ホルスの永劫 - 愛と意志の時代の抽象性について -
ファンタジー的に書いた架空エッセイですね。
今書いてる物語は科学と哲学に限定して展開するつもりなので、
こっちは全体で勝負してみました。
それにしても、世界は専門分化していきますけど、
この流れは人生という視点で見るとあまりよろしくない。
なぜなら、人生で大切なのは自己実現だからです。
マズローの階層欲求というのがありますけど、
生理的欲求や安全の欲求に関しては、本来、もはや世界の関心ではないはずです。
そして、残念ながら承認や尊敬の欲求にとどまって停滞している人も多いです。
しかし、本当に大事なのは自己実現しかありません。
自分の考えを持ち、それを信念として行動する。
そしてその行動に責任を持ち、間違っているなら考えを改める、
この過程こそが人生です。
自分の考えがあるならば、他人と違う考えであっても当然いいのです。
むしろ他人の考えに従って生きるということは、
他人を生きることに他なりません。
一回きりの大切な人生という割には欲の少ないことですね。
それから、自分が他人から影響を受けないと決めたなら、
本当に他人から影響を受けることなんてなくなります。
政治や経済が力を持つのはそれを支持するからです。
嫌なら肯定も否定もしないことです。
少なくとも考え方を肯定か否定かすべきで、焦点を人にしてはいけません。
政治や経済はそれに関わることが必要な人もいますけど、
権力も金銭も名声も、それが最終目標には絶対になりませんし、
そもそも概念にすぎません。
それも物理学のような形而上学に裏付けられる共有概念ではありません。
資本主義も民主主義も別に宇宙的規模で見て、完全なわけではないのです。
現在通用しているからそのまま運用していく、という考えは、
基本的には、水は高きから低きに流れる、という現実につながるだけです。
政治も経済も使ってるからそのままでいいではなく、
関わるにせよ関わらないにせよ、
不変でも普遍でもないことは承知しておくべきです。
新しい現実は常に理想(未来像)を象って一瞬一瞬で創られています。
また、他人についての善悪を論じることや、
憧れや嫌悪だけで人生を彩っている人ももったいないです。
憧れるなら近づく努力をすべきだし、嫌悪するなら反面教師とすべきです。
もちろん、そういう延長線上で自分の幸福アピールとかもほぼ無意味な行いです。
人生の価値は自分が決めることです。
そう断言できる強さがない人はおそらく人生の価値が理解できていません。
自己実現は承認や尊敬が得られてから始めて関心が向く、というのが、
マズローの観察でそれは正しいのですけど、
本当に承認や尊敬が得られるのは自己実現を果たしているか向かっている人だけです。
むろん、承認や尊敬の代わりに嫌悪や嫉妬というのもあり得ますけど、
何も考えずに他人の人生にしがみついて生きるよりずっとましです。
専門分化の話をしましたけど、物事には抽象的に理解すべきことと、
具体的に知っておくことがありますが、
主に自己実現という生き方に関わるのは抽象性です。
これを端的に象徴するのは学問です。
学問をする意義はこの抽象性にあります。
逆に言えば、生活の中から十分に自己実現の要素を見出し、
自らの知恵とする手法が身についている人には、
学問の意義は必ずしも当てはまりません。
自分を確立して自分の考えを持つことの意義は、
なによりも世界は変化し続けるという現実に、
責任を他者に委ねずに自らの力で対処できることに集約されます。
極端に言えば他人の影響で死を迎えるときに後悔しても遅いということです。
学問については抽象性という意味で言えば、
これも専門的にやる必要はありません。
そして学問と見なされてない分野にも見るべきものはあります。
神秘学などは現象として信じる必要はありませんが、
その記述には目を通した方が人生は豊かになります。
科学では触れられない主観的な真実の在り方がそこにはあります。
せっかくなので抽象性に触れる際に、
最低限知っておくといいガイドを書いておきます。
ちなみに医学、工学、農学、経済学、法学、政治学などいわゆる実学は、
生活の糧になるという安全や生理的欲求のレベルの知識です。
それを開発・研究すること、専門的に利用・応用する等は自己実現ですが、
知識を持つだけならそれほど価値はありません。
時代的にも地域的にも恣意性が高く、
抽象性の基本である不変性・普遍性がありません。
科学:宇宙の秩序について述べられている。数学と物理学が抽象性の基本。
生活実感的には古典力学だが、
その考えに留まる人生はこれから先の時代では通用しない。
数学も物理学も扱う対象が客観性が確保できるという条件があるだけで、
内実は概念そのものである。(実際には客観性とは自明ではない。)
ちなみに工学も農学も生理学も薬学も化学も地学も、
具体的な専門分化で知恵ではなく、知識レベルである。
(複雑系、進化生物学、環境科学、歴史学などは
学際的という意味で、むしろ哲学である。)
哲学:これも宇宙の秩序についての概念的なとらえ方が論じられている。
物質にとどまらず、概念の領域を視野に入れるので、
得られる知恵は科学の比ではない。
ただし、客観性を確保するのに多大な努力を必要とするので、
安易に読み解きができないばかりか、
誤解も誤謬もあり得る。(そのための哲学もある。)
ゆえに専門家の仕事も出現するが、
必要なのは人生に必要な知恵を得ることであるから、
実は主観的に得るものがあればいいのだ、という考え方も通用する。
(そういう哲学もある。)
最近は物質の理論である物理学も、その方法論から解釈に至るまで、
哲学的素養が要求されるし、そもそも創造的な仕事の源泉は哲学にある。
物理学では方程式とその解という世界観は概念的応用範囲が広く重要。
哲学では誰が言ったかというのは、
コミュニケーションに必要なだけで大事なのはどんなことが言われたか、
その内容である。(必ずしも発言者の真意に沿う必要もない。)
心理学・魔術・占術、文学
:これらをひとくくりにするのは本来は憚られるのだが、
扱うのが(個人や集団の)主観的な人生であるという意味で一致する。
いわゆる人生や歴史で起きる出来事に対する解釈についての記述を求めるなら、
これらを紐解くのが一番手っ取り早い。
すくなくとも哲学よりはわかりやすいし、科学では扱わない観点の記述は、
それこそ記述を読むだけでも新しい視点を得る効果がある。
大局と太極の思想は身につけると理解が深まる。
(物事の表層が全てだと思っていると理解はほぼ不可能であり、
それを突破できるかどうかで新しい時代に、
必然として参入できるかどうかが決定する。)
形而上学
:哲学に含有されると見る傾向もあるが、
むしろ科学も哲学も心理学も魔術も占術も、
この知恵への到達を目指していて、
生活から直接たどり着くことも可能である。
人生の究極目標にして、究極のツールと言っていい。
むしろ、この展開として科学も哲学も心理学も魔術も占術も、
そして武道、芸術、生活技術、もちろん歴史も含め人生のあらゆることが、
形而上学の展開であると見なすべき。
これに関心があるかどうか、手にしているかどうかで、
人生は大きく違ってくる。
ちなみに言葉で語りつくすことはできないし、
同時に何を言っても間違いではない。
(機能(合目的)的かどうか、伝達性はどうか、美しいかどうかなど
判断の基準はあるがそれがどんなものであれ無価値でも無意味でもない。
むしろ、無価値や無意味すら価値・意味の中に含めてしまう。)
以上は、私の勝手な思い込みです。
形而上学については、参考になる図書を挙げるなら、
吉田絵梨奈著『甦る生命の樹ー大天使ラジエルからの時を超えた伝承-』(太陽出版)
だけで十分でしょう。
人生において選択するということの重要性とその方法、
他者、そして家族や子どもへの理解の仕方と彼らとのかかわり方、を示唆し、
オカルトやスピリチュアルに傾倒することの無意味さにも触れた、
いい感じのバランスです。
誰がどういう経緯で書いたかよりは、内容で検討することをお勧めします。
もっと言えば内容が事実でなくても、
有用であるなら価値を見出してもいいかもしれません。
(実際に、私とは事実認識としては意見の違うところも散見します。
事実=真実ではないのでいいのです。)
そして内容で検討すべきというのは、
文学にも哲学書にも実用書にもなんにでも言えることです。
(それこそ自分の役に立つか、面白いか、好きかどうかを
自分自身で判断すべきことです。)
以上、騙されたと思って検討してみてください。
もちろん信じる必要は当然ありません。
というか、無条件にそんなことされたら困ります。
これは私の人生の自己実現の過程ですので、
誰かに影響を与えるために書いているわけでもありません。
ただ、影響というか、きっかけを提供してもいいかなと思っているだけです。
それくらいの責任は感じます。
(そして称賛されるのもバカにされるのも含めて自業自得です。)
ちなみに私は占星術的にもタロット的にも魔法使いとしての生き方を
運命づけられていますし、自らもそれを選択しています。
自己実現という点を重視するのも魔術師的な視点です。
(魔術儀式はやりませんし、魔導書も書きません。生き方が魔術師なだけです。)
明らかに現在の世界ではなく、次の思想時代の人間です。
(予言者的魔術師アレイスター・クロウリーがホルスの永劫と呼ぶ時代です。)
学問の紹介で示唆している通り、現在とは実と虚の概念がひっくり返ります。
生活・仕事するのは手段で、正しく個人の人生が目的となる時代です。
意志と愛が最高価値で、洞察と寡黙の時代です。
承認と尊敬は無価値だと気がつくので、
名声や富という要素も価値を減退します。
(減退というより本来の位置に戻ります。)
その流れはもはや止めることはできないのです。
止めようとした人生では、有史時代が終わりを告げます。
(多世界解釈で理解するといいでしょう。)
こんなこと書いているのでわかると思いますけど、
私はどの分野も専門家ではないです。
むしろ最初の大学は工学ですし、その後は看護学です。
どちらも情熱が維持できず、形而上学に至って落ち着きました。
学問の好みで言うと、超弦理論とカントとウィトゲンシュタインです。
『大論理学』のヘーゲルとイアン・ハッキングも好きです。
オカルトの源泉たるユング心理学は以前から学んでいましたが、
魔術は最近、トートタロットを通して深入りしています。
ただ、アレイスター・クロウリーの名前は20年ほど前から、
ゲームのキャラ名などで内実は知らないまま使っていました。
自分は熱しやすく冷めやすいので今はこんなこと書いていますけど、
最近はカントの『判断力批判』の影響からか、美学にもはまっています。
いやはや、哲学といい、魔術といい、日本と日本語は、
本当に概念を学ぶのに適したいい国と言葉です。
専門家さんたちもとても優秀だなと思います。
古事記や日本書紀も世界中の神話との関連もあるし、
いわば世界の御守り的存在だと思っています。
この国に生まれたということ自体がありがたいことです。