
そうした場所もロシアと国境を接する北海道南部と、朝鮮半島に近い博多地区に限られていて、アメリカ資本が入ることは難しく、どちらの場所も日本政府や軍から酷く監視されたものだった。
今現在も日本とアメリカの対立は日常であり、日本は反米的国家との連携を図ったり武器輸出をさらに推し進めるなど、アメリカの敵、世界の敵としての位置は当面変わりそうにないのが現状である。
※「21世紀の赤い日本」
1998年、日本にとって一つの朗報がもたらされた。
ソ連改めロシアとの間に、北海道北部の返還交渉が成立したのだ。
当時ロシアはエリツィン政権だったが、朝鮮が実質的に崩壊したことに伴い、日本までがアメリカになびくのを防ぐ為の一手だった。
そんなロシアの思惑はともかく、これで日本にとって一つの懸案が解消される事になる。
しかし同地域はソ連への割譲から40年を経ているため、同地域にはかなりの数のロシア人が住んでいたので、ある程度ロシアの権限を認めた上での返還という形になっていた。
また、釧路などにはソ連の軍事基地がそのまま置かれる事になっていた。
そしてロシアとの関係は、ある意味でさらに強まることになった。
国力衰退が止まらないロシアとしても、核兵器を有して太平洋に面する同盟国は希少になっているので、日本との関係は再び強まっていくことになる。
そしてそれから数年後にアメリカから「悪の枢軸」と名指しで非難されるのだが、原理主義勢力の台頭に伴う兵器需要の外貨獲得で生き延びる日本にとって、アメリカの言葉など意に介している場合ではなかった。
兵器輸出のみが、日本がほぼ唯一まともな外貨を稼げる手段だからだ。
21世紀に入ってからの日本は、ロシアを中心とする旧ソ連諸国、東欧の旧社会主義国、反米国家、日本の武器のお得意様の国を通じて、欧米先進国の技術入手に力を注いだ。
先端技術を手に入れて軍備と航空宇宙技術を強化するより、生き残る術がないと考えられたからだ。
武器輸出のせいでアメリカなどから実質的な国際貿易網からの締め出しと、金融面を中心とした経済制裁が慢性化しているので、他に手段が無かった。
しかし一方では、1960年代から大威力の核兵器と地球規模での投射手段を有するため、主に敵対するアメリカにとって日本は非常にやり難い相手だった。
しかも核兵器を使用した唯一の国なので、尚一層やり難い相手だった。
軍事的圧力もあまり掛けすぎると何をするか分からないという、不気味という以上の現実的な恐怖があるからだ。
しかもアメリカは、かつての日本との戦争で戦術的に勝ったことが少ないので、そういう意味でも日本はアメリカにとってトラウマに近い相手だった。
だからアメリカとしては、自分たちと欧州諸国が中心となって作り上げたグローバルネットワークから日本を外す以上の事が出来なかった。
そんな状態の日本とアメリカの関係が大きく改善するきっかけとなったのは、2011年に日本を襲った未曾有の災害だった。
「東日本大震災」と言われた大災害は、日本の東部沿岸に大打撃を与えたが、それは日本自身の手によって世界に広く発信された。
発信にはインターネットが広く使われ、世界中に日本の惨状を伝えることになった。
日本としては、災害対応のまずさで時の政権が倒れることはあっても、体制自体が倒れることは有りえないので、兎に角災害復興の全ての手を使ってみたというだけだったが、思った以上の効果があった。
またアメリカなど諸外国も、これをきっかけに日本の強硬な姿勢が和らぎ、いつかは改まる可能性を考え、積極的な救援、支援を実施する。
結果として、被災国の日本自身と日本を敵視し続けていた国々の多くの国民同士で、敵対意識が大きく低下する効果をもたらした。
しかも日本政府は、依然として続く不景気への抜本的対策として、その2年後に経済体制の一部改定、市場経済の導入という名の資本主義への転身を決定。
従来の南北海道、博多の経済特区だけでなく、日本全土での社会主義体制の事実上の放棄が決定する。
そうしなければ、震災の打撃から立ち直れないと判断されたからだ。
現に、95年の阪神・淡路大震災による被災から神戸が立ち直れていないように、そのような場所は日本各地にあった。
そして市場経済を導入したところで体制の大きな変化はないことを確認した日本は、その後かなり大胆に従来の社会主義体制からの脱却を進めるようになる。
所謂「社会主義市場経済」体制というものだ。
2020年現在、それでもアメリカとの対立関係は続いているし、経済制裁すら一部続いている。日本自身も政治、経済が完全に社会主義から離れたわけではないが、確実に変化しつつあった。
一方で、日本より一足早く復興が進んでいた中華地域との対立が深まりつつあるなど、国際関係は依然として非常に厳しい状況に大きな変化がないのも事実だった。
ただ不思議なことに、日本が常に悪い方向に進むという向きは、20世紀末頃から徐々に減っているというのが一般評だった。
そして、第二次世界大戦からその後半世紀の日本の歩みこそが、少し異常過ぎたのではないかと言うのが、この時点での後世の評価になるのかもしれない。
了
●ちょっといいわけ
え〜と今回は、ヤンデレ日本がチャイナを滅ぼしてみました。
やはり赤い帝国たるもの、これぐらいの悪行を積んでおかねばならないでしょう。
というジョークはさておき、チャイナを無茶苦茶にしたのは、日本発展のフラグを一つでも多く消すためです。
キム王朝コリアを20世紀末で潰したのも、同じ理由に過ぎません。
それ以外の理由は、地図の上から消滅したチャイナで何が起きるかを多少なりとも考えてみるという程度のものでした。
どちらも残っていたら、より大きな破滅をもたらして完全に滅び去る可能性がある反面、幸運が味方して努力が報われてしまったら今のチャイナのように日本が発展してしまうからです。
そして破滅も発展も今回の目標ではありませんでした。
また、さらに悪評を作り上げるためだけに、日本には景気良く水爆を使ってもらいました。
日本が怖くなって核をぶっぱなすように、先にチャイナに悪役になってもらいました。
まあチャイナ(の軍閥)も、何をしでかすか分からない日本が怖くて堪らなかった事でしょう。
なお、書いている途中でチャイナに日本を滅ぼさせようかとも考えましたが、それは冒頭の契約に違反するので(笑)、今回は取りやめました。
一方で、チャイナには最初から中華民国を西側として存続させる流れも考えたのですが、大戦より前に共産党を滅ぼしておかない限り、恐らく中華民国(国民党)に勝ち目はないと判断したので止めました。
第二次世界大戦後の中華民国(国民党)のダメっぷりは、何かの冗談のようにすら思えてきます。
さらに、チャイナが我々の世界同様に残って、さらには一定の発展を遂げた場合、さらに日本とチャイナの関係が東側標準程度で維持されていたと想定すると、日本の状況が現在のロシアと少し似てしまうのではという想定にいきつきました。
場合によっては、チャイナに少し遅れて発展を始める可能性もあります。
ベトナムのような場合もあり得るでしょう。
天皇(皇族)が何らかの形で残っている限り、日本は体制維持にそれほど気を遣う必要がありません。
残念ながら、ノースコリアにはなれない可能性の方が高いように考えられます。
場合によっては、日中蜜月の状態でアメリカに対向してしまう可能性も十分に存在します(それはそれで、ブラックジョークとしては笑えるが。)。
つまり発展してしまう可能性があるのです。
しかし、それではいけません。
だから、後腐れ無くチャイナには滅びてもらい、日本にはより悪役になってもらいました。
なお日本を滅ぼさなかったのは、生かさず殺さずを目的としたからに過ぎませんでした。
日本が完全に滅びた世界というのも、一度想定を組み上げてみたいんですけどね。
それではまた違う並行世界で会いしましょう。
追伸:
一応、多少は明るい未来を追加してみました。
よく考えたら「何者か」との約束は半世紀なので、冷戦崩壊後は悪い方向に向かわせることもなかったんですよね。
バッドエンドばかり考えていたので、すっかり失念していました。
だからちょっとだけマシなエンドを付け足してみました。