1-3
茂となって数日、耀一は朝起きるたびに茂という依代は夢の世界の住民であってほしいと思うのだが、そんな都合のいい出来事はなく、茂のままだった。
長く病室にいると気が滅入ってきた茂は、気分転換で病院の屋上にあがって街を眺める。すると、日本一の超高層建造物のスカイツリーが見える。茂の知るかぎり、あれより高い建造物は日本にはない。
しかし、目の錯覚か、両眼に映されるのはスカイツリーを超える超高層建造物が存在していた。雲どころか大気圏をも突っ切っているようにも見える。
看護婦に尋ねると、あれは本条コーポレーションが建築したもので、俗に言う宇宙エレベーターだった。
少なくとも耀一の記憶には、本条コーポレーションという大手の企業に覚えはなく、あのような超高層建造物を造れるところはなかったはずだ。
「けど、机上の空論だった宇宙エレベーターが存在するなんてすげぇ」
改めて、己がいた別の世界なのだと感慨に深けった。
しばらくは通院が必要となるが、茂はようやく退院の日を迎える。
その日に付き添ってくれたのはアーシャだ。リマは本当に会社を休み、お祝いしようと自宅で手料理を振る舞う準備に取りかかっている。嬉しい反面、彼女たちがよくしてくれるたびに仕方ないとはいえ、騙しているようで罪悪感が湧いてきてしまう。
リマは溢れる包容力の持ち主で、先日の言葉のとおり甲斐甲斐しく世話をしてくれ、アーシャは不満そうにたびたび悪態をつくも、なんやかんやで面倒を見てくれた。
レイナとはあの日以降顔を見ていない。
理由は知らないが、どうやら避けられているようだ。難しい年頃というのもあるが、以前の茂の粗暴なふるまいが関係しているのかもしれない。
いろんな感情が混ざり合い、彼の顔が陰鬱の色に塗られてしまう。
茂の顔は晴れないままタクシーに送られ、サリヴェールフ家に辿り着く。入院中、茂らの母親は巨大企業の偉い人だとは聞かされていたが、家の規模の大きさに呆気に取られる。
「……凄いな」
「うちの母親は子育ても家事もできないけど、仕事だけはできるみたいですから」
ふたりの前に建つ家は、敷地が三百坪はある豪邸だった。周りも似たような家が建ち並んでおり、成功者しか住めなさそうなセレブ街となっている。
「いつまで家の前で呆けているつもりです」
「あ、ああ」
アーシャの後ろについて門扉まで歩いて行く。塀は人の背丈の倍はあろうかという高さに囲まれていた。門構えも厳重そうかつ、西洋のお屋敷の門扉のように派手すぎず、来客者に重圧を与えすぎない品のある造りで、実に立派な物である。
アーシャは右手を柱に備えられた液晶パネルにかざす。すると、電子ロックされた門の鍵がガチャと解除され、門扉が自動的に開いた。
「厳重なセキュリティーだな」
「どうしても、こんな家に住んでいると。けど、この辺じゃ血脈センサーは、さして珍しいものじゃありませんよ」
聞き慣れないセンサーだった。アーシャの説明によると、指紋や網膜を照合するよりも難解で解読されにくく、体内に流れる血脈模様を照合認識する物のようだ。
門を通過し、耀一が暮らしていたアパートが物置小屋に見えてくる。軽く気落ちしながら広々とした青い芝生の庭を渡り、ようやく家の中に辿り着く。家に入ってすぐ吹き抜けた天井に、清潔感のある色合いで統一された床と壁。右手に見えるしゃれた階段が二階に続いている。
(なぜだろ。無性に腹が立つ)
自分の家だと実感が湧かず、場違いな場所にやって来たとしか思えてならない。根っからの庶民派の彼では、まったく落ち着かない家だった。
(今日からこの家に住まないといけないと思うと、正直疲れそうだなぁ)
「お帰り、ふたりとも」
玄関に入ると、そこには艶やかな微笑みを浮かべるリマが待っていた。豪邸に圧倒されて強張っていた茂であるが、別の意味でやや緊張してしまう。
「やっぱ、綺麗だな」
リマの顔を見つめたまま、茂は無意識に本音がこぼれていた。
間を置いて、あれ、俺いまなに言ったと茂が口にするより早く、リマが恥ずかしそうに目を伏せた。
彼女の反応から、己がとんでもないのを声にしたことに気づく。
「茂くん……その、ありがとう」
年齢問わず、美しい異性の恥じらう姿は、胸中で言葉にできない熱いものが込みあげてくる。癖になりそうだ。
「帰って早々、そのだらしない顔を晒すのは止めてください」
「……」
隣にいる妹から、なんとなく責めるような眼差しで見上げられる。せっかくの茂の心を癒せる時間帯が、そうそう終了を迎えた。
リビングに入ると、見るからにふかふかな高級ソファに座らせられ、リマが入れてくれた紅茶に口をつける。
「うまっ」
アグラーノが入れてくれた紅茶を除けば、安物の市販紅茶しか飲んだことがない茂の舌には、花の香りと深みのある驚きの味わいだった。
「よかった。少しいい紅茶を使っているから」
「さすが、金持ちの家だな」
「なにをいっているのですか、茂兄さんもその一人です」
「まあ、そりゃそうだろうけど、いまいち実感が湧かなくてな」
「記憶を失っているから、当然だと思うけど。それでも、ここは茂くんの家には変わりないわ」
アーシャから少し冷たい口調で聞こえるが、根が生真面目で思いやりのある少女なのは今の茂となってもわかっているため、まったく怒りを覚えない。彼女は、リマが入れた紅茶を口にする。そして、ティーカップから口を離したあと、話を続けた。
「どうして聞かないのですか」
「ん? なにを」
「私たち姉妹とお母さんはロシア人で、茂兄さんは純血の日本人。どう見ても、血は繋がっていないのに家族なんて、普通は気になると思いますけど」
今さらだが、茂は入院中その話題には触れなかった。聞きづらかったというのもあるが、耀一だった頃から好きなこと以外は興味がないというのが大きい。茂として生きていくなら、嫌でもそのうち知るだろうし、早急に知ろうと気にならなかったのだ。
「まあ、なんか事情があって、俺は養子になったのだろうと思ったけど」
「そうですけど」
「別に言いにくかったら、いま話さなくてもいい」
「私たちの心配より、茂兄さんの問題でしょう。それでいいのですか」
「そりゃそうだが、あんまり喜ばしい話題じゃないのは予想つくし、まあ話してくれるなら聞くけど」
「茂くんの言うとおり、血の繋がったご両親は五年前に亡くなっているの。茂くんのご両親と私たちのお母さんは仕事の関係で知り合ったみたいで、親戚と疎遠だったというのもり、お母さんは自分の養子するのを決断したのよ」
酷く思われるかもしれないが、中身はとっくに成人を迎えた耀一だ。親が亡くなっていると言われても、同情はするがやはり他人感覚である。
だから、「そっか」としか答えられなかった。
亡くなった理由だが、聞くのを止めた。茂の過去を必要に迫られていなければ無闇に聞く必要はない。それに加えて、茂の残滓が過去を知るのを拒否しているかのように、心中に苦い思いを漂わせた。
話題を変え、この場にいないレイナについて尋ねる。今日は土曜で授業は休みのはずだが、友人と遊びに出かけているのだろうか。
「レイナには、今日茂くんが帰ってくるからと伝えたのだけど」
「茂兄さんは、レイナ姉さんからかなり嫌悪感を抱かれているから無理もないですね」
「はっきりいうな。もしかして、アーシャも俺のこと嫌いだったりする?」
「好かれていると、考えているのが驚きです」
声音や多少そっけない態度によって、あまり好感は持たれていないと気づいていた。だが、レイナのように避けられておらず、軽い悪態を吐かれるぐらい。それらを除けば、よく気遣ってくれている。
なのに、はっきりと口にされるとショックを受けるもので、どうやら別人になっても女性に好かれにくい人生らしい。
茂は目頭が熱くなるのを感じ、顔を片手で覆う。
そっと、リマが渡してくれたハンカチで涙を拭い、高ぶった感情が落ち着かせてから、茂はなぜレイナから避けられているのかと問う。
「茂兄さんはこの辺では有名な不良だったのです。その影響で、少なからず私たちも白い目を向けられていました」
「アーシャいいすぎよ。茂くんも両親が亡くなってから悩んで、一杯苦しんでいるの。多少道を踏み外したとしても、それを正せなかった私たちにもその責任の一環はあるわ」
「リマ姉さんは少し黙っていてください。いつもは聡いのに、茂兄さんのことになると急激に盲目になるのだから」
「そんなことないわ。家を空けることが多いお母さんに代わって、窘めるときはしっかりしているつもりよ」
自覚がない自分の姉を、これはダメだと嘆息するアーシャ。
「それができていないから、レイナ姉さんが茂兄さんを嫌悪しているのでしょう。それに、あれだけ罵倒されているというのに、ろくに止めるように言わないじゃないですか」
「茂くんの怒りを受け止めるのも、姉の勤めだもの。それと、ふたりはアーシャが考えるほど不仲ではないわ。ほんの少しだけすれ違っている、ただそれだけだもの」
リマいわく、ささいな兄妹喧嘩のようなもの、だそうだ。とてもあの憤怒を宿らせた瞳は、ただの姉弟喧嘩とは思えなかった。
「はぁ、どっちにせよ。仲直りは難しそうか」
「簡単じゃないけど、時間をかければ大丈夫よ」
「なんの根拠でいっているかわからないけど、奇跡が起きないかぎり二人の雪解けは無理だと思います。それに、茂兄さんの記憶が戻ったら、また元のように悪逆非道に戻ってしまいますから」
「もう、アーシャったらすぐ水をさすようなこというのだから」
リマの指摘に知らぬ顔で、紅茶を一口含んだ。
「いや、ないだろ」
気が緩んでいた茂は、ぽろりと口からこぼす。すると、姉妹の疑問の声が重なった。小首を傾げるリマの可愛さに見とれそうになるのを、茂は奥歯を噛みしめてどうにか堪える。
「あ、いや、そんな気がするというか」
「確かに、焦っても記憶が戻るわけでもないわね。でも、茂くんの思い入れに強い場所に行けば、記憶が戻るかもしれないわよ」
「でも、私たちは茂兄さんの思い入れがあるような場所しりません」
「大丈夫よ、茂くんは一部の層から有名人だし、それに私たちでも知っている場所はあるわ」
茂にはその答えはわからなかったが、アーシャはハッとしたように僅かに片方の眉をあげた。
「私の母校でもある、本条学園よ」
「本条学園?」
「そう、本条学園は本条財閥が経営する学園なのよ。その目的は企業で活躍できる人材育成機関として作っていて、国内だけではなく海外からの留学生も少なくないのよ」
学園は幼児舎から、高等部まで一貫性となっている。
本条コーポレーションは世界のトップ企業もあって、毎年入試の倍率が凄まじく高く、狭き門を潜り抜けた子供たちが本条学園に入学するのだ。
「本条学園の入学するメリットは、高水準の教育を受けられることよ。優秀な成績を収めれば、本条コーポレーションへ正式に入社するのが認められるの。そうすれば、将来安泰といっても過言ではないわ。けど、学校の指定する水準に達成しなければ、残念だけど退学となってしまうけどね」
厳しいようだが、あくまでも本条学園は人材育成機関であり、求められる知識と技術が身につかないようなら、本条コーポレーションの従業員に相応しくないと判断されるのだ。
「なんか、凄そうな学園だな。正直ついていける自信ないぞ」
「大丈夫よ。記憶がなくなっても、茂くんのハイスペックは変わりないもの」
「確かに、茂兄さんの闘気は他を圧倒していたわ。成績は褒められたものじゃないけど」
「おい、全然安心できないじゃないかよ。というか、学園に闘気って関係なくないか?」
「茂くんの疑問はもっともだけど、本条コーポレーションはちょっとばかり特殊なのよ。本来なら企業に闘気など必要ないのだけど、会長の方針である程度自分の身を守れる強さを求められちゃっていて」
もとはただの自動車会社でしかなかった本条コーポレーションが、ここ十数年で世界に広々と知られる巨大企業となっている。
それもこれも、前会長の祖父がいまの会長を後釜として全権任せ、会社から身を引いたおかげだ。まだ、三十代前半と若いのに物凄い快進撃であった。
しかし、急成長というものは、数多に敵をつくりやすい傾向がある。経済界を支える企業家や世界をリードする古参からすれば、新参者にいいようにされて面白くない話しだろう。嫉妬ややっかみといったものを買いやすく、根も葉もない誹謗中傷は年中無休で止むことはない。
「実際、暴漢から社員が襲われる事件や、あからさまな事業の横やりが入る出来事が起きているわ。このままでは会社が傾くようなピンチだったのだけど、本条は一歩も引かずに攻めの姿勢を貫いたの。邪魔するものがいれば薙ぎ倒せばよいと、ね。少々無茶に思えるけど、会社は本条警備隊という部署が設立したの。その部署の役割は二つ。通常警備と、本条の名がつく会社すべての地区を治安維持すること。警備は当然として、治安維持は会社の警護もあるけど地域の方々から信頼を得るのが目的よ。住民の信頼は、必ず会社のために繋がるわ。初めはコストが嵩み、周りから笑われたものだったらしいけど、本条はそれをものともせず続けたわ。それが、想像以上の結果を生んだの」
リマはなんだと思うと、笑みを浮かべて茂に問いかけてくる。アーシャは答えを知っているような顔をさせていた。
「街の人たちから、会社の評判があがったとか?」
「もちろん、それもあるけどそれだけじゃないわ。本条警備隊の働きは、犯罪や事故防止に貢献したと国から認められて表彰されたのよ。それは国内だけじゃなくて、海外拠点している各国からも高評価をうけ感謝されたの。本条の名を多くの人に知られて、それが本条に入社希望者に繋がっているのよ」
優秀な人材が集まれば、会社をより大きくして盤石となる。本条はピンチをチャンスに変えたのだ。そういった経緯から、この学園には優秀な生徒しかいない。
「やっぱ、俺には無理そうだ」
顔をしかめる茂は、リマの話しを聞いてそう感想を述べた。
間に合えば、このあともう一話投稿します。
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