2・「変化はいつも突然に」
「え…異動、ですか?」
主に不動産関係を扱う中小企業のオフィスの中で、僕の耳には上司の声しか届かなくなっていた。
「うん、埼玉にあるうちの子会社に出向してもらいたいんだけど、新しい住宅地所プロジェクトに参加してほしい。
ある程度実績のあるものをとの事でね、君を推薦するつもりだ」
部長は机の上で手を組み、口角をゆるく上げる。
「あ、いや、大変ありがたいお話なのですが…妻に相談してみないことには…」
「…そう言われてもねえ、今うちの部署、新しい住宅街建設計画でてんてこ舞いじゃない?
正直、経験豊富な主戦力の君を失うのは痛手なんだけどねえ、ほら…上からの命令でさ、若いのが何人か来ることになったのよ。
…察してよ、ね?」
「はあ…」
「うん!じゃあ決まり、近いうちに人事から正式に連絡が来るから!」
…
今の会社に勤めて5年、本社勤めの重圧感にも慣れてきたところでこれである。
営業課の課長に収まったはいいものの、対して成績もあげられてないし、仕方ないといえば仕方ない…仕方ないのだろう。
カーブに揺れる電車の中をつり革に掴まりながら考える。
家に帰るのが憂鬱だ、妻になんといえばいい。
いきなりの異動、それも遠く離れた土地に。
妻はついてきてくれるだろうか。
子供達も来年から小学生だ。
電車を降り、見慣れた道を通って家路につく。
でも、いざ家の玄関を目の前にすると尻込みしてしまう。
いやでも「離婚」という2文字が頭をよぎる。
妻は強い女性だ、1人でも生きていけるだろう。
そう考えるのも自然かもしれない。
潤んだ目尻、珠になったそれをスーツの生地で擦り消す。
「そんなんでどうする…」
僕は一家の大黒柱だぞ。
…いや、とんでもなく頼りない柱かもしれないけど。
今はせめて堂々と、妻と子供たちに打ちあけよう。
僕は鍵を開け、家の扉のノブをひねった。
「…ただい」
ま、と言おうとしたところで首筋に冷たいものが押し付けられた。
「どぉぅあッ!?」
「あはは!ぱぱ、変なこえ!」
「…むぅぅ…!」
そこには妻に抱えられ、ジュースの缶を持った娘がいた。
足元には唸りながら足に抱きつく息子の姿もある。
「何してんの、家の前でぼーっと突っ立ったりなんかして」
「あ、ただいま…」
「お帰りなさい、今日はお鍋よ鶏鍋」
「とりなべ!」
「なべ」
「あ…そうなんだ」
「寒いから早く入りましょ、もう手が取れちゃいそう」
「うん、そうだね」
「ぱぱ、とりさんたべる!?」
「とりさんたべる?」
「…うん、食べるよ」
僕が2人の子供たちを見つめていると、妻が心配そうな顔で横から覗き込んでくる。
「…大丈夫?元気ないけど」
「…ううん、そんな事ないよ!
さあ!2人はパパと一緒にお風呂にザブンだぞ!」
「「きゃー!」」
大きく腕を開いて2人の子供を追いかけつつ家の中へ入る。
せめて子供達には僕の弱いところは見せたくない、なんていう意地を張ってみる。
「…」
…
「で、何があったの?」
「ん?…んー…」
夕飯を食べ終え、ひとしきり遊んで子供たちを寝かしつけた後、僕は妻と2人で貰い物のクッキーをお茶請けにゆったりとした時間を過ごしていた。
特にそんなそぶりを見せるつもりはなかったのに、妻には気づかれてしまったようだ。
「うん、話すつもりだったんだけどね。
なんだか思い切りがつかなくてさ」
「なに、会社クビにでもされた?」
思わず飛び跳ねそうになるのをどうにか抑えてなんでもない風を装う。
「え、いや、うーん…おしい、かも」
「じゃあ転勤だ」
相変わらず、というかこの人には隠し事はできないというのを思い知らされる。
「異動、まあ…同じ意味かな」
「異動かあ」
「うん、異動。
埼玉だって」
「埼玉かあ」
「うん」
「じゃあ明日から準備しないとね」
「うん…って、えっ!?」
「引越し屋さんだって今から選んでおいた方がいいし、それにキャリーケースも引っ張り出さないと」
「え、え、ねえ」
「ん、なに?」
「な、なにもないの…?」
「なにって、なにが」
「えーとほら、もうこの街に住んで長いし、子供達だって来年は小学生だし」
「そうねえ、まだ入る前でよかったわよね、小学生になると一気に感性が豊かになるから」
「それに、君だって友達とか多いだろ」
「そうね、少なくともあなたより多いわ」
「うっ…」
「でももう会えなくなるってわけでもないんだし、いいのよ」
「そ、そうなんだ…」
「なに、怒られると思った?」
「え、いや、そんな…」
「いつもゲームばっかりしてるからだーッ!とか」
「う…」
「まじめに仕事してればー!って?」
「…」
僕が自分の不甲斐なさに俯いて泣き出すのを耐えていると、向かいのテーブルに座った妻がグッと親指を立てた手をテーブルと僕の顔の間にねじ込んだ。
「…?」
「たまには「黙って付いて来い」って言ってくれちゃってもいいのよ?」
「…」
「そうすれば私は埼玉だろうが、海外だろうが、異世界だってあなたに付いて行ってあげる。
だって私の旦那様だもん、私がそう決めて今までついてきたの、これからだって変わらないわよ」
「…」
僕は眼鏡越しに滲む妻のサムズアップに手をのせる。
そうしてもう片方の手で包み込むようにすると、真っ直ぐに妻の方を見た。
「キリコ…こ、こんな僕だけど…その、ついてきてくれるか?」
「おふこーす!コウジさんの行くところならどこへでも!」
情けない夫の懇願を、妻は満面の笑みで答えてくれた。
…
そこからの展開はまるで弾丸のようにせわしなかった。
ご近所の挨拶回りから、役所の届け、社内の身辺整理.etc。
「ぱぱー!
あたしのキョロちゃんしらなーい?」
娘がぬいぐるみを片手に別のぬいぐるみを求めて僕の元へ駆けてくる。
「え?
…あー、もうダンボールの中にしまっちゃったかな…」
「えー!…じゃあポン太でいいや!」
そういうとまだ整理前のおもちゃ箱から狸のぬいぐるみを引っ張り出してどこかへ行ってしまった。
そして今、引越しまで一週間を切った頃、僕たちは簡単な荷物整理を始めた。
引越しまでの生活の中で使わないものや書類関係、とりあえず今まとめておけるものをダンボールにつめていく。
「ねーねー、見てこの写真、なつかしー」
「アルバムに手を出すと日が暮れちゃうぞー」
「あーこれ、ソウタの3歳の誕生日!
まだちっちゃいわーいまもちっちゃいけど」
妻の戦力外通告を受け取ったところで僕は自分のデスク周辺の整理に取り掛かった。
「あー、これはもういらないっと…あ、この写真こんなところに挟まってた」
仕事関係の整理が一通り済んだところで、趣味のゾーンへと足を向ける。
ここは危険ゾーンだ、一冊でも手を取ってしまうと僕も戦力外になりかねない。
偉大な先人たちの著書たちは今にも僕を素晴らしき異世界へ誘おうと腕まくりしているのだ。
「さーて、年季が入ってるのは紙に包んでっと…あー、久しぶりに読みたくなってきたな腕輪物語…これはいくつになっても違う感じ方ができてほんともうたまらない…いまなら、また読めるかな…」
そう呟いて手に取った赤表紙の本のページをめくろうとする。
「ぱぱー」
僕が今まさにファンタジーの世界に旅立とうとしている瞬間、ズボンの裾を息子、ソウタに引っ張られて我に返った。
「…お、ソウタ!どうした?」
「ごほん見つけた」
「本?
…それは…」
それは薄茶色に色づいた原稿用紙の束だった。
端を事務用の紐で綴じられたそれは、いかにも日が当たらない場所で何年も放置されていたような、というか実際にされていたであろう風格を放っていた。
「古い資料かな、ありがとうソウタ」
「ごほん、よんで」
「んー?いまはお引越しの準備しなきゃ…」
僕は息子から手渡されたそれをひっくり返して目を疑った。
「…うわ、うわうわうわ、うわー…!」
「どしたのぱぱ」
「ソウタ、これな!
これ昔パパが書いた本だ…!」
見間違えるはずもなかった。
この字体に原稿用紙、染み付いたジュースの染み、にじんだ鉛筆のあと。
どれもこれも覚えのある、僕の小さな痕跡だ。
「なつかしいなぁ…!
どこにあったんだソウタ?」
「おいすがくれた」
「椅子?
…うーん、でもすごいなあ!よくぞ見つけてくれたぞソウタ!」
「えへへ…ごほんよんで、ぱぱ」
「ん〜?
どうしよっかなー?
パパもうろ覚えだから、面白いかわからないぞ?」
「よんで、よんで…!」
ソウタが僕の足を掴んだままぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「わかったわかった、じゃあベットで読もうか」
「うん…!」
「あらあら、なにー?」
ドキッとする声。
気づけば部屋の入り口に妻が意地悪そうな笑みを浮かべて立っていた。
「…あはは」
「なによなによ、人のことは叱っておいてあなたは〜」
「そ、それよりこれ見てよ!」
「ん?
…あら、あらあらあら!
なつかしぃ〜…これあなたが書いてた本じゃない、どこにあったの?」
「そうそう!
ソウタがね、みつけてくれたんだよ。
でもよくおぼえてるね!」
「忘れもしないわよ、あなた遊びに誘ってもそれにばっかりかじりついてたんだもの。
…ほんと、なつかしいわね」
「ふふん、ソウタがね、読んで欲しいっていうからさ?」
「あら、うまいことやったわねソウタ。
パパはケチだから機嫌のいい時しか見してくれないのよ?」
「ごほん、ごほんすき…!」
ソウタが僕の膝の上で興奮していると、また部屋の入り口から可愛らしい声が聞こえてきた。
「ままー、ポン太どっかいっちゃったー」
「あらシノ、ほらこっちおいで」
「あ、みんなにやってるの!?」
「パパがね、本読んでくれるんだって」
「え!
やった!あたしもきく!」
「うわぁ…なんだか満員御礼になっちゃったなあ…はは」
どうにも後に引けない感じになってしまって、照れ臭くて思わず笑ってしまう。
「きゃーぱちぱちぱちー」
「ぱちぱち」
「ぱちぱちぱちー!」
「えー、じゃあ…おほん。
…むかしむかしのそのまた昔」
冒頭のおきまりのセリフを言葉に出すだけで、思わず駆け出したくなってしまう。
今僕の手元にあるこの本は、まさしく幼い僕の世界そのものなのだ、
大人の僕でも問題なく読める、子供ながらに丁寧な、それでいて幼さの残る拙い文字。
この一文字一文字に、僕の世界を見せようという意気込みのようなものが感じられる。
僕はできうる限り丁寧に、そこに記されている物語を家族に読み聞かせた。




