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Red JAPAN 赤い日本  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ05「赤い占領統治」

 1946年2月11日、日本の東京ではソ連軍による間接統治(占領統治)開始を記念した軍事パレードが行われ、以後もこの日は「建国記念日」として祝われる事になった。

 ソ連側の日本への当てつけであると同時に、ソ連が日本を赤くする事への意気込みを見せる日時選択であった。

 

 それまでに、政治家、右翼、官僚の一部のパージもしくは再教育さらには主義の変更は、ソ連の占領統治以後「順調」や「予定通り」という以上の表現を用いる速度で進んでいた。

 日本国内の内部対立すら利用して情報不足を補い、邪魔な者は冤罪で排除した。

 当然ながら日本人の反発は強まったが、多くは強権で押さえつけるも、一部では飴も見せた。

 一方では進んで協力する者も多く、特に官僚団は自分たちに累が及ばないと分かり、またこの時の変化を体制刷新の大きな機会と考えて行動した。

 

 占領開始から三ヶ月の時点で、既に「赤い憲法」の作成作業にまで入っていると言われていた。

 

 この中で以前と代わらなかったのは、驚くべき事に昭和天皇が依然として日本の国家元首の地位に存在していることだった。

 占領統治早々にも昭和天皇と占領軍総司令官ジェーコブ元帥の会見も行われたが、この事件は天皇の廃位や排斥とは正反対の保全をソ連側からも後押しさせる切っ掛けになった。

 

 ジェーコブ元帥が昭和天皇を絶賛し、さらに日本人の統治のためには天皇の保全こそが最短の道のりであるというレポートが提出されたからだった。

 ジェーコブ元帥は、昭和天皇は日本最高の紳士であり、共産主義精神の体現者だと言ったと言われている。

 なぜなら2600年続く血統を持つ古代王朝の末裔である天皇は、存在そのものが古代の原始共産主義の体現者であるからだとされた。

 ソ連の支配者であるヨシフ・スターリンも、「自らの戦勝記念」として日本の古い支配者の存続を認めた。

 世界で最も古い物を「持っている」というステイタスが重視され、反論は一切許されなかった。

 「余計なこと」をした者が粛清や左遷すらされたほどだった。

 スターリンにとってのアメリカの鼻をあかす最高の勲章の一つに文句を付ける愚か者も、ソ連国内にはいなくなった。

 

 無論日本の民意も、天皇(皇族)の存続を強く望んでいた。

 反論を唱えた一部の無政府主義者などは、早速粛清のリストに加えられたとすら言われる。

 

 合理的に考えるソ連人の多くも、統治コストの削減という点を最重要視して自分たちの内心を納得させた。

 

 そしてここに君主を戴いた共産主義国という、世にも奇妙な国家成立の道筋が作られる材料が揃っていく。

 

 また、日本の占領統治で威力を発揮したプロパガンダが、戦前と変わらぬ「鬼畜米英」だった。

 日本列島に入り込んだソ連の宣伝将校達は、自分たちの悪行を天空よりさらに上に上げて日本人の復讐心を煽り、アメリカが日本本土侵攻の意図をまだ持っていると不安を煽る事で、自らへの反感を反らせていた。

 事実アメリカ海軍は、日本本土近海に遊弋し続けていた。

 アメリカ海軍と熾烈な戦いを演じた海軍は、日本ばかりかソ連ですら英雄扱いされた。

 実際、日本海軍が差し違えでアメリカ海軍の有力部隊を消してくれた事は、ソ連の国益に大いにかなっていた。

 

 加えて言えば、既に現世いない英雄こそが、最も価値の有る英雄だった。

 


 そうした中、1945年2月頃にアメリカ以下連合国の連名で日本本土の共同占領統治が提案される。

 

 しかしソ連政府は、ヨーロッパでの戦い同様に、先に占領した者がその地の統治を行うという原則を持ち出し、日本本土の占領統治は既に進駐を果たしたソビエト連邦の重大な責任だと言い切ってしまう。

 無論この裏には、ドイツに踏み込めなかった恨みが多分に含まれていた。

 

 また一部のアメリカ人は、対日戦で一番血を流したのがアメリカなのだから、日本本土占領はアメリカに権利があると言った。

 しかしこれに対してソ連は、ドイツとの戦いで最も多くの犠牲を出したのは我がソ連邦であると言って、相手を黙らせてしまった。

 

 要するに、アメリカにやられた事をそっくりやり返しただけ、というわけだ。

 

 無論完全に拒絶するほど愚かでもなく、日本の首都東京にはアメリカ政府からの役人や軍人が、連合軍として受け入れれれた。

 占領統治の一部にも参加させた。

 アメリカからの援助なども、条件付きながら受け入れた。

 しかしアメリカン・ボーイズは、寸土も日本に触れることはできなかった。

 


 一方でソ連は、日本のポツダム宣言受諾と共に日本本土に侵攻したが、他の東アジア地域でも進撃速度を大きく上げていた。

 この結果、中華地域の揚子江地域にまで日本軍の駆逐を理由として「進駐」を行い、多くの占領地を得ていた。

 

 いち早く台湾に進駐したのも、上海から台湾に至った一部のソ連軍将兵ばかりではなく、半数程度は彼らが連れて行った中華共産党の兵士達だった。

 中華民国は、アメリカの後ろ盾が無ければ全く何もできなかったし、しようとしなかった。

 日本軍に奥地に押し込まれていたのに、その日本軍の占領地にまで共産主義者の親玉が押し掛けてきては何かができる筈もなかった。

 

 当然ながら、ソ連占領下の中華地域で共産党が優遇され、国民党はなかなか重慶から出ていくことが難しかった。

 現地アメリカ軍軍事顧問などもソ連の動きに抗議したが、数の差、戦力の差から具体的行動に出ることは難しかった。

 アメリカの軍事力が大陸に展開されるのは、最低でも数ヶ月先のことだった。

 

 しかも現地日本軍は中華民国に負けたとは考えず、ソ連側も国民党封じのためこの心理を利用して、さらにはソ連が後ろ盾となって共産党に支配領域の拡大を行わせた。

 そしてこの過程で、時流を見た中華各地の軍閥の多くがソ連もしくは中華共産党になびき、大陸の地図が瞬く間に真っ赤に塗り代わっていった。

 

 アメリカが様々な方法で北東アジア外交の挽回を図ろうとしたが、中華民国の再編成に際して、国民党と共産党の勢力を半分ずつにするというのが当面の限界だった。

 しかもこのことを国民党というより蒋介石が受け入れず、さっそく内戦再開の機運が高まっていた。

 

 なお、北東アジアでのソ連軍の占領地拡大は、東欧での失点と重なって一つの動きを見せていた。

 ソ連の一部の将校、政治将校、官僚達が東欧での失点を取り返すべく、自らの功績づくりに躍起になったのだ。

 

 しかも一部は、ソ連が世界で指導的地位を得るために、新たな赤い国家を一つでも多く建設する事に熱心となった。

 このためソ連邦以外での「民族自決」型共産主義国家という考えが急速に浮上した。

 ソ連の外務を預かる者達も、国連での発言権向上に繋がるとして、一部で考えを支持した。

 スターリンも「友人」を増やすことを是とした。

 

 一番のターゲットは、赤い国家としての再独立が確実な日本列島と朝鮮半島だった。

 しかし他の地域でも、徐々にこの動きは大きなうねりを見せるようになる。

 そしてこれに反発したのが、味方というより手下に過ぎない筈だった中華共産党だった。

 ソ連が東トルキスタンや満州、台湾など、彼らが「中華」だと定義している各地で民族主義的共産党の設立を熱心に行うようになったからだった。

 しかも全ての共産党が極度の親ソ連派であり、旧清朝領域復活による祖国統一を最終目標としていた中華共産党にとって甚だ都合が悪かった。

 にも関わらず、台湾と沖縄では二つの地域を歴史の曲解によって民族自決させるべきだと解釈して、日本と中華から切り離して一つの国とする算段までが勝手に進められた。

 そしてまともに自力で海を渡れない中華共産党は、何も出来なかった。

 

 またソ連は、当面日本人の心を自分たちに引きつけるために、日本が作り上げた日本に物資を注ぎ込む物流システムを維持して、日本本土への物資供給を継続した。

 無論帰りの船には、日本で手に入れた膨大な量の金目の物(貴金属や工芸品から移動可能な社会資本に至る)や工業施設などが満載されていたのだが、多くを知らされていない日本人には円滑な食糧供給をしてくれるソ連赤軍と共産党員は、日々の生活に無くてはならないものだった。

 

 そしてソ連の日本での「円滑な」統治のためには、朝鮮半島、満州、華北などはすぐに中華共産党に渡すわけには行かず、満州では依然として日本人官僚と財界人が日本のために働き続けていた。

 

 これも中華共産党、朝鮮共産党にとっては大いに不満だったが、比べるのも愚かしい力の差もあってソ連の行動は絶対であり、内心の不満だけを高めることになる。

 


 そして何とか食糧供給体制が維持されていた日本では、国粋的、帝国主義的なものが共産主義的、社会主義的なものに置き換わる作業は急速だったのだが、変わらないものが幾つかあった。

 

 「帝国」が「人民」に書き換えられただけと言われる作業の始まりだった。

 

 一番大きなものは、中央官僚制度の維持継続だった。

 無論一部の人間はパージされたが、ほとんどは変わることはなく、むしろ若い人材が登用され古くさい制度が廃止されたことで、組織としては大きく健全化した程だった。

 

 次に、海洋及び海岸防衛を主軸とする軍事力の維持も変化は小さかった。

 無論管理は一時的にソ連軍が行うものが多かったし、軍組織内に政治士官が新たに組み入れられたのだが、結局日本軍が全面解体される事はなかった。

 

 日本軍は一時的に解体されて名前も復員省に変更し、各地からの日本人引き上げ業務を行った。

 しかしその間に将校、下士官を中心に思想の再教育が行われ、急速に「反米」で一致団結した「人民軍」へと変化しつつあった。

 特に海軍はロシア人よりもアメリカを敵として見る向きが強かったので、すぐにも適応していった。

 ソ連への反発がないわけではなかったが、新たな国家体制で目的を持つことは、軍隊という特殊な組織には是非とも必要だったからだ。

 

 しかも英米の影響圏からの復員事業が、主にアメリカの「妨害」によって遅延しているため、日本人の反英米感情は高まりこそすれ小さくなることはなかった。

 

 なお米英軍影響下の日本占領地に取り残された日本人の数は、中華地域南部を含めておおよそ150万人。

 外地の日本人全体で約700万人なので、比率的には少ない事になる。

 しかしアメリカは、これを利用して日本の共同占領を行おうと画策したため、復員は大きく遅れることになった。

 しかもその過程で、小さな島嶼などでは食料不足で飢餓状態や餓死する者も続出したため、帰国者を中心とした日本人全体での反米感情をさらに高める結果しか残さなかった。

 

 一方のアメリカも、日本人との戦いの終盤に一度に20万人もの戦死者を出した事から日本人に対して市民は冷淡であり、両者の心の溝は戦後一層深まったと言われている。

 

 そしてソ連は、日本人の反米感情を利用して日本の占領と作り替えを熱心に行い、ピラミッドの頂点だけをすげ替えた軍国主義体制のまま、日本の赤化を推し進めた。

 

 しかし問題は皆無ではない。

 中でも問題だったのが、日本人により作られていた共産党そのものにあった。

 


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