1-エピローグ
胸中には、判然しない不安が生まれた。
本当は不安の正体はわかっている。気づきたくなく、知っていても頭が理解をしたくないように拒否反応を起こしているのだ。
レイナとアーシャを見下ろす女性。
高密度の緊張に空気が張り詰めていた。背中の一面に、ドッと嫌な汗が浮かぶ。
彼女がまとっている雰囲気は、明白な傑物と語るもの。たた対面しているだけで、抜け出せない糸にとらわれたかのような息苦しさを覚え、奇妙な重圧が身体中にのしかかってくる。
「今回の大量虐殺の件はゼクスが首謀者として、警察は世間に公表することになったそうよ」
普段と変わらぬ柔和な目元なはずが、このときの視線は、ゾッとするほど冷たい光を灯している。話す声音も優しいものだが、口調は淡々としていた。それが、余計なことをいえない空気をつくりだしている。
ふたりは無言で彼女の話を聞く。レイナらは正座に対し、話しかけた女性は正面のソファに腰を下ろし、脚を組んでいる格好だ。
――女性とはふたりの銀髪の姉、茂を何よりも優先して慈しむリマ・サリヴェールフである。
仕事中だったリマはなにも知らずスマホに出てみると、警察から茂が襲われたと聞かされた。彼女からすれば身から出た錆びという頭はなく、可愛がっている弟が危険な目にあったとそれだけで、怒る理由に充分こと足りるものなのだろう。
その問題となっている茂の姿はこの場にいない。
彼の身はひどく痛ましかった。纏う制服は、薄汚れたぼろ切れと化している。身体のいたるところに腫れあがった打撲や赤い筋を走らせたすり傷にまみれ、とくに斬られた胸板や肩の傷はかなり深そうだ。
ただちに、病院に担ぎこまなければならない重症の傷である。ところが、茂は膨大な闘気を活用して、見るも無惨な怪我を治癒させてしまった。凄まじい超回復である。
確かに、闘気を扱える者たちは、扱えないものに比べて自然治癒力は高い。しかし、怪我を自ら治そうとすれば、その対価に闘気を求められる。
前回もゼクスから受けた傷は、絶対に助からないはずだった。それなのに、たちまち致命傷だったそれを治してみせる。どれだけの闘気が必要だったのかと疑問を持つのと同時に、彼の闘気の総量には驚きを隠しきれない。
そうした理由から、極度な疲労と血がたりていないを除けば、目立った外傷はなかった。
にも関わらず、リマの強い要望から茂は現在入院している。本人は嫌がっていたが、リマから涙を溜めた瞳で懇願されたのだ。この姿に参らない男はいないだろう。
彼女の可憐さに、苦渋する茂の心を奪われそうとなり、それを執拗にはねのけようとしていた。
結局、リマの美貌の前には茂の意志など紙にひとしく、喉から絞り出すように呻きを漏らすと渋々了承する。
「将来は本条警備隊のエースとして、活躍を期待されている貴方たちがいたのに残念な結果ね。サリヴェールフの名が泣いているわ――けどね、そんなことはどうでもいいの。私が怒っているのは、茂くんにあんな酷い目を許したことなのよ。ほんのちょっぴりのいたずらで、寄ってたかって茂くんを苛めるのだなんて。いつも言っているわよね、家族が困っていたら助けるように、と」
リマはふざけているのではなく、本気で語っている。茂の過去の悪行はいたずらではすまされないと、反論さえ許されなかった。
じっとりと汗の浮かんだ顔に恐怖の影をちらつかせ、静かに唾を飲みこむ。
異形な生物に睨まれているような気分だ。
「……少しは悪いと思っている」
「……ごめんなさい。リマ姉さん。私たちだけでどうにかできると思いあがって、リマ姉さんへの連絡が疎かだったわ。まさか、ゼクスのような異能者と一介の不良が接点あるとは思いも寄らなくて」
アーシャは悔しそうな顔を浮かべる。
「そうね、私へ連絡のひとつでもあれば、また違った結果を迎えていたはずよ」
傲慢とも取れる発言であるが、リマにはそれだけの自身があり、レイナらはそれをよく知っていた。
「――ふう、まあいいわ。茂くんも貴方たちに感謝していたし、二人の異変に着目して尾行するまではいい判断だったわよ」
リマの厳しい視線が和らぎ、口元に温和な微笑みをつくる。この場の緊張が薄らいで、硬く締まっていた顔をなごませるふたり。
「でも、茂くんが私たちのために戦ってくれるのだなんて、やっぱり愛情を持って接してきた成果なのかしら」
「私は直接見ていませんので、正直疑わしいと思ってしまいますが、レイナ姉さんはその現場を見ていたのですよね」
「別に、褒めるほどではないわよ。ただあいつが、ボコボコにやられていただけだし」
つい憎まれ口をたたいてしまう。
いまでもその情景を忘れたくても忘れられず、はっきりと蘇らせられる。苦戦を強いられ、傷つきながらも決してあきらめなかった茂。その姿に、レイナは衝動的にうごいてしまった。
そんな己に混乱して、死にたくなる。
(なにやってんのよ私ぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!)
あれだけ疎ましかった茂を抱きしめ、彼のために戦ってしまった。いま頃になってレイナは恥ずかしくなってきた。陶器のようななめらかな白い肌が、耳たぶまで真っ赤に染め、頭を抱えてしまう。
「レイナ姉さん、いったいどうしたっていうの?」
様子があきらかにおかしい姉に、アーシャは驚いた口調で呼びかけた。
「あははは、何でもないから心配しないで。私は今回、感情で動くのはよくないと学んだだけだから」
「よくわからないけど、まだ疲れが残っているようなら早めに休んだほうがいいですよ。顔も赤いですし」
「はぁっ、全然赤くないから! なにいっているのよ、アーシャの目、視力落ちたんじゃない!」
あきらかに普通ではない様子で、勝手に追い詰められているレイナは稚拙な返事をした。アーシャはいかにも納得いっていない顔と心配そうな視線を向けられる。
リマは自分の世界から帰還し、何気ない様子の声音で言う。
「そういえば、亡くなっているはずのゼクスと須賀の遺体がまだ見つかっていないのだけど。ねえ、レイナ。きちんと、止めは刺したのよね」
「……」
「まさか、犯罪者相手に躊躇したのではないでしょうね。二度も茂くんを殺しかけたのよ」
茂に見せていた可憐な顔はどこいってしまったのか。
表情が抜け落ち、淡々と抑揚のない声で述べる。殺気もなく、殺しを躊躇いも禁忌感もないと両眼が語っていた。
返答を間違えれば、姉妹といえどもただではすまないだろう。
「す、するわけないわよ! 第一、あの瓦礫の下で生きているわけないでしょうっ」
レイナが素っ頓狂な声をあげて弁解する。ただ、違和感ともいえる引っ掛かりがあった。あの男には、アグナルの進化論技術が施されている。
(まさかね)
レイナの疑惑は小さくも、胸中で消えずに残り続けた。
* *
「ご苦労様です」
アジア系の顔つきで、七三分とメガネ。スーツ姿の男は、柔らかい声音で労いの言葉をかけた。
男の名は宮本。
人気がない一室で、人を出迎えた。
迎える者は巨漢の男、ゼクスだった。身にまとう衣服は破け、血や埃で汚れているものの、その姿は怪我ひとつない。そして、その肩を貸されているもうひとりの少年がいた。須賀亮平だ。意識を失っており、彼も酷い格好だった。
「ありがとうございます。彼には、まだ使い道がありますからね」
「ふん、無法地帯のスラム街で生きてきた俺が、ガキのお守りとは情けねえ話しだ」
「あははは、面倒をおかけますゼクスさん」
彼を適当なソファに亮平を投げ捨てると、ポケットからタバコを取り出して咥える。
「依頼は、完遂できなかったようですね」
「簡単に言ってくれる。サリヴェールフの娘を殺さず、組織を裏切った男の息子を殺すのは難しいんだよ」
タバコに火をつけながら語った。気持ちよさそうに白い煙を吐く。
サリヴェールフ姉妹にもしもがあれば、本条警備隊の司令につく女傑を怒らせることになる。その強さは世界屈指とされ、雷帝に劣らない英傑だった。本条の武力を補う一人で、怒りに染まれば自分の立場を考慮せずに葬りにくるだろう。
まだ、女傑や雷帝といった本条の怪物と、事を構えるのは時期早々。宮本は初めからゼクスを信頼しておらず、遠くから監視していたようだ。もっとも、彼も守る保障はどこにもないが。
「私には、ゼクスさんの悪い癖が出て、戦闘を楽しんでいたように思えますが」
「は、否定はしない。だが、あいつは完全に記憶を失っている。今すぐ、あんたらが困るようなことは起こらないさ」
「ですが、上はそう思ってないようです。計画に支障が出るような芽を、すぐにでも摘むいで欲しいとのことですので」
肝っ玉が小さいお偉いさんだ、と首を横に振るうゼクス。
「心配しなくても、次はきっちり仕事を果たす」
「申し訳ありませんが、上はゼクスさんだけには任せられないと判断がくだされました」
「ふざけるな。あいつらは、俺の玩具だ」
鼻白む男の顔が豹変した。爆発的に殺気が膨れあがり、凶悪な光が琥珀色の瞳にたたえていた。口元は、海のギャングのごときに大きく横に裂かれる。
その場に充満した殺意をまったく感じていないのか、宮本は静謐ともいえる顔で十数本もの鋭利な棘を思わせる視線を受け流す。油断をすれば即座に命を奪われる状況で、彼は異様に落ち着き払っていた。
「困りましたね。私はあくまでも組織の中間管理職です。ゼクスさんの怒りをぶつけられても、立場上なにもできないのです。よそもそも、サリヴェールフのご息女は御法度とお伝えしたのに、嬉々して戦っていたのは貴方ですよ」
「知るか、もともと面白い玩具と遊べると言うから組織に入ってやったが、つまらない横やりをするならやめだ。俺は今後、好き勝手に動かせてもらうぜ。お前ら戦争屋を敵に回そうがな」
「それは困りまりましたね。組織を円滑にまわすために規律があり、上の指示には従ってもらわなければなりません。でなければ、ゼクスさんをやむを得ずに処分となってしまいますよ」
「ふん、面白いなそれ。お前らと戦えるかと思うと、身体がうずいてきやがる」
「考えなおしてもらえませんか。私たちの計画は慎重にならずにはいられません。それに、ゼクスさんの異能やその並はずれた強靱な身体と回復力を備えられたのも、我々組織のおかげ。少しは恩を感じても罰はあたらないと思いますが」
「ちっとも。その分、お前らの危険で汚い仕事を請け負ってやっただろうが。お前たちが裏で世界を操っていた時代は、とうに終っている。なにせ、残党でしかないお前らが異能に目をつけ、俺らのようなごろつきを頼らざるえないぐらいに衰退したのだからな」
サラリーマン風の男は、痛いところを突かれて苦笑する。
「たしかに我々の組織、『ヴァイパー』には昔のような力がないのは認めます。しかし、何千年と世界に根を張っていただけあって、まだまだ暗躍する力は残っていますよ。異能者となった方々に失望も落胆もさせないぐらいには」
そう言う彼は、笑みを浮かべた。その笑みには、威容な迫力があった。だてに、ゼクスのような荒くれの連中と交渉役を務めてはいないということだ。
ゼクスも嗜虐心に刺激され、不敵に笑った。