異界の夜 ‐ ①
辺りは一面の闇だった。
体の輪郭は曖昧で、自分の存在というものすら確認できなくなる。
ベッドに倒れ込んで数秒で意識は落ちた。
どうやら相当疲れていたらしく、心地良いベッドの柔らかさに抗う力は残っていなかったらしい。
そして気づいた時にはここにいた。
正確には「いる」事を自覚できなくなってきてはいるのだが。
周りに目印になるようなものは存在しない。
どこを向いても闇そのものだった。
しかし夢……にしては違和感がある。
夢ならばもう少し景色が変わる気がする。
それに意識もハッキリしないまでも、夢というにはこの現状を認識できてしまっている。
この感覚、少しだけ覚えがある。
どこまでも続く闇に自分の姿も確認できない。
体の輪郭は曖昧で、まるで世界に溶け出してしまっているようだ。
そう、この感覚、この世界に召喚された時に引き込まれた闇の中とよく似ていた。
ーーー。
誰かに呼ばれた気がした。
しかし周りの景色は一向に変わらない。
そもそもこんな場所に自分以外いるとも思えなかった。
ーーると。
まただ。
今度は確かに音を聞き取れた気がする。
ると……もしかして名前を呼ばれたのだろうか。
はると。
3度目の呼びかけ。
間違いない。この闇の中で誰かが声をかけてきている。
でも一体誰が……こんな場所で。
疑問が次々と頭の中を駆け巡るが、考えがうまく纏まらない。
やがて聞こえていた声も認識できなくなる。
混濁した世界の中で、意識はゆっくりと闇に落ちていった。
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扉をノックする音で目を覚ます。
どうやら少しばかり寝てしまっていたようだ。
窓から外を見ると、先程までの明るさは無くなっており、宵闇と灯の光が差し込んでいた。
「はい、空いてますよ」
扉の向こうに声を返すと、扉がガチャリと開きニーナさんが姿を表す。
「失礼いたします」
丁寧に会釈をして扉をくぐる。
どうやら何かを持ってきたようで、少し大きめのワゴンを押していた。
ワゴンが近くにつれて、香ばしい良い香りが立ち込めるのがわかった。
おそらくワゴンに積まれたものだろう。
ニーナさんは部屋に一つだけあるテーブルの前まで移動すると、ワゴンを置いてこちらに向き直る
「夕食をお持ちいたしました」
そう言って丁寧に頭を下げる。
妙にかしこまった感じに慣れず、落ち着かなさを感じながらも
軽く会釈をしてベッドから立ち上がる。
結構長い時間寝ていたのかもしれない、こちらに来てから少し体に怠さを感じていたが、
先程に比べるといくらか体が軽いように感じた。
「すぐに用意いたしますので、ソファーにお掛け下さい」
ここ最近一人暮らしに慣れていたせいか、こうして誰かに食事を用意してもらうのが少し新鮮に感じる。
ソファーに腰掛けると、目の前でニーナさんがテキパキと料理を用意してくれた。
料理の種類はどちからというと西洋風のものが多いようだ。
見たこともない薄紅色の葉を使ったサラダのようなもの、暖かく湯気をたてるスープに数個のパン。
そして中央には鶏肉と思わしきものを香ばしく焼いたものが置かれている。
食器もナイフやフォークなど、異世界とはいえその点はあまり変わらないんだなと少し安心する。
「お口に合うかわかりませんが、どうぞ召し上がって下さい」
そう言って再び深々と頭を下げる。
やっぱりこういった扱いには慣れない。
なんだかむず痒くて仕方がないのだ。
「あの、ニーナさん、そこまで畏まられなくていいんだけれども」
その言葉にニーナさんは少し表情を曇らせる。
何を言っているんだこの人はとか思われてそうだ。
とはいえ、このままの扱いも耐え難いものがあるので、ここは何とか食い下がる。
「こういう扱いって慣れてなくて、個人的にはもう少しフランクに接してもらえると有難いなって思うんだけれども。ダメかな?」
「いえ……そういう訳にはまいりません。なにせ春人様は救国の英雄なのですから」
表情は相変わらずよくわからないが、その言葉には何か信念があるようにも感じる。
が、ここで折れる訳にはいかない。
「英雄……って言っても、まだ何もしていない訳だしさ」
つまりはそういう事だ。何と言うか非常に申し訳ない。
だって感謝されるような事は何もしていないのだ。
そりゃあ無理やり連れてこられたという点に関しては、少しばかり配慮してもらいたくはあるが。
とはいえ、こうも畏まられてはやりづらくて仕方がないのだ。
「しかし……」
ニーナさんは少し困ったような顔だ。表情が薄くて何ともわかりづらくはあるが。
しかし、そんな顔をされるとこちらとしても申し訳なくなってくる。
何も悪い事はしていないはずなのにだ。
「本来であれば、何の危険も無い生活を送られていたであろう春人様を、こちらの都合で巻き込んでしまった訳ですし」
うん、それはわかってる。
十分に考慮してもらいたいところではあるが、それはまた別の問題だ。
「それはそうだけれれども、なんていうかそういう扱いに慣れてなくってさ。
あまり丁寧にされると、逆に疲れるっていうかさ」
そう言って苦笑いをする。
ニーナさんはそれでも難しい顔をしていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「承知しました。では、もう少しフランクに接しさせていただきます」
そう言うニーナさんの言葉はフランクとは程遠い気はしたが、意図は伝わっただろうし後は徐々に良くなっていく事を期待しよう。
ありがとうと伝えると、目の前の食事に手をつける。
異世界の料理はどこか馴染みのある味で、抵抗無く胃の中に納まった。
少なくともこの世界での食事に難儀する事は無さそうだ。
「ごちそうさま。とても美味しかったです」
「お口に合ったようで何よりです」
ニーナさんは食後の紅茶を用意してくれる。
一人暮らしの頃とは打って変わった優雅な夕食だ。まるで貴族になったかのように。
「そういえば……」
貴族という事で思い出す。
そういえばステラはこの国のお姫様だったんだよなと。
先程見た少女のような振る舞いを見ると、年相応の可愛い女の子にしか見えないのだが、国を背負うという大きな重圧を背負っているのだ。
しかしそうなると気になる。他の家族はいないのだろうか。
少なくとも、あの年であれば両親は健在だと思われるのだ。
「ステラには……その、両親とかっていないんですか?」
その質問に、ニーナさんの手がピタリと止まる。
ニーナさんは少し迷ったような素振りを見せるが、すぐに平静を取り戻すと紅茶のカップを目の前に置いてくれた。
「ステラ様のご両親はすでにお亡くなりになられております。もう10年も前になりますね……」
「10年……って事は、今回の戦争とは特に関係は無いって事なんですね」
こちらの問いにニーナさんは静かに頷く。
てっきり戦争によって命を落としたのかとも思ったが、そうでは無いようだ。
ニーナさんは少し寂しそうな顔をしながら、それから先の言葉を続けようとはしなかった。
こちらとしても、重い内容な事もあってこれ以上は聞きづらい。
結果として、室内は静寂に包まれる事になった。
「あ、あー、あのですね」
静寂に居づらさを感じて少し変な声を挙げる形になった。
それを見たニーナさんは少しだけ苦笑するとこちらに顔を向けてくれた。
先程のお願いのためか、少しばかりニーナさんに表情が表に出てくれている気がした。
「この後って、さっきの続きをやるんですよね?」
「はい、その予定になっておりますが、お疲れですか? そうであれば明日にでも変更いたしますが」
こちらを気遣ってくれるのはありがたいが、この世界の事は早く知っておきたい。
戦争中という事なのであれば、一分一秒を争うかもしれないのだ。
それに今の自分に何ができる事を確認しておきたかった。
「いえ、続きをお願いしたいです」
明確な意思を伝えるとニーナさんは少し驚いた顔をしたが、やがて頷くと何故か満足そうな笑みを浮かべる
「そうですか、春人様もステラ様の事、お気に召されたのですね」
「ーーっ!!」
突然のセリフに、口に含みかけていた紅茶を吹き出しそうになる。
「ま、待って、どうしてそうなるんですかっ!」
こちらの反応に何故かニーナさんはキョトンと不思議そうな顔をしている。
なんだその意外な物を見たっていうような反応は。
「え……だって、この後の事、ステラ様に伺われているのですよね?」
この後?
確かに先程の最後にステラは何か意味深な事を言っていたような気がしたが。
「ステラ様も最初は非常に心配されていましたが、春人様を気に入られたのか、わざわざ春人様にこの後の事を話しに行かれるとは」
ニーナさんは何故かしみじみと感じ入るように話を続ける。
その言葉にどうにも違和感が拭えない。
というか、この感じをどこかで感じた事があるような……。
たしかこれは、そう。テレビでやっていたドラマで、お見合いの仲人が二人の様子を見て嬉しそうに話をするようなそんな感じ。
何故か背中からドッと汗が噴き出るような気がした。
嫌な予感がする。目を逸らしたい気もするが、逃げられそうにもない。
そして、観念したように恐る恐るその言葉の意味をニーナさんに尋ねるのだ。
「あ、あの。この後する事って、魔術を使うためのキッカケを作るだけですよね……?」
「そうですよ?」
ニーナさんは何を今更という表情だ。
「あの……キッカケって具体的にはどうやって?」
「ステラ様から聞かれていないのですか? 魔術のキッカケを作るには男女の交わりが一般的ですよ」
……。
だん……じょの……まじわ……り?
それは、つまり。
ーーーっ!!
脳の理解が追い付き、声にならない叫びをあげる。
この世界でもう何度驚いたかわからなくなってくるが、とにかく今回もただ事では無い内容に頭の中は真っ白になった。