異界の夜 ‐ ②
今置かれている状況がよくわからない。
ここは日本じゃなくて、ましてや地球でもなく。
そしてここは自分の家でもない。
誰かに用意された落ち着きのある部屋の真ん中で、一人の少女と対峙している。
流れるような金色に輝く髪に、小柄で細見な体格にもかかわらず強調してくる胸のふくらみ。
柔らかく包み込むような衣服は若干透けていて、少女のスタイルをうっすらと窺う事ができる。
元の世界のアイドルとはまた違う、自然体であるにもかかわらず隠し切れない魅力に思わず見とれてしまう。
「あ、あの……春人様。そんなに見つめられると恥ずかしいのですが」
そう言って少女は下を向く。
その頬はうっすらと赤く染まっていた。
「ご、ごめん。いや、見つめるっていうか、そのなんていうか可愛いからつい」
可愛いという言葉にステラは顔を更に赤くする。
しどろもどろなこちらの慌てぶりも恐らく気づいていないのだろう。
それほどにお互いに余裕の無い状態だった。
『男女の交わりが一般的ですよ』
先程言われたニーナさんの言葉が頭をよぎる。
具体的な事は『女性に何を言わせるんですか』とか言われてはぐらかされたが、つまりは言葉にしづらい事という訳だ。
すでに二十歳の自分にとっては、それがどういう事かぐらい察しがついてしまう。
つまり、この二人きりの状況は、そういう事なんだろう、きっと。
「春人さま……」
ステラが不安げな声をあげる。
可愛らしい声と見上げる少女の潤んだ瞳に思わず眩暈を覚えそうになる。
やめてくれ、その声は俺に効く。
さっきから心臓の音がうるさい。
こんなに緊張したのはいつぶりだろうか。
部活の試合の重要な場面であってもこんなに緊張する事なんてなかっただろう。
正直逃げたいとすら思う。
しかし、それは目の前の少女にあまりにも失礼だろう。
ステラの表情からは不安がありありと感じ取れた。
きっと彼女は俺以上の不安を感じて、それでもこの場から逃げ出さずに、俺の目の前にいてくれているのだろう。
その気持ちには答えなくてはいけない。
「ステラ……じゃあ、お願いするね」
こちらの声にステラの方が少しだけ跳ねる。
その後、一度だけ深呼吸をすると静かに頷いた。
部屋は食事の時とは違い、中央のテーブルなどが除けられていて広々としていた。
ニーナさんは、こちらの食事が終わると部屋の中に数名の人を入れると、いそいそと部屋の中央に広いスペースを作っていった。
そのため、俺とステラは立ったまま向かい合う形になっている。
「それでは、春人様……よろしくお願いします」
そう言ってステラは右手を差し出す。
どうすれば良いかはよくわからないが、とりあえず手を取れば良いのだろうか。
「えっと……こちらこそ」
差し出された手を掬い上げるように手を合わせた。
触れたステラの手の温かみを感じる。
「その、こういった経験が無いから、その……うまくできるかわからないけれども」
「私も……その、こうやって異性の方とは初めてで」
お互いに自分の未熟さをさらけ出し、顔を見合わせる。
するとどちらからともなく笑みがこぼれた。
お互いがお互いの緊張をほぐすように、くすくすと笑い合う。
少しだけではあるが、それで気が楽になった気がした。
「では、これから春人様の魔術回路を活性化させます」
ステラはがこちらの瞳を見つめながらそう告げる。
魔術回路の活性。
それが、人が魔術を使うために必要な物という事らしい。
人は誰しもオドを使用して魔術を使う事ができるが、そのオドというものは体内の魔術回路内で生成され、体の隅々を流れ回るそうだ。
魔術にはオドが必要であり、オドの生成には魔術回路を使用できる状態にする必要がある。
その魔術回路を使用できるようにする事が、要するにキッカケという事なのだ。
「では、春人様」
そう言って、ステラが一歩距離を詰める。
お互いの体が触れそうな距離になり鼓動が速さを増す。
顔を合わせればお互いの息が届きそうな距離で、ステラはゆっくりと顔を上げる。
「その……お願いします。唇を」
それだけ言うとステラは静かに目を閉じる。
そのままこちらを待つかのように動かない。
よくあるシチュエーションではあるが、実際に体験するとこれほどのものなのかと思わず悲鳴をあげたくなる。
こんなにも可憐な少女にキスを求められるシチュエーションが現実世界にあるなんて想像できただろうか。
少なくともこの20年間そういった事があるなんて思いもしなかった。
頭の中で様々な思考が駆け巡る。
実際にはまったく時間は経っていないのだが、この一瞬が永遠のようにすら感じられる。
(ええぃ、こんなところで踏みとどまっても仕方ない!!)
意を決して、ステラの肩に手を添える。
これから起こる事を予感してか、ステラの体が少し強張る。
その反応に少し罪悪感を覚えるが、それでも目を閉じてこちらを待ってくれている少女の決意を無為にする訳にはいかない。
ゆっくりと首を傾けステラの唇に顔を寄せる。
あとほんの数センチ。触れていないのに肌の温かみを感じるような気さえする距離でゆっくりと目を閉じた。
ーーーっ。
唇に柔らかい物が触れる。
その瞬間、ステラの体が更に強張るのがわかる。
しかし、それも一瞬の事。徐々に体の力は抜け、お互いの唇の感触を確かめ合う。
ゆっくりと流れる時間。
鼻腔に甘い香りが広がる。
唇から感じる柔らかさは何と形容すれば良いかわからない程に心地よい。
(キスってこんな感じなのか……)
初めての経験に少しばかり感動を覚える。
触れ合う唇が暖かい。
その温かさが徐々に体を包んでいるような錯覚さえ覚える。
(ん……?)
そこで気づく。
もしかしてこの暖かさは錯覚では無く、実際に全身を包んでいるのでは無いかと。
その温かさはやがて小さな熱を帯び始める。
熱は身体の奥から指先に至るまで、あらゆる個所を駆け巡る。
まるで血液の流れが活性化するように、絶え間ない熱の奔流が眠っていた何かを呼び起こすように体内を暴れ回る。
ようやく思考が追い付いた。身体の異変をようやく脳が知覚し、閉じていた目を見開く。
ステラがゆっくりと唇を離す。
ゆっくりと離れていく柔らかな感触を惜しむ余裕は今の自分には無かった。
身体が熱い。
何か異物を流し込まれかのように節々が悲鳴をあげている。
内側から迸る何かを必死に抑えようと身体を抱きしめるが、抑圧された熱はさらに強さを伴って身体の外へ飛び出そうとする。
「春人様! 落ち着いて、ゆっくり深呼吸してださい」
ステラが慌てた様子で身体を抱きしめてくる。
再び広がる甘い香りを感じながらも、思考にはまったく余裕が無かった。
(息……吸ってっ)
荒い動悸をを何とか抑えながら、ゆっくりと肺に空気を送り込む。
途中何度か息を吐きだしそうになりながら、それでもゆっくり、ゆっくりと慎重に。
肺が空気に満たされたのを感じると、それを今度はゆっくりと吐き出す。
慎重に、慎重に。身体に溜まった熱も同時に吐き出すようにゆっくりと息を吐き続ける。
「大丈夫です。落ち着いて。ゆっくりでいいですから」
優しく囁くような声。
その声に導かれるように深呼吸を繰り返す。
息を吐く度、徐々に体内の熱は落ち着きを見せ始める。
濁流のように流れていた熱は、徐々に激しさを緩め荒々しさが影を潜める。
体内に何かが流れる違和感を感じながらも、その流れは今や清流のような落ち着きを感じる。
余裕が無く朦朧としていた思考がハッキリとしてくる。
それと同時に、体内で何かが開いているような感覚を感じた。
「春人様、大丈夫ですか?」
ステラは抱きしめてくれていた腕を離すと、心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。
彼女にとっても想定外だったのか、その表情からは若干の焦りが見て取れた。
「うん……落ち着いたけれど、今のは……」
「はい、先程私のオドを流し込み、春人様の魔術回路を活性化させました」
オドの流し込み。
そういう事が可能なのかという事に少々驚きを感じつつ、感じた熱の正体を知る。
「じゃあ、さっき感じた熱は」
「はい、私のオドです。本来他人のオドは身体に馴染む物ではありませんので、若干の拒否反応が出ます。
回路を覚醒させる際は、その拒否反応を利用して活性化させるんです。少し強引ですけれどね」
なるほど、と納得する。
しかし、こんなに激しい事になるなんて想像もしていなかった。
こんな事ならば、初めにある程度教えておいてほしかったものだ。
説明も無く苦痛を与えられた事に、若干恨めしく思ってしまう。
「ごめんなさい、本来であればこんなに反応が強く出る事は無いのですが……」
ステラが申し訳なさそうな顔をして俯く。
「え、そうなのか?
じゃあ、どうして今回はこんなに」
正直、熱で身体が破裂するのではというくらいの危機感を覚えた。
確かに思っていたものとのギャップに戸惑いはしたが、それは彼女自身も同様のようだ。
「恐らくですが、春人様のオドの量によるものかと思います」
「オドの量?」
先程の説明でも聞いたが、オドというものは人がそれぞれ自前で持っているものであって、その量も人によるらしい。
ステラの説明では、その量が一般的な人よりも多いため、反応が強く出たのではないかという事だ。
実際に過去にそういった例がある事はあるらしい。
しかしながらオドの量を測るという事が難しいため、あくまでも仮説という事らしいが。
「オドの量ねぇ……」
そう言って左手の平をまじまじと見つめる。
先程感じた熱はもう落ち着きを取り戻して感じなくなっているが、身体の中を何かが流れた違和感は残っていた。
今も何かが身体を駆け巡っているような錯覚を覚えて少しだけ気持ち悪くなる。
「でも、もう大丈夫なはずです」
こちらを心配して暗い顔をしていたステラだったが、落ち着きを取り戻した事に安心したのか明るい声をあげる。
「これで回路の活性化はできましたので、春人様は魔術を使う準備はできました」
そう言ってにこやかな笑顔を見せる。
その表情は何か大きな仕事を終えた達成感のようなものが見えていた。
しかし……。
その言葉と少女に少しだけ違和感を覚える。
確かに先程の体験は非常に衝撃的ではあったのだが、これだけで終わりなのかと。
確かニーナさんの話しでは。
「これで終わり……?」
ふと頭に浮かんだ疑問思わず口に出る。
その言葉の意味を理解できないのか、ステラは少し不思議そうに首をかしげた。
「そうですが……? ニーナからもそのように聞いていませんか?」
何か話が噛み合わない。
聞いていた話ではもっとこう……言葉で言うのもはばかられるような何かを行うと思っていたのだが。
嫌な予感を感じながらも、先程ニーナさんに伝えられた内容を口にする。
初めは不思議そうな顔をしていたステラであったが、その内容を聞くうちにみるみる顔が赤くなり、耳まで真っ赤に染まる。
そしてその顔の火照りを振り払うかの如く、素早く部屋のドアの方を振り返る。
「ニーナ! ニーナ!!」
焦るようで、若干の怒気を孕んだ声色で部屋のドアに向かって声を張り上げる。
その言葉に呼応するように、部屋のドアがガチャリと開いた。
恐らくは部屋の外で待っていたのだろう。ニーナさんが落ち着いた様子で姿を現す。
いや……良く見ると肩が小刻みに震えている。
これ、絶対笑うの我慢してるやつだ。
無表情の振りをしていて、実は結構腹黒なのかもしれないと直感が告げてくる。
ひくひくと口角を上げそうになるのを我慢しながら、ニーナさんがゆっくりこちらに近づいてくる。
ニーナさんの姿を確認するや否や、ステラが立ち上がりその懐に飛び込んだ。
勢いはあるものの軽いのだろう、ニーナさんは少女の突撃を優しく両手で受け止める。
腕の中で少女は「もう……! もう……!」とか言いながらニーナさんの胸にすがりつく。
傍から見ると何とも微笑ましい光景な気もするが、騙された身としてはたまったものではない。
こちらからもいくつか恨み言を送っておくことにした。
ーーーーーー
「しかし、春人様の反応にはまたしても驚かされますね」
落ち着きを取り戻したステラを引きはがすと、3名で再び席を囲む。
テーブルやソファーといった家具はというと、先程屈強な男衆が乗り込んできて元に戻してくれた。
「本来であれば、ここまでの反応が出る事は無いのですが……」
そう言ってニーナさんは考え込む。
彼女にとってもこれは想定外であったらしい。
そもそも、子供の頃に両親によってと言っていた内容なのだ、本来はそういう過激な事があろうはずが無いのだ。
というか『男女の交わり』という単語に惑わされ、誰しも子供の頃に両親によってキッカケを与えられている事を失念していた。
勘違いをしてた事を思い出すと、ベッドに潜り込んで身もだえしたくなる。
「やはりオドの量が関係していると考えるのが可能性としては高いでしょうね」
裏付けが無いだけに何とも言えないですけれどね、とニーナさんは付け加える。
ただ、原因はよくわからないが悪い兆候では無いらしい。
実際に同じような現象が起きた人の例では、その後に目覚ましい活躍をしたという話が多く残っているそうだ。
「何はともあれ、本日はお疲れ様です。
魔術の使用は回路が身体に馴染んでからの方が良いと思いますので、本日は休まれてはいかがでしょうか」
その提案はありがたい。
こちらに召喚されてから色々あった上に先程の体験だ、正直精神的な疲れがドッと押し寄せてきていた。
提案を素直に受け入れて、明日の段取りだけ確認する。
「では、明日の朝に朝食をお持ちいたします。詳しい話はその後としましょう」
ニーナさんはこちらの疲れを察してくれているのか、あえて多くは伝えず話を切り上げてくれた。
先程の悪戯? は正直勘弁してほしいところだが、根は気配りのできる良い人なのだろう。
席を立つと部屋を出る準備を始める。
先程の慌てぶりからすっかり大人しくなってしまったステラもその後に続く。
彼女にとっても今夜は色々と大変だったのだろう。
色々とあって少し目を合わせづらい気もするが、一晩寝れば元通りになれそうな気もしていた。
「では、春人様。また明日の朝に」
そう言ってニーナさんは軽く会釈して部屋を出る。
丁寧ではあるが、態度は少しフランクになったような気がして安心する。
「じゃあ……その、ステラもまた明日。今日はありがとう」
ステラに声をかける。
若干の気まずさもあって声が上ずっている事に少し恥ずかしくなる。
「あ……はい」
しかし、そんな事に気づいていないのか、ステラは相変わらず下を向きながらドアに向かって歩き出す。
どこか様子がおかしい気もするが、先程の事もあってそれは自然な気もした。
ドアの前まで歩を進めるステラを見送る。
華奢な体に、ふわりと膨らんだスカートが左右に揺れていた。
しかし、その揺れは扉の前でピタリと止まる。
「その、今日勘違いされた事ですけれども……」
ステラはこちらを振り返らない。そのため表情を伺い知る事はできなかった。
ドアの先を見つめたまま、こちらに向けて言葉を投げかける。
「春人様が望まれるのでしたら私は良いですよ……私は春人様のモノですから」
それでは! と言って少女は勢い良く部屋を飛び出して行った。
バタンと扉が閉められる。
突然の事に理解が追い付かず頭がぼうっとする。
その数秒後、少女が残していった甘い囁きに、再び身体中が熱を帯びたような気がした。