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夏休みのエッセイに関して

「他人を見下す若者たち」という本を読んだ

その本には統計として若者たちの仮想的有能感や年齢別の意識の変化についてとても明確に表されている、とてもいい名著だと思う。この本の中にある一文である。【悲しみの時代から怒りの時代に変わってきてる】という文章に私は深い共感と饒舌しがたい謎を覚えた。まず、この文章に強く共感を感じたかというの私自身、人との関係において常々よく考えている中で最近の日本人は悲しみや喜びの感情よりも苛立ちや暴言などとプラスな感情からマイナスの感情の発露が多くなってると思うからだ。なぜ、悲しみがプラスな感情なのか分からないという人もいるだろう。悲しみとは失敗や脱落、不合格などと言ったことを思い浮かべるだろう。仮に高校受験に失敗したとしよう、どういう気持ちだろうか。胸の奥から感情が溢れだし藻掻いて藻掻いてでも収まることのない絶望を誰もが一度はあらゆる形だ体験したであろう。そして、立ち上がってきた。一度は挫折し忘れようとしてもココロだけには人は適わない、自分も本当のやりたい事に何度でも立ち上がるのが人間の本質であると思う、ゆえに悲しみは人間を強くしていくのに大切なのでプラスのものなのだ。そして、もう一つの饒舌しがたい謎というのは本当に現代の人間は過去の人間よりもより凶暴になったのだろうか。ならば、何故いじめやパワハラは減らないのだろうか。よく聞くのは産業革命以前の人間は必要最低限のものしか買えなかったので他者との密接な関係なしで生きていくのが困難だったので自然と他者を尊重しあえたが産業加盟以降の猛烈な機械化による大量生産、大量消費によって人間の物質的な豊かさは拡大に上昇したので他者との関係が希薄になった。そして、そこに現代なんだかんだ続く相対的な平和(?)な国際情勢におけるセオリーである資本主義の代名詞ともいえる実力主義によって個人主義が進みより独善的でかつ暴力的になった。

というのをこに作者は言いたいのだろうがだが、それは本当に実力主義によるものだろうか。私はかならずしもそうとは思わない。なぜならば、人がより豊かになった。だが、その豊かになれたのは機械化によるものであって人間本来の力ではないのに自分の力であると錯覚してしまうからだと思う。そして錯覚した人間は機械の単純さと効率さに目がくらんでしまい、人間関係にも同じ事を要求してしまうから人間を機械のように対応してしまうのでより攻撃的になるのではないだろうか。だが、どうだろう。この意見で納得できるだろうか。いいや、出来ない。そう、出来ないのだ。 ここまで、話しとけばわかるだろう。ココロは定義できないしココロの移り変わりなど定義出来ないのだ。つまり、ココロとは物体Xなのだ。私はそう考えるため作者の意見に大きな違和感を感じたのだ。

 まとめるとすると、どう表せばいいのか分からない。だが、確実にこの本は私の世界観や人間観に影響を与えたのは確かだろう。今の所、ココロを私は物体Xと置いて論理として成り立たせているが…やはり難しい。だが、難しいからっといってこの問いを投げるような事はしないだろう。




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