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Red JAPAN 赤い日本  作者: 扶桑かつみ
7/9

フェイズ07「第二次日中戦争(1)」

 2度目となる破滅的な日本と中華地域の戦争を見る前に、まずは第二次世界大戦から戦争に至る時系列を整理していきたいと思う。

 


・年代順経緯


1940年代


 41年:

12月:「真珠湾奇襲攻撃」 太平洋戦争開始


 42年:

5月:珊瑚海海戦:アメリカ敗北

6月:ミッドウェー沖海戦:アメリカ敗北

11月:アメリカ、ソロモン諸島から一時的に撤退

   同月アメリカは戦争方針を変更


 43年:

6月、ノルマンディー上陸作戦:


 44年:

1月:ヤルタ会談:

3月:ドイツ降伏:

5月:ポツダム会談:

6月:ソ連対日参戦:

10月:沖縄沖海戦:アメリカ軍侵攻部隊壊滅

10月:ソ連北海道侵攻:


 45年:

1月:日本、ポツダム宣言受諾 :

1月:ソ連、日本単独進駐:

4月:中華地域、国共内戦再開:


 46年:

3月:第一次インドシナ戦争:

5月:日本国憲法発布:


 47年:

トルーマン・ドクトリン:

マーシャル・プラン:

モロトフ・プラン:


 48年:

東亜赤化:旧大日本帝国領内は、日本、琉球、朝鮮の民族自決共産主義国家として再建が進む。

 

5月:日本、「血のメーデー」

アメリカ軍、日本包囲。日本の反米意識再び急上昇。

 

 49年:

中華人民共和国連邦成立:北東アジアが完全に共産化。自由主義陣営の危機感増大。

 


1950年代


 50年:

マッカーシズム(レッドパージ):アメリカで「共産主義者狩り」が進む。アメリカでの対日批判も強まる。

 

インドネシア内戦:オランダは撤退したが、新政府と共産主義陣営が各地で戦闘。

日本人は、個人レベルでの政府軍支持と国レベルでの共産党支持に分かれる。混乱は長引く。

 

日本とアメリカの西太平洋上での対立激化。

 

 51年:

国連総会で、日本の国連加盟見送られる。独立承認問題が原因。

 

 56年:

スターリン批判:

共産陣営に動揺と亀裂。

人民中華と他の共産主義国の間に大きな溝。

日中対立始まる。

 

ハンガリー動乱:東西両陣営で緊張が高まる。

 

第二次中東戦争:英仏没落強まる。

 

 57年:

スプートニク・ショック:

ソ連人工衛星打ち上げに成功。

同時に大陸間弾道弾を実戦配備。

西側に強い焦り。

 

 58年:

カシミール紛争:

インド・中華衝突。国内意思を固めるための中華側の陰謀。

 

中華、大躍進政策を実施するも大失敗に終わる。中華経済が一時的に壊滅。

中華と東側各国との関係も悪化。

特に日本との対立が強まる。

 

 59年:

キューバ革命:

共産主義の拡大。アメリカの危機感増大。

北東アジアでの共産主義陣営内の対立を煽るようになる。

 


1960年代


 61年:

日本、フランス相次いで原爆実験:

世界的に核兵器の拡散に懸念が広がる。

共産中華、日本に対する警戒感上昇。

 

日本、「もはや戦後ではない」発言。

戦後復興が大きく進んだと言われ、東側第二の共産国として浮上。

実際、ソ連からの技術供与、資源の安価輸入で経済と産業は大きく発展。

 

 62年:

キューバ危機:核戦争の危機。

アジアの重石が、アメリカの強硬姿勢を自重させたのではないかと言われる。

事実西部太平洋上では、日米の大艦隊同士が睨み合い状態となった。

 

 64年:

フルシチョフ失脚:ソ連で政変。

対外リアクション能力が若干低下。陣営内の統制力も低下。

 

中華、原爆実験:関係悪化していた日中の対立がいっそう深まる。

 

 65年:

第三次中東戦争:イスラエルの一方的勝利。

中東問題が、本格的にソ連にとっての不安要素となり始める。

 

日本、太平洋上で水爆開発:西側諸国が非難。

中華の警戒感も大きく上昇。日本との対立が一層深まる。

 

 66年:

ベトナム戦争開始:

中華、日本、人民朝鮮など、北東アジア各国がソ連と共に北ベトナムを強く支援。

 

中華、文化大革命開始:中華国内は事実上の内乱化。

殆どの国が関係を断絶。大使館も引き上げ。

中華と東側陣営の関係が極度に悪化。

 

 67年:

日本、人工衛星打ち上げ成功:西側が非難。中華に強い焦り。

 

日本、大陸間弾道弾実戦配備:

日中の対立激化するも交渉窓口がないため対立が一層深まる。

互いに非難合戦となる。赤衛兵が中華内の日本資産攻撃。

 

 68年:

テト攻勢 :アメリカ政略面で敗北。

アメリカの反戦運動が大きく増大。

軍事的リアクションも取りにくくなる。

 

 69年:

第二次日中戦争:

日中核兵器実戦使用:

中華の先制核攻撃:多くが失敗するが、日本の長崎が世界初の被爆地となる。

日本の報復攻撃:北京消滅。

第二日中戦争勃発:中華人民共和国連邦崩壊。

 



 ※「第二次日中戦争」(1969年)


・経緯:

 第二次世界大戦以後相次いで成立した日本、中華では、建国以後の日中関係は日本が事実上の戦時賠償を中華に様々な形で支払う形になっていた。

 

 これは資本主義から社会主義体制への移行で混乱していた日本経済にとって、負担も小さなものではなかった。

 当然ながら、日本側に大きな不満を持たせるようになる。

 しかも日本では、中華側の方が遅れて共産主義国になったということで、戦前から引き続いて見下す感情が絶えず維持されていた。

 

 1956年のフルシチョフによる「スターリン批判」では、日中間で最初のイデオロギー対立が発生した。

 これが高じて、1958年の中華での「大躍進政策」では、日本の統一社会党書記長の岸信介が開始前に大躍進政策をこき下ろして日本国民は喝采したが、中華共産党の書記長毛沢東は激怒した。

 一方の日本経済は、ソ連からの技術輸入と安価な資源輸入で経済と工業の発展を続けていたので、両者の違いは明らかだった。

 

 以後の日中関係が関係が悪化し、同時に関係の冷却化が急速に進んでいった。

 日本から中華への投資や援助も、1958年を境にほとんど途絶した。

 これは互いの反目をさらに醸成する土壌となり、文化大革命初期の段階で日中の政治面で対立が決定化するようになる。

 それでもまだ国交断絶などには至らず、ソ連の仲介もあって最低限の関係は維持されていた。

 上海に再び進出していた日本人も、ほぼそのまま仕事を続けた。

 

 しかし1966年、中華で一種の政治闘争である「文化大革命」始まる。

 この激化により中華全土がほぼ内乱状態となり、漢民族と周辺民族(共和国)との間に大きな対立が発生した。

 しかも中華政府中央部は機能を低下させ、無軌道に暴れる赤衛兵を止めることが出来なかった。

 しかも中華内は連邦国家のため、各地は独自の軍隊を持つため、人民解放軍を前面に出した赤衛兵と地方軍の戦闘にまで発展した。

 

 そして中華は、自らの内政上の抗争を外に持ち出す事で、国民のガス抜きを行って事態を解決しようとした。

 


 中華広報は突然のように、日本の社会主義政策(官僚主導の経済政策)を修正資本主義だと強く批判した。

 また天皇を保全していることに対しても、共産主義にあるまじき体制にして封建的だとして非難を強めた。

 

 当然日本側の強い反発があり、大躍進政策を前近代的な遅れた思想で、毛沢東は全体主義を越えるほどの独裁者になろうとしているとして強く非難仕返した。

 

 これで日中両者の政治的対立が完全に悪化し、非難合戦の後に双方の大使引き上げにまで発展していった。

 

 そして両国の反目は民衆の間にも広がりを見せ、その一番の先鋭的集団である赤衛兵による中華での日本邦人襲撃事件が多発した。

 日本政府は、中華側に国際法上での対応を要請するが、当時統治能力そのものが低下していた中華側に反応はなかった。

 むしろ、誰とも分からない者達が、赤衛兵を煽るような行動ばかり取って日本側の反発が一層強まった。

 

 そして日本政府は、自国民の保護を理由にして中華渡航禁止と邦人引き上げを決定。

 

 赤衛兵の中華国内での日本叩きは収まらず、いつの間にか同じ社会主義国家である日本は大日本帝国扱いとされ、これを中華政府までが公式に発言して深い外交問題にまで発展する。

 

 日本政府も黙っておらず、文革を徹底的に批判し、非難した。

 さらに日本は、中華に対して国交断絶を宣言。

 中華も対抗外交として日本の大使館を閉鎖した。

 

 それに連動して日本は、中華各地からまだ残っていた邦人の一斉引き上げを実施。

 同時に引き上げられる限りの自国資産引き上げも実施し、最後に大使館も引き上げた。

 引き上げに際しては、東シナ海に艦隊を置いて威圧したほどだった。

 

 当然中華側も全く同じ措置を取り、日中は完全に国交断絶してしまう。

 

 この日中の対立と中華での文革を警戒した中華と国交を持っていた各国も、文革を理由に中華との国交断絶と在留邦人の一斉引き上げを実施した。

 被害が及んでいたのだから、当然の結果であり、中華地域に外国人はほとんどいなくなった。

 上海に残っていた日本人以外の外国人のほとんども、日本人の撤退に便乗する形で逃げ出していた。

 

 これに対して西側諸国は、内輪もめ、国家同士の内ゲバということで当初は笑ってみていた。

 イギリスが大使館を置いていたが、これを他国に連なる形で引き払ったのが具体的な行動だった程度だ。

 

 かくして中華は国際的に完全に孤立してしまう。

 

 そして当面拳を振り上げる先を失った無軌道な赤衛兵は、今度は海外に拳の振り上げ先を求めるようになる。

 

 そして彼らの間で謳われたのが、日本への攻撃と並んで祖国回復運動だった。

 

 俄に琉球人民共和国の台湾奪回を掲げ、洋上での国境紛争が発生するようになる。

 赤衛兵の船は小さな漁船ばかりだったが、非武装でも数が多すぎて十分な脅威となっていた。

 小規模な琉球人民軍では対処できず、赤衛兵の上陸事件も発生していた。

 

 国力の小さい琉球政府は、共産各国に支援を要請。

 日本とソ連は、艦艇派遣を実施して赤衛兵の動きを実力で封じた。

 

 そして日本政府は、かつて自らの領土としていた琉球の庇護を本格化。

 大規模な海・空軍を派遣して、支配力を強める動きに出た。

 この頃には日本の海空戦力も相応に復活しており、太平洋ではソ連海軍よりも有力な存在となっていた。

 まともな工業力のない中華側に対抗できるだけの海空戦力はなかった。

 

 そして日本の軍事力に恐れを抱いた中華側は、対日反発をいっそう強めるようになる。

 

 ただし正面からの戦闘などは考えておらず、台湾などに対する赤衛兵船団の上陸とテロ行為を実施して、赤衛兵のガス抜きと日本への強硬外交対策とした。

 またこれは、日本と本格的な軍事衝突をしないという中華側からのメッセージでもあった。

 中華側としては、琉球か日本のコーストガードが出てくれば、適当に暴れた後で引き下がる積もりだった。

 

 しかし政治的メッセージを理解しない日本側の過剰反応を誘発してしまい、日本は海空軍を投入して赤衛兵を実力で撃退する。

 つまり軍隊を用いて、貧弱な漁船などに乗り込んだ赤衛兵を容赦なく粉砕してしまった。

 国際法の上では、日本軍の行動が正しいものだった。

 

 そして当然と言うべきか、中華側では自国民が殺されたとして強く反発。

 台湾海峡でにらみ合いとなる。

 

 これで追いつめられた中華政府は、自国民に対する政策として、日本資産の接収と資産凍結を宣言に追いやられた。

 政治組織、官僚組織がまともに機能しない状態なので、大味な行動しか取れないのがこの頃の中華中央政府の状態だったのだ。

 

 当然ながら日本政府は資産の返却を求める声明を出すが、互いに大使館もないのでまともな交渉にはならなかった。

 

 そして両者の対立はエスカレートし、台湾海峡での軍事的緊張を強める結果となった。

 

 ついには、日中両軍機による威嚇合戦に発展。

 膨大な数で押す中華軍機に、日本機が事実上撃墜される事で、事態は次なるステージへと至る。

 

 中華側の「軍事恫喝」に対して、日本政府は事実上の最後通牒発言を実施。

 その中で日本の首相は、外交的発言として「核兵器を用意する事も辞さず」と言った。

 

 ここでソ連が大規模な仲介に乗り出す。

 日本側の目的も、ソ連を引っ張り出すことにあった。

 

 これに対して西側諸国は、日中両国を国家としてまともに承認すらせず国連にも加盟していない(させていない)ため、外交的に何かをしたくても実質的に何もできなかった。

 仕方なくアメリカは、フィリピン、グァムの海空軍を増強。

 太平洋に空母機動部隊が展開し、ベトナム沖にいた空母機動部隊も日中寄りに移動させた。

 軍事的抑止以外に手段がなかったからだ。

 しかしこれは日中双方の反発を招き、事態を悪化させただけに終わった。

 しかも両国は、テト攻勢以後のアメリカの政治的弱腰を見抜いており、実質的に何も出来ないだろうと高をくくって、アメリカの軍事的恫喝を自国国民に対して政治利用しただけだった。

 

 そうした中で、ソ連仲介によってハバロフスクで日中外相会談が行われるが、妥協点を見つける事もできず物別れに終わる。

 

 中華側は、日本の方が核戦力で勝るために強い焦りを持ち、事実上の臨戦態勢へと入った。

 

 これに対して日本側は、自らが軍事的に優位にあるため警戒レベルは中華側より若干低く押さえられていた。

 ただし両国がほぼ臨戦態勢に入ったことは間違いなく、近隣のソ連極東軍や人民朝鮮でも警戒態勢が強化される。

 ソ朝両国の満州国境の軍事力も増強された。

 当然中華側が反発を示し、既に殺気立っていた事もあって国境各地で発砲事件も多発し、ソ朝両国のさらなる警戒感と軍備の増強という悪循環を繰り返した。

 

 満州国境地域だけで、三国合計で150万人近い軍隊が溢れるようになる。

 

 そして近隣の緊張増大を受けて、当事者である日本も、警戒態勢を事実上の戦時体制にまで強化した。

 

 人民解放軍、全軍に準戦時体制を命令。

 第二砲兵にも命令が下った。

 

 気が付けば、状態は既にキューバ危機の時の米ソよりも悪い状態だった。

 


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