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Red JAPAN 赤い日本  作者: 扶桑かつみ
8/9

フェイズ08「第二次日中戦争(2)」

●「戦争」


 日本と中華の戦争は、宣戦布告のないまま中華側の先制攻撃によって開始された。

 しかも、史上初めての核攻撃によって開始される事となった。

 

 1969年8月6日、人民解放軍第二砲兵は5キロトン級の原子力爆弾を搭載したDF-2(東風-2)を日本本土に向けて発射。

 発射は成功し、大規模な軍港が存在する長崎市郊外で炸裂した。

 ただし命中精度が低くかったためか目標位置から3キロメートル以上ずれ、軍用造船所のある港湾部ではなく海岸近くの山の斜面で炸裂した。

 幸いというべきか、爆発威力の多くが都市中心部には放たれなかった。

 しかしそれでも三ヶ月以内の死者だけで3万人以上に達し、軍港も被爆して軍港としての機能を一時的に喪失した。

 

 そして日本は世界初の被爆国となった。

 

 世界初の核攻撃に際して、中華側は日本への懲罰だと全世界に向けて発表するも、世界中では一部軍部の暴走ではないかと強く言われた。

 戦略兵器である筈の核兵器使用が中途半端だったからだ。

 全面戦争する気なら、全力で攻撃を行うのが筋だからだ。

 

 しかし、DF-2(東風-2)はもう2発と実験段階以前と言われていたDF-3(東風-3)1発が同時に発射されていた事が後に判明した。

 だが他の2発の東風-2は、発射及び弾道飛行に失敗して目標に到達しなかった。

 発射には成功した1発については、その飛翔ルートから廣島もしくは呉を狙っていたのではないかと言われている。

 

 実験段階だった東風-3は、恐らくはデータ不足から逆に飛翔しすぎて弾頭が東京を通り越え、東京湾に落着するという結果に終わっていた。

 

 そして東京上空を通過した東風-3については、日本ばかりか米ソなど周辺各国のレーダーにも捉えられており、中華側が何を目的としていたかが明確となった。

 ただし日本にとって幸いな事に、東京湾に落着した核弾頭が起爆する事はなかった。

 核弾頭はそのまま東京湾に海没し、その後日本軍の手によって回収され、研究の後に破棄されたと言われる。

 なぜ起爆しなかったのかなどは、いまだ謎のままだ。

 


 中華側の先制核攻撃に対して、日本政府は最初は恐れ、そして怒り狂った。

 翌日の日本政府公報は、あらゆる報復が許されると、徹底した報復を世界に対して宣言した。

 被爆の状況も、テレビ映像で全世界に配信された。

 しかし日本は即時報復には訴えず、念のため各国の対応を見るようにその後数日は不気味に沈黙した。

 

 この間、ソ連が全てのチャンネルを使って日本に核による報復を止めるように強く要請し、逆に日本政府はソ連に対して全ての共産国による中華総攻撃を強く要請した。

 日本側は、中華は共産主義の裏切り者であり、断固として粛清されなければならないと言った。

 

 しかしソ連側は、条約機構を中心にして各国と対応協議すると返答。

 この返答により、日本は自力での対中華全面戦争を決意するに至ったと言われている。

 

 また世界世論も、日本に対して同情的な報道が多かった事が、日本の反撃を心理面で後押ししたのではないかとも言われている。

 

 なお、この時ソ連書記長のブレジネフは、アメリカとのホットラインで、自らの重要拠点が核攻撃を受けない限り自らは決して戦端を開かないことを伝えている。

 同時に、日中問題に関しては、中華を見放し流民がソ連領に流れ込まない措置を執る可能性があることを示唆していた。

 

 そして三日後の8月13日、中華政府は自らの国際政治上での不利と日本側の沈黙を見て、日本に対して話し合いによる国際会談を提案した。

 日本が核攻撃もしくは全面戦争を躊躇しているのなら、今が全面戦争を止める最後のチャンスだったからだ。

 

 しかし日本は、泣き寝入る気も無ければ、報復を躊躇したわけではなかった。

 日本は、軍国主義を背負ったままの社会主義国だった。

 

 日本は、ただ単に攻撃の準備とタイミングを計っていただけだった。

 


 8月15日、日本軍は報復攻撃を実施した。

 

 首都北京に対して、重爆撃機Tu-95Jベアを用いて核攻撃を実施したのだ。

 

 しかも使用された核兵器は原子力爆弾ではなく、より強力な水素爆弾だった。

 破壊威力は爆発規模から5メガトンに達すると見られた。

 

 この水爆を投下した爆撃機は、日本本土を飛び立った時は中隊規模の編隊に含まれていた。

 そして当初は人民朝鮮北部へ移動する予定の機体とされ、人民朝鮮側もそう考えたものだった。

 正規ルートで通達も行われていた。

 この頃頻繁に行われていた、単なる兵力の移動による抑止戦略だと見られていた。

 人民中華を始め各国の警戒も一応行われていたが、過度の物ではなかった。

 この時日本軍は、開戦準備とも取れる、攻撃行動以外の兵力移動をそこら中で行っていたから、全てを監視、追尾することが難しかったのも原因していた。

 

 しかし全ては欺瞞だった。

 

 編隊はそのまま朝鮮半島を素通りして、速度を上げて一気に北京上空へと入った。

 このため誰も阻止することができず、緊急迎撃に出撃した人民空軍も、日本軍機が3機編隊ずつで幾つもの編隊に分かれ、成層圏高くを亜音速近くで突進してきたためインターセプトは失敗した。

 

 そして今度は、水素爆弾が史上初めて人の上で炸裂した。

 

 この爆発で北京は完全に壊滅。

 合わせて、日本軍は爆撃成功と同時に行動を開始し、各軍事拠点を爆撃もしくは海軍艦艇で攻撃した。

 日本側の攻撃が遅れた理由は、自らの報復による際限ない核攻撃の応酬を恐れたのではなく、自らの反撃体制が整うのを待っていたためだった。

 このため中華側から再度の核攻撃を受けた場合は、その時点での総攻撃を予定していたとも言われている。

 

 5メガトンの核攻撃で、北京の街の中心部半径5キロメートルの円内がほぼ完全に消滅した。

 破壊や壊滅ではなく、辞書通りの「消滅」だった。

 有効破壊半径も実験結果などからの予測通り10キロメートル以上に達し、短時間での死者は最低でも600万人以上に達した。

 中華側の当時の資料が失われたために細かい数字は不明だったが、推定では1000万人程度が短時間で死亡したと考えられている。

 二次災害やその後死亡した被爆者を含めれば、1500万人に迫るとすら言われる。

 日本攻撃に気勢を上げる赤衛兵が紫禁城に多数(数十万人)集まっていた事が、悲劇をより大きくしていた。

 

 爆心地近くの紫禁城は、丈夫な土台や礎石の痕跡を残して跡形もなく消滅した。

 爆心地となった中南海(政府中心部)は、跡形もなくガラス状の表層が覆う荒土と化した。

 

 また核爆発による電磁パルスによって周辺で全ての電子機器が機能停止したため、爆発から生き残った政府・軍・党の施設も機能を成さなくなる。

 それ以前に、爆発による熱や爆風で全てが吹き飛ばされていた。

 貧弱と予測される中華政府の持つ核シェルター程度では、例え破壊されなかったとしても、核爆発の影響が収まるまで生き残ることは不可能とも判定された。

 何しろ真上で大型水爆が炸裂したのだ。

 爆心地はかなりの時間灼熱地獄と化した。

 

 そして予測通りに、中華人民共和国連邦の中央政府がその後声明を発表する事はなくなった。

 中央部の指導者が公の前に姿を現すこともなくなり、中央官僚団、共産党中枢も消滅したと判断が下った。

 中華人民共和国連邦政府は、消滅したと判断が下された。

 また中華首脳部の消滅は、水爆だけでなく日本軍が各地の政府重要拠点、要人の個人的施設を徹底して攻撃したことも影響している。

 


 北京消滅と日本軍の総攻撃により、核攻撃直後から中央からの命令がとぎれたため、人民共和国、人民解放軍や各地の共産党の統制が無くなってしまう。

 国境線各地に展開していた人民解放軍の多くは、自らの郷里に自主的に移動開始した。

 大軍がひしめいていた満州は、極めて短期間で満州人民共和国固有の軍事力しかいなくなってしまう。

 

 なお核攻撃以外にも、日本の海空戦力が中華各地の軍事施設、研究施設、通信施設や、さらには共産党施設、重要工業設備、発電所、港湾設備、操車場、油井・炭鉱など、日本の脅威になりそうなものを、手の届く限り片っ端から吹き飛ばした。

 この攻撃で、日本軍の虎の子である空母機動部隊と戦略爆撃機が活躍した。

 特に核兵器関連施設の攻撃が重視され、放射能漏れや核事故も気にせず徹底的に破壊された。

 ただし核攻撃は、北京への一発だけだった。

 威力に格段の違いはあるが、報復攻撃としてのルールは最低限ではあったが守った事になる。

 

 その後、日本の核攻撃成功とその後の混乱を受けて、既に臨戦態勢にあった人民朝鮮軍が、同一民族救済を旗印に満州人民共和国に「武力進駐」を実施。

 兵力が激減し混乱する満州人民共和国は、まともに対応できなかった。

 対応すべき満州政府も、日本軍の爆撃で吹き飛んでいたからだ。

 かつて日本人が作った長春の軍司令部、党本部なども既に吹き飛ばされていた。

 

 そして他からの増援もまったくないため、50万人以上の軍隊で侵攻してきた人民朝鮮軍の占領下に置かれる。

 

 その後人民朝鮮は、年内に満州人民共和国の併合を宣言した。

 混乱が酷かった現地も、むしろ朝鮮の侵攻と統治、そして併合を歓迎した。

 ソ連も、今後の混乱が確実な中華と接する国境が減るためこれを黙認した。

 

 なお、満州人民共和国が呆気なく崩壊したのは、朝鮮の軍事力が予測よりはるかに大きかった事もあるが、北京が満州固有の軍事力を常に制限し、さらに文革の破壊の対象とされて荒廃が進みつつあった事も強く影響していた。

 

 ちなみに、この時の米軍は、日本軍との戦闘に関われば核攻撃を受ける可能性が高いとして、必要以上に戦闘地域には入り込まなかった。

 日本との戦争になった場合、最終的に勝利できるのは間違いないが、それまでの犠牲者の数とベトナム戦争での政治的状況を加味すれば、とてもではないが武力介入は選択できなかった。

 

 また日中の核兵器使用が、その後ベトナムで核兵器が使用されなかった大きな理由だと言われている。

 



●「戦後」


 戦後中華:


 戦後、中華各地の人民共和国がそれぞれに独立宣言した。

 さらに各地の軍閥が独立宣言や自活状態に入り、大規模な内乱となった。

 文革で既に荒れていた中華の大地は、よりいっそう荒廃していった。

 そして軍閥に率いられた中華各地が勝手に独立を宣言して四五分裂の状態となり、長い時間をかけて最終的に5つの政治組織に統廃合されていく事になる。

 そうして各地の人民解放軍と赤衛兵との衝突などもあって、中華全土が内乱から内戦化した。

 

 戦闘は、共産党支配の崩壊からか、近親憎悪のためか、それとも文革最盛期の悪影響が残っていたためか、激しい殺戮戦や浄化戦争となった。

 また、初期の日本軍の攻撃と戦乱により流通網が破壊されたため、各地が飢餓状態となって餓死者が続出した。

 物流の途絶えた都市の荒廃は特に激しかった。

 疫病もはやり、さらにはインフルエンザが猛威を振るった。

 

 そうして当時8億人に達していた総人口は、内乱の続いた僅か数年の間に約半数の4億人に激減したと見られた。

 都市の多くも破壊と略奪、住民の離散で荒廃し、中華全体が遅れた農業国家へと転落していた。

 

 この間、東トルキスタン、内蒙古にソ連軍が進駐し、最低限の安全保障を提供して勢力圏に組み込んだ。

 ソ連の目的は、自国に流民を入れないために緩衝地帯を得ておくことだった。

 また台湾を有する琉球は、共産主義を見限ってアメリカとの関係を急速に進展させ、以後アメリカの勢力圏となった。

 

 そして1972年の時点で、国連総会の満場一致で国連軍の介入が決定され、ソ連各国境や何とか保持されていた香港などから国連軍が中華各地に入った。

 これで日本が、北京に対してどの程度の核兵器を使用したかが完全に判明し、改めて日本への非難が高まった。

 戦争や報復そのものは国家の権利だとしても、中央政府の存在する大都市への大威力水爆の使用は、戦争行為としても逸脱しすぎているとされた。

 特にアメリカは、自らのベトナムでの戦争と敗北を国民の目から逸らすため、ことさら生き残った日本への批判を強くした。

 

 また人民朝鮮の支配下に入った満州人民共和国は、そのまま人民朝鮮領高句麗自治州と名を変えたが、朝鮮軍が万里の長城付近を完全封鎖したため、皮肉にも荒廃は最も小規模だった。

 

 そして1972年、中華地域での戦争状態は自然休戦を、軍を投入した国連が宣言。

 さらには、中華人民民共和国連邦の消滅を確認。

 戦乱と飢饉、社会基盤の崩壊で、総人口の半分近くに当たる4億人が死亡したと推定された。

 


 戦後日本:


 日本に対しては、1969年の核兵器報復が敵首都への水爆使用だったため、第三世界を中心に国交を持っていた国の多くが国交を断絶した。

 ソ連を含めた東側諸国は国交断絶こそしなかったが、交流は東欧諸国を中心にほとぼりが冷めるまでは最低限となった。

 報復とは言え、相手国首都を水爆で吹き飛ばす全面戦争は流石にまずかった。

 東欧を始め欧州各国は、ソ連や西側の核兵器保有国に対する恐怖を強くしたからだった。

 

 アジアの他の共産国は、当初は助けてもらった人民琉球と親密な関係だった人民朝鮮が国交を保ったが、琉球はアメリカと急速に和解したため日本の側から交流を絶つことになった。

 また人民朝鮮も、満州への侵略で各国との国交が大きく後退していた(※人民朝鮮は、民族自決国家として早くから国連に加盟していた)。

 

 戦後日本は、各国との国交が大きく後退したため、経済的な困窮に見舞われた。

 特に東側陣営との交流減少によって食料輸入が滞ったため、国内の食糧供給が危機に陥っていた。

 国内の食料自給力が8割程度だったため、国民のかなりの数が飢餓線をさまよう状態までが予測され、日本国内は食糧危機が叫ばれた。

 

 これを見かねた人民朝鮮が、国交を維持していた事と満州を手に入れた事から日本との貿易を大規模化する。

 人民朝鮮は、人道支援と日本の暴走抑止を強調して国際非難をかわすと共に自国評価を挙げるように動き、日本からは様々な物を得ると共に日本への大きな貸しを作った。

 しかもその後、満州を握る人民朝鮮は日本にとっての生命線となり、両者の関係は友好的ながらも微妙なものとなっていく。

 日本から人民朝鮮への「援助額」の大きさと人民朝鮮での核兵器開発の進展、海軍の発展が、その微妙さをよく現していると言えるだろう。

 

 そして水爆まで使用した国として国際非難にされされた日本は、国連への加盟どころか再び世界中から非難の対象として見られるようになる。

 さらには、水爆を使用したとして恐怖の対象としても見られるようになった。

 特にアメリカは、自らのベトナム戦争での批判を、日本への批判へとすり替えるべく強力に運動していた。

 

 当然ながら日本は国際孤立を深くして、噂が沈静化して東側諸国との交流がある程度回復してからも、国連加盟を認められることはなかった。

 

 そして以後の日本は、東側でも特に凶暴な軍事国家として位置づけられ、大日本帝国から何ら変わりない「悪の帝国」として定義付けされるようになる。

 

 当然ながら、中華の生き残りからの恨みはもはや天井知らずとなり、日本国内もしくは海外での対日中華系テロはその後日常のものへと変化していく。

 


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