1-13
「あーくそ、効いたぜ」
茂ら三人の弛緩した空気が引き締まる。
ゼクスであった。レイナの強烈な一撃を受けても、さほどダメージがあるようには見えない。
壁の奥深くから姿を出し、掌にともる焔が無数にわかたれていた。捕捉された者たちはトリガーを引かれ、次々と餌食となって絶命していく。
数弾こちらに飛来する。焦る茂を尻目に、レイナは前に手を突きだして吹雪がほとばしった。迫りくる猛火を凍てつく突風で吹き散らす。
強烈な光は大気を炙り、硬い床を黒く焦がし、赤々とした火の粉がめくるめく乱舞して地面に落ちる前に消える。
ゼクスの脇腹からは、流血がすでに止まっていた。どう考えても、それは止血できる傷口ではなく、致命傷なはずが平然としている。
「ほう、ならこれならどうだ」
さらに続く火炎球の乱射。男の炎は並みとは違う。放たれる吹雪の中で、激しく揺らめきながらも、せめぎあう炎はじりじりと白を赤へと侵食してくらいつくそうとする。
「無駄よ」
風を唸らせて、冷気が猛々しく突きかかった。
吹雪の勢いはとどまるところを知らない。この階を荒れ狂い、足元の床が次第に雪で覆われ初めている。やがて、衝突する二人の異能は相手を呑みこみ、消し去らんと暴れ狂う。
圧力に耐えかねた建物の壁に亀裂が走り、床を砕く。
あふれた力は暴風となって吹き荒れ、白く爆ぜた。轟音が大気を震わせる。霧散して周囲に蒸気を生みだす。
「途方もないな、二人とも」
感情を圧し殺した呟きを漏らす茂。
「やっぱりその身体は……あんたが、どうしてそれを。確か、その技術は本条でも公にさてないアグナルの進化論技術なはずよ」
レイナが意味深なことを言うと、ゼクスは鼻を鳴らして剛毅な笑みを浮かべる。すると、右手を天井に向けた。
弾丸とは比較にならない高エネルギーの攻撃は、天井を突き破って、空へと放熱する。天井だけではない。左右からの同時攻撃、赤々としたまばゆい光に包まれた炎弾が伸びる。それらは、無差別に壁やこの建物を支える柱をもぶち抜いていく。
今すぐではないが、このままでは建物が崩壊し、埋もれてしまうのも時間の問題だ。
「この建物ごと、アユたちを沈めるき!?」
「もたもたしてられないわ、逃げるわよ!」
「同感だ」
しかし、出口にはゼクスが先回りして、階下に繋がる出口を立ちふさがる。
「逃げるなよ、こっちは戦いを盛り上げようと演出してやっているんだぜ」
言い終わると、出口を破壊した。
「ちょっ、どうするんすか! 唯一の退路が塞がれちゃいましたよっ」
レイナは急激に緊張を高め、烈火のごとき闘争心を身にまとう。
ツインテールの少女が決断を下す。
「私があの男を相手しているうちに、どうにかして逃げて!」
振り返らずに言うと、猛進とゼクスの間合いを詰めようと飛びこんでいった。
隣にいる歩咲はそれを見送ると、先ほどの取り乱しようが嘘のように笑顔を浮かべ、
「さ、先輩逃げましょう」
「お前は鬼か」
「大丈夫ですよ。だってあの人、本条学園でもトップレベルの成績ですから」
だから、しぶとく生き残ると歩咲は話した。
しょせんは学生レベルだろ、と切り捨てきれない。実際、不意討ちとはいえ、ゼクスに深手を負わしている。下手をすれは殺してもおかしくない怪我を、躊躇いもなく負わすのは普通の学生ではない。
その辺り、彼女は普通の学生とは違い、異質しているといえた。
「だが、そんなことはどうでもいい。あいつを放って逃げるわけにはいかないだろうが」
茂は、ぶっきらぼうに言う。
自分の身内で、しかもあれだけ嫌っている人間を助けてもらっている。私利私欲を行動理念として動く彼だが、なにも思わないわけではない。
けれども、至極当然であるが、茂の身体はいくばくか休んだぐらいで復活するわけではない。かえって時間が経つにつれて受けた傷の痛みが酷くなってきている。
無様な自分のありさまに、ぎりっ、と歯を噛み合わせた。
それでも、茂の闘志の灯火は消化されることなく、気力を振り絞り立ちあがろうとする。
「ちょっ、先輩無茶ですよ!? これ以上動いたらまずいですってっ、早く病院に行かないと!」
歩咲の声には応えずにむくりと立つと、
「歩咲、あいつをどうにかして三人で脱出するぞ」
「……アユとしては、自分の身を最優先にしてほしいんすけど、その様子じゃ聞き入れてくれなさそうすね」
茂は、痛む首をかろうじて縦に振った。
「でも、アユはレイナ先輩に加勢できても、先輩は立つのがやっとですよね。正直無理というか、先に逃げといてほしいというか」
「俺がいると邪魔なのはわかっているが、やられっぱなしは性に合わないんだよ」
ゼクスに逆襲するのは、果てしなく険しい道程となる。
だが、なにもできない自分の無力さに、怒りと絶望に下唇を噛むなど柄ではない。沈思黙考など無縁。悩む暇があったら突っ走る、それが春日部耀一だ。
「けど……」
「極力邪魔にならないようにする」
茂の決意が固いとわかると、歩咲は彼とともに逃げる選択をすっぱりと切り捨てた。
「わかりました。けど、アユは先輩を守るのに優先しますから」
「ああ、じゅうぶんだ」
断続的に響き続ける打撃音。
二匹の獣は鉛のような重圧を発しながら、壮絶な攻防を繰り出された。荒れ狂う暴風を吹かせ、互いの拳を突き出して喉笛を噛み砕こうとする。
両者の拳には白と赤の光が絡みつき、一つは頭上からもう一つは下腹からすくい上げるように織り成し――激突した。あまりの威力に、少し離れた場所でたたずむ茂のところまで余波が波濤のように押しよせていた。魂がぎりぎりと万力で締めつけるような圧力に、萎縮してしまいそうだ。
目の前で映すものは、スクリーン世界でしか見たことがない戦闘である。茂の常識は、今日一日でずいぶんと覆されてしまう。
ゼクスは唸りをあげて横殴りに叩きつけた。横っ面に飛んでくるそれを、レイナは咄嗟に細い腕で受け止める。華奢な女性の身では破壊され、横転するはずだったが、彼女は仁王立ちしたままズルルルと、床の上を滑るように移されただけだった。
彼女は迫る男にすぐさま、身を沈めて足払いを食らわすが、その攻撃を跳んでかわされる。寸暇を置かず、竜巻のごとく旋回するレイナは猛追した。ぶん、と空気の塊がゼクスの右頬を襲う。すんでのところで上体を傾けたその眼前を、爪先がかすめる。前髪が激しくそよぎ、それが収まる前に巨大な質量が迫ってきた。
左右の鋼鉄の拳が交互に十数発、ゼクスへの胸部へともぐり込む。男は、鍛えられた前腕を十字に重ねて防いだ。メキッメキッ、と筋骨を軋ませる。
茂の眼力では、戦闘経験も、戦闘技術も、ゼクスの方が格上だ。が、能力面では決して負けていない。
拮抗する二人の実力は、一進一退の攻防を見せていた。
このまま膠着状態に陥れば、二人の戦闘が決着つく前に建物が崩壊しそうだ。
「時間がない。あいつの背後に周り込んで、仕掛けるぞ」
「本当にやるんすねぇ」
歩咲は渋面しながらも、おとなしく従いついて来てくれている。ゼクスに気づかれないよう、ひそかに移動する。慎重な足取りで背後に回り込むと、茂は痛む身体を無視して無謀に特攻をかます。爪が食い込むほど、掌をぎゅっと握りしめた。
背後から射抜くような密の殺気を飛ばす。肉を斬り、骨を断つイメージを宿らせた殺気は、ゼクスの背中に突き刺さった。
ほぼ同時に、ゼクスは半身になって片手を向ける。掌から、鮮烈な業火を湛えて放射しようとしていた。食らえば、炎に炙られて奇妙なダンスを踊ってしまうのは免れない。
ゼクスの面は、ご満悦に遊んでいる時間を邪魔され、荒々しい怒気を孕んだ笑みを浮かべていた。
真っ赤な光がすべて赤に染めようと、業火の濁流が放たれる。肌を触れ、髪を掻き乱す、灼熱の熱気。強烈な熱を身体に感じた。
止める暇もなく、歩咲は茂を庇おうとして前に出る。
「先輩に、なに物騒なものぶっぱなしているんすか!」
ライトブラウン色の髪を持つ少女の足が、星のように光り輝きだす。少女の周りで浮遊する光のかけらは音もなく弾け、空に舞い上がっていく。淡い光を帯びた足が釣竿のようなしなやかに高く、そして鋭く蹴りだした。
「ビートルホーン!!」
一瞬の間もなく、業火の濁流を両断される。
視界が開け、ゼクスの姿を再び捉えた。とはいえ、茂の拳はまだ遠い。
これでは、歩咲が業火から救ってくれた命であるが、ゼクスを殴打する前にまたも命の危機に転じてしまう。次は二人そろって炭となるかもしれない。
「ここで決めなければ……極上の美女をはべらすなんて夢物語だ」
恋い焦がれる野望を花開かせ、見目麗しい美女を自分の恋人とすること。それが、この男の生きる目的であり、できるなら複数の美女からもちやほやされたい。
立派な志からほど遠く、むしろ対極だ。
だが、自分の野望のためなら命もかけられる。その歩みをいささかもゆるめるつもりはなかった。
己のすべてをかけてもやり遂げようとする、意志と激情に呼応するように茂の中でなにかが弾け跳ぶ――そんな音が聞こえた気がする。
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。脳細胞がスパークして、身体中を電流が駆け抜けた。
その瞬間、茂の身体の中から異常なほど膨れあがる。全身に溢れだしそうなほどの力が漲り、全身の痛みが嘘のように消えていく。
「これはいったい……いや、そんなことはどうでもいい!」
風が唸り、吹き抜ける。ぐんっと速度が増す茂は、ゼクスとの距離を死に物狂いで詰めていく。最後の力を出しきるように腕を伸ばす。勢いに乗った岩のように握りしめられた拳をさらに進め、勝ち誇った顔を捕らえて突き出した。
ごん、と鉄柱を殴ったような硬い感触が拳から伝わる。その反動が激痛となって、利き腕を走り抜けた。
渾身の一撃を放って直撃したというのに、ぴくりとも動かずに受け止める。男は双眸をぎらつかせ、口元が弧を描いていた。
――それなのに、茂には焦りの色を浮かべていない。
「終わりか?」
「ああ、俺からはな」
なぜなら、わずかでもゼクスの意識を引き寄せることができたのだから。
初めから奇襲など成功するとは思っていない。茂には、目的がふたつあった。一つはゼクスに一矢報いること。そして、もう一つはゼクスから隙をつくること。
レイナほどの実力者を前にすれば、それは致命的な隙となる。
だが、ゼクスには完全に読まれていた。
「甘いんだよっ!」
放射した方とは別の片手から豪炎を生み出す。それは天井に向かって長く伸び、炎が剣へと収縮される。炎剣を握ると、向かって来るレイナに天を裂く一撃を振り下ろした。絶妙のタイミングで狙い定められた紅の刃が、レイナを一刀両断せんと間近に迫っている。
牙を剥き出しにし、猛虎は咆哮をあげた。
歩を止めず、レイナは速度をいささかもゆるめずに突っ込む。
世界が停滞する。
少女に映る世界はスロー再生のように鈍化し、それはすべてを置き去りにしかねない銀の流線となった。自分の身が切り裂かれるよりも速く、残りの距離を瞬く間に縮めてゼクスの懐にもぐり込んだ。
拳を覆う氷は強固な拳を形成し、至近距離から胸部に突き立つ。ほぼ同時、巻き添えにあうような愚を犯す前に、茂と歩咲は身を沈めて大きく飛んでいた。
「華爪衝!!」
ゼクスの心臓を穿たんばかりに、少女の拳がとどめの一撃に到達する。しかしながら、猛威に振るわれた衝撃をくらっても五、六歩後退ったのみ。だが、それはゼクスの身体を突き抜け、数メートル先の壁を穿つ。破壊の跡を刻まれ、巨大な穴ができあがる。
ゼクスはニイッ、口の端をつり上げる。双眸を妖しく光らせていた。
一呼吸分たち、どぼり、と男の喉奥から盛大に赤黒い血塊が吐きだされる。ノーダメージというわけではなかった。なおも、一歩踏みだそうとしたところで、糸が切れたように前へとつんのめった状態となり、そのまま倒れ伏せる。
殺めたのかどうなのかは定かではないが、しかしどのみち瓦礫の下敷きになって圧死となるだろう。
身動きしなくなったのを確認すると、やがてレイナは小さく息を吐く。異形の姿が解除され、獣人の姿が溶けるように薄れて完全に消え去った。
厳めしい顔には、怒気と後悔ともとれるものが混淆している。苦衷を漂わせたのはほんの一時で、その後は見慣れた少女の顔となる。
独りで悩み、家族のために我慢をしてしまう心優しい少女が、人を傷つけて苦しくないはずがない。
そんな少女を眺めながら、茂はなんともいえない気分となる。本来は中身だけとはいえ、年長者の茂が味わう苦しみでなければならないはずだ。己の情けなさに、かすかに苛立ちを覚えた。
「まあ、何はともあれ、ゼクスを倒せて一安心か」
「というか、やりすぎたぐらいですよ。さ、逃げましょう。これ以上もたついたら、本気でマズイ感じなんで」
「ああ、そうだな」
茂は、こちらに駆け寄ってくるレイナに声をかける。
「レイナ、大丈夫か」
「心配ないわ。あんたたちにはいろいろと言いたいことがあるけど、一旦後回しにして急いで逃げるわよ」
同意の返事をかえすも、すでに出口は塞がれている。周辺に視線を走らせ、茂は直感で窓に注目する。
「あの、窓から逃げるぞ!」
「それしかないわね」
レイナと歩咲は頷き、窓に向かって走り出そうとした。茂はふたりの後を追おうとしたところで、視界の端に亮平の姿が入る。
「おい、あいつ」
「今回の首謀者なんて、かまってられないですよ」
「この女と一緒なのはむかつくけど、私も同感ね。少し思うところがないわけじゃないけど、わざわざ自分らの命を危険にさらしてまで、救う余裕なんてこっちにはないわよ」
「まあ、正論なんだけど」
十代の若者にしては冷静すぎる判断力に、茂は驚きを隠しきれない。
だけど、道徳云々を抜きにして、それは反論できないほど正しい。自分を殺そうとした奴を助けるなど馬鹿げた行為である。
しかし、ここで見捨てたら目覚めが悪いのも確か。
命懸けで赤の他人を救って、ヒーローを気取るつもりなど毛頭ない。そして、こんな騒ぎを引き起こした張本人をむざむざ死なすほど茂は優しくもない。
必死にこの場を切り抜けようと奮戦する中、そのついでにあの容姿端麗の男が憎む相手から借りをつくって、苦しむ姿を見るのも悪くない。
そう、思いいたった茂は、
「悪い、先に逃げてくれ」
二人に言い残し、茂は亮平のもとに向かっていた。
不可思議な現象で身体の痛みは大分引くも、失った血や体力が戻ったわけではない。覚束ない足取りながら走るそれは、途中で足がもつれて倒れそうになろうとも、足を止めるわけにはいかない。
どうにか横たわる亮平のもとにたどり着き、速やかに寝ている彼の頬を往復に叩いて乱暴に起こす。
「おい、起きろ! 呑気に寝ている暇なんかないぞっ」
気絶していた亮平は重い瞼を開き、
「いてぇだろうがっ」
亮平は強引に起こされて目を覚ますと、上半身を勢いよく起きあがらせて茂の顔面を殴打する。
「ぐほっ」
転がる茂には一切気にも留めずに痛む首を動かし、ゼクスの俯せに動かぬさまと、炭化した仲間たちの亡骸を目にする。自分たちの敗北が喫したのを把握した。その顔には苦渋の色を浮かべるどころか、眉ひとつ動かさない。
「いきなりなにするんだ、クソガキが。たく、ほら逃げるぞっ」
「……どういうつもりだ。敵視していた相手に」
情けをかけられたことを虚仮にされたと受け取ったのか、亮平は憎悪とともに呪詛の声が満ちあふれて言う。その顔は恥辱にゆがめ、瞳を剣呑に輝かせていた。
「そんな事情は知らん。なんせ、俺には記憶がないからな」
「――っ!!」
「結局なにがしたくて俺を殺そうとしたのかわからないが、元凶を死なせて楽をさせるつもりはないんだよ。生きて、精一杯恥を晒せ」
「……ふざけるなよ! そんな理由で、過去の遺恨から逃げ切れると思っていやがるのかっ」
歩咲やサリヴェールフ姉妹から、茂という男は唾棄すべき悪。正面の男は昏い光を宿らせているも、まだ充分引き返せるような人間だ。争う原因は、おそらく茂にあるのは疑う余地がない。
しかし、いまさら謝罪を述べられるような空気でもない。そして、なにより面のよい男に死んでも頭を下げたくないという気持ちが大きかった。
「だから、知らんっていっているだろうが! 文句なら過去の自分にいえっ」
無茶苦茶な言葉を吐き捨てた。自覚はあるが、後悔は微塵もない。
両者ともに、罵倒を吐き捨て睨み合う。
胸中に溜まった思いをいうだけいうも、依然として亮平からは怒りが消える様子は感じずにいる。
「お前が知恵を足りず、話しが通じない間抜け野郎なのは知っていたが、改めてこんな奴を敵視していたかと思うと自分が嫌になってきやがる」
「おい、それ言いすぎだろ」
さんざん貶されるものの、逆らう気はないようだった。憮然とする亮平は歩咲にやられダメージは抜けておらず、立ち上がるのも辛苦している。
突如、激震と轟音が建物を揺さぶった。壁が一気に崩れ、ふたりの足元の床ごとその一帯が階下へと投げ出されてしまう。
不意の事態に、なすすべがない。
茂はしかたなしに肩を貸そうとしていたところだった。咄嗟に亮平の肩を掴もうとする。ところが、亮平はそれより早く、茂の身体を押しのけていた。砕けた床の外に飛ばされた茂は、落下していく亮平を見つめる。
急いで足元に消えていった亮平の姿を探そうと視線を落とす。黒煙と赤い火炎がごうごうと垣間見えるだけで、どこにも亮平とおぼしき姿はどこにもなかった。
「馬鹿野郎が……」
苦い顔を浮かべながら、茂は早々に起きあがろうとする。哀惜の念に湛えることは許されなかった。彼に助けられた命、こんなつまらない場所で捨てられない。
だが、がくりと膝を折ったまま、思うように立ちあがることができずにいた。
脚に力が入らず、立ちあがる動作に失敗する。倒れこんだ茂は、顔から灰色の一面にダイブした。
「これは、さすがにマズいな」
ただちに、この場から逃げなければならないというのに、さすがの茂も精根が尽きようとしていた。
この感覚は、彼はよく知っている。茂の背後に忍び寄る死神が、冷たい息吹を身近で漏らされ、氷と類にした身で抱擁される感覚。死の宣告が告げられようとしていた。
「くそ、彼女もつくれていないというのに……」
どんなにずば抜けた気力を持っていたとしても、底はある。限界を達している身体を動かしていたのは彼の気力にあった。
生きることを捨てたわけではない。いまも、うずくまるような体勢から、力の入らない両腕を使って立ちあがろうとしている。
「こんなところで、セカンドライフを終わらせてたまるか!!」
ぐおおおおおおおおお、と雄叫びをあげ、立てないなら這って外を目指せばいい。尽きようとしていた気力が、急激に熱しはじめて湧きだす。あきらめの悪い茂は、白い歯をむき出しにして粘った。
その動きは緩慢ながら、確実に前へと進む。
黒煙のせいで視界が悪く、出口となる窓が見えなくなっている。もはや、気持ちだけではどうにもならなくなっていた。
焦りと煙も相まって、茂の呼吸に支障をきたして苦しい。
そこへ、少女ふたりが駆けつけた。二人の少女は、まだ外に避難してなかったのだ。
「大丈夫ですか先輩!」
「まったく、自分のこともままならないのに、自分を襲った奴を助けるなんて大馬鹿よ!」
「はは、結局俺が助けてもらっているし、情けない話しだよな」
「なにをいまさら、あんたが情けない人間なのはわかりきっているわよ。助けてもらった義務として、最後までしっかり助かりなさい」
「……そうだな。レイナのいうとおりだ」
いよいよ背後では、空間を揺るがせる轟音とともに、頭上から石塊が降りかかってきた。押し寄せる崩壊の魔の手が、矢継ぎ早に掴みかかろうとしてくる。それを必死ではね除け、ふたりに肩を貸してもらいながら、茂は頼りない両足を動かして酷使した。
大きく少女の助けもあって、トップスピードを維持したまま、三人はガラス窓をくい破った。飛び出した瞬間、建物全体が断末魔を迎える。崩壊の衝撃とそれにともなう落下の衝撃を背中で感じた。
浮遊はほんの一瞬。落下が始まり、落下速度を低下するものも遮るものもなにもなく、そのまま身体を地面に叩きつけられた。
限界を超えた身体では受け身を取るのは難しく、着地に失敗する。痛みと、いくらか咳き込む。
茂らは、ゲームセンター前に転がった。連続する衝撃の震動。建物は古いのもあり、一階にも被害が広範囲にわたる。
崩壊によって生まれた残骸がばらまかれ、膨大な量の粉塵をたちこめて辺り一面を包む。
茂の視界には、瓦礫が山となって覆いつくされた。その形は完全に失う。
倒壊の騒ぎが止んで少しして、アーシャが駆け寄ってくる姿とともに、遠方から鳴り響く消防車のサイレンが近づくのを聞こえた。