11.旅の始まり<1>
頬を何かが舐めている、そんな感触で目が覚める。
頭が疼くように痛い。二日酔いしたみたいな感じだ。
昨日、飲み会だったっけ。
でも飲み会はおろか、接待すら行ける状態ではなかったはずだ。
海外との打ち合わせで昼夜もへったくれもなかったのだから。
向こうは朝でこっちは深夜。そんなことばかり。
しかし、目が覚めたということはきっと朝なんだろう。
「うう……今、何時……」
スマホを手探りで探す。
すると何かにぶつかる。もふもふとして触り心地がいい。
「んんっ、ごしゅじん……そこは」
家にこんなクッションあったっけ。
でも、気持ちいいからいい。随分と大きい。
「っ、あっ駄目……付け根は敏感、ふぅっ、あっ」
耳元で少しハスキーな嬌声が震わされれば、意識はたちまち覚醒する。
触っていたと思われるものから手を離し、一気に起き上がろうと――左腕と肋骨に響くような痛みが走った。
「いてててて……」
堪らず脇を押さえた時、あちこち包帯や湿布だらけになっていたことに気付く。
それに、視界の左端に居座るHPゲージが満タンではなかった。
痛むのは回復途中だからか。あれ、Lv.7になってる。
「って……そっか、俺フィフスマギナにログインしてて……」
段々思い出してきた。ギムリに殴られ、縛られ、グリムファングが出てきて、あの狼がリルで――リルはどうなった?
ふさふさとした何かが視界の端で揺れる。
視線が横に向く。
そうだ、そもそもあのとんでもない声の主は一体。
「ごしゅじん……」
俺の隣で、瞳を潤ませた銀髪の美少女が息も絶え絶えに俺を見つめていた。
服というより布を纏ったような姿で白く眩しいお腹が荒い呼吸に併せて浮き沈む。
それに、ぴくぴくと動く尻尾と頭の上の獣耳。
「もう、してくれないの……?」
汗ばんで、赤らんだその切なげで期待に満ちた表情は、あまりにも淫靡。
血の気がさっと引いていくのが分かった。
背筋に冷たい汗が流れ落ちていくのもはっきりと感じられる。
――これは、これは、これはもしかしてもしかするのか。
呼吸が浅くなっていく。
「……ど、どちらさんで……」
俺の言葉に、スッと目が細められる。
ライトグリーンの瞳は切れ長でまるで肉食獣のような鋭さがある。
思わずひっ、と悲鳴が口から出てしまった。
「――むー……ごしゅじん、また忘れちゃったの?」
「え、忘れた?」
「酷い、酷いよ、ごしゅじん。私は一度も忘れたことなんてないのに!」
「え、あっちょっまって、噛むなっ、噛むなよ」
「ごしゅじんが忘れないように、痛みで覚えてもらうっ」
がばっと起きたかと思ったら、銀髪美少女はいきなり俺に噛みついてきた。なんだその理屈は。
がうがうと言いながら、肩や首を噛んでくる。
激痛というほどではないが、犬歯の辺りが鋭いのかちょいちょい刺すような痛みがある。
「いてっ、いたっ、だから俺にこんな美少女の知り合いは」
いや、待て。
美少女の知り合いは居ないが、噛む知り合いはいるだろう。
いやいや、待て待て。
細い肩を掴んで強引に引っぺがす。
いやいやいや、待て待て待て。
ライトグリーンの瞳とその顔、そして耳や尻尾を確かめる。
「お前、まさか……リル、か?」
想像しうる限り一番あり得ない考えがつい、口から出てくる。
「……んもう。ごしゅじんは忘れっぽい。リルだよ、ごしゅじんの契約魔獣」
しかし、それは正解だったらしい。
本人だとアピールしたいのか、歯を出してその鋭さを見せてくる。
さっきこれに噛まれたのか、結構鋭い。痛い訳だ。
「いや、だって……狼……」
「尻尾あるもん。私もよく分からないけど、ごしゅじんが倒れる寸前で急にこの姿になって戻れなくて」
――おめでとう、リルは狼からケモミミ美少女になった!
ここに来て、遥か昔に流行ったモンスター育成ゲームのワンフレーズを思い出す。
いや、そうじゃないんだよ。そうじゃなくて。
駄目だ、起こっていることは認識しているが、理解が追いついていない。しかも戻れない?
さらに、ナチュラルに会話までしていることに違和感を持つべきだった。
人間の姿になったから喋れるようにでもなったというのか。
あれか、新要素なのか。
サービス終了直前だから既存要素なのかもしれないけど。
「擬人化に会話機能……引退してた五年弱に何があったんだ運営……!」
「うん、えい……?」
「あー、いや何でもないんだ……そうか、お前リルか……」
俺の知っているリルは狼型の魔獣であり、こんな首を傾げた美少女ではない。
しかし、そう思えば思うほど、彼女にどこかリルの面影があるように見えてくる。
試しに手を出してみると、頭を擦り付けてくる。
ああ、間違いない、リルだ。
三角形の獣耳の独特の感触と心地よさと共に、謎の納得感が自分の中に芽生えてくる。
HUDの<Haru 魔獣操師 Lv.7>と、ちょっとだけ小さく表示されているから意識出来ていなかったもう一つ――<Ril 契約魔獣 Lv.7>。パーティが増えている。
契約魔獣タブの契約スロットの中にも、<Ril・シルフィードウルフ 契約中>と、ちゃんと明記されていた。
「良かった、そっか……良かった」
グリムファングが彼女を傷つけたあの光景が蘇る。
しかし、見る限り傷も残っていなさそうだし、ステータスが相当低くなっているのは気になるがHPもきっちり満タンになっている。
つまりは無事、なのだ。ちゃんとここに居る。生きている。
彼女を抱きしめていた。
「わっ、ごしゅじん……」
「ずっと、気付いてやれなくて……ごめんな」
「別にいい。寂しかったけど……私がごしゅじんのことを忘れない限りきっと思い出してくれるって、信じてたから」
優しい声。ぎゅっと抱きしめ返される。
しかし、背中に回された手は少し震えていて、爪が食い込むほど力が入っていた。
「……そうだ、リル。あれからどうなったんだ。それにここは……」
立てられた爪が収まるまで落ち着いたところで、ようやく現状把握にまで頭が回り始める。
壁に刻まれたナイフの傷。ヨルム村で借りていたあばら家の中だというのは分かった。
しかし、気絶してからのいきさつは当然俺の記憶にはない。
「そうだ、そうだよごしゅじん。ここから早く逃げないと」
ピンと彼女の耳と尻尾が立ち、はっとした様子を見せる。
「逃げるって、何で」
急に扉が開き、リルが立ち上がった。
現れたのは、袋を背負った村長だった。
「ああ、良かった。ハルさん、目が覚めたのですね。どうにか間に合った」
声音こそいつもの穏やかなものだったが、表情は険しい。
リルは無言で村長を睨みつけている。今にも襲い掛からんと低い姿勢で構えていた。
「おい、リル。この人は敵じゃ」
「いえ、そういう訳にもいかなくなりました」
「え?」
「……時間がありません。手短に説明しますが、黒の狼を倒し貴方が気絶した後、村は大騒ぎになりました」
「大騒ぎって……他にも魔獣が?」
「ええ、まだ残っているでしょう」
残っている? あの時確実にリルが殲滅したはずではなかったのか。
すると、村長の視線が俺ではなくリルの方に向いた。
「あの銀の狼、そこのお嬢さんですよ。一瞬で魔獣を殺戮し、しかも人間に化ける魔獣……村の皆は恐怖しています」
「リルはそんな……あのグリムファングと一緒にしないでください、こいつはそんなことをしない」
「ええ、私は少なくともそう信じています。でなければ、昨日手当もせず放置して貴方が死ぬのを祈るしかなかった」
一瞬の安堵。しかし、その後の言葉に、息が詰まる。
「ですが、ギムリが相当に焚きつけ、そして奴も含め相当の人数が魔獣に食い殺されたことで、後戻りできない状態にある。貴方たちのことを、村を騙し、まもなく破壊しかねないと」
「あれだけ散々ごしゅじんや私を傷つけた癖に……!」
耳や尻尾が総毛立った瞬間、リルはいきなり村長に飛びつこうとする。
腰を掴んで留めることに成功したのは奇跡だった。
ふーっ、ふーっ、と彼女の口から荒々しい吐息が漏れる。相当に気が立っている。
「ごしゅじん、離してっ、望み通り全員八つ裂きにしてやる!」
「落ち着け、落ち着くんだ……いつつ」
脇腹の痛みに呻くと、リルは冷静になったのか俺ごと突っ込もうとした勢いが止まる。
釈明しても意味がないのだ。
状況を整理すれば、村人たちの方に正当性がある。
プレイヤーを除き、魔獣が友好的かそうでないかは見分けがつかない。
そもそも契約魔獣が例外的存在であって、それ以外の魔獣は原則敵扱い。
それだけではない。
魔獣は恐ろしい、俺がその仲間かもしれないと焚きつけた挙句、村人はレイドファングに食われ、ギムリは凄惨な死に様を見せた。
再契約していなかったらリル共々村は全滅していただろうし、逆に言えば、リルもまた村を全滅させられる。
そして細かいところは誰も把握できていないだろうが、リルは俺の危機に駆け付けた。
結果として、ギムリの推測通りに物事が動いてしまっている。
理性的に弁解できる状況はとっくにない。
「……よく分かりました。すぐに出ていきます」
「申し訳ない……今、問題を先送りにするにも限界があります」
口ぶりからして今にもここに火をつけたり、襲って来かねないということか。
「しかし、村を救ってくださった恩人であることには変わりありません」
村長は背負っていた袋を下ろし、前に出す。
開かれたその中には、堅焼パンに干し肉と思われるものなど食料が詰め込まれていた。
「いくらかお金も用意させていただきました。それと」
村長が俺に封筒のようなものを渡してきた。赤い封蝋までされている。
「この村から北に大体二日ほど歩いたところにノウスという街があります。そこのギルドのアイザックという者に渡してください、多少便宜を図ってくれるでしょう」
「こんな、良いんですか」
「いえ、これくらいしか出来ないのです。さ、あと一芝居だけ付き合ってください」
「一芝居?」
村長は俺の腰に剣帯を巻き始め、剣を抜く。




