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うちの子は可愛いシリーズ

彼女の甘えごと

作者: こめぴ


「「はぁぁぁあああ…………」」


 暗く重い、聞いているだけでこちらの気が悪くなるようなため息。机を挟んで正面にいる友人二人は、机に突っ伏しながらいかにもげんなりとした顔でそれを漏らした。放課後の騒然とした空気にそれは溶け込んでいく。


「ため息をやめろ。こっちまでなんか落ち込んでくる」

「だってよぉ、今年もゼロだぜ?」

「今年こそはって思ってたんだけどなぁ」


 そしてまたため息を吐く。俺はそれを呆れるように頬杖をついて見つめていた。


 まだまだ寒さが肌を刺す二月の上旬。もっと詳しく言ってしまえば二月十四日。要するに、バレンタイン。教室全体――特に男子――がそわそわしていた一日の終わりは、特に何事もなく終わろうとしている。

 教室のあるところでは女子が集まって机の上にチョコを広げ、また別の場所ではこいつらみたいに落ち込む奴がいて、またさっさと家に帰るやつもいて。

 俺もそのさっさと帰りたいやつの一人なのだが、なぜまだ教室にいるかといえば、他でもないこの二人に止められたからだ。

 今時好きな男子にチョコを贈る女子なんてほぼ絶滅したんじゃないかとは思うが、それでも彼らは望みを抱いていたらしい。登校した時や休み時間の落ち着かなさは、見ていて気持ち悪いものがあった。

 そして迎えた終礼の時間。予想を裏切ることなく、こうして友人二名は見事に撃沈していた。


「今年こそはって言ってもお前ら特に親しい女子もいないだろ」

「言うなよそれを!」

「もしかしたら陰ながら思ってくれる子がいるかもしれなきだろお!」


 それこそねえよと、そう言おうとしてその言葉を飲み込んだ。いや、いた。あいつこそ、そんなやつだったのを思い出したから。


「お前はいいよな。一つもらってただろ」

「あれはただの義理だ。言うなら友チョコ。間違ってもお前らが考えるようなもんじゃないから」

「義理チョコだからノーカンだとでも……?」

「お前それを義理チョコすら一つももらってない俺らにいうのか……?」


 二人して目を見開いて、グイと顔を近づけてくる。野郎の顔が近づいてきても嬉しくはない。当たり前のように椅子を引いて距離をとった。


 事実、あれは友チョコであり、義理チョコであり、もう一つ言うならお礼らしい。そのチョコをくれた友人はこの前テストで俺が勉強を教えたおかげで赤点を回避できたらしく、そのお礼だそうだ。あとは普通に友達だからこその義理チョコ。

 だがやはり彼らからしてみればそれでも十分羨ましいそうで。椅子の背もたれにずり落ちるような体勢で姿勢を崩しながら、また重いため息を吐いていた。


「あ゛ー、彼女ほしー」

「あ゛ー、女子の友達ほしー」

「お前ら言ってて悲しくならないか……?」


 見事に欲望ダダ漏れである。これさえなければ、少しはまともになると思うのだが。


「男子高校生なら当然の欲望だろうが」

「むしろなんでお前はそんなに淡白なのかの方が俺としては――」


 彼らはそこまで言って、突然口を止めた。視線はこちらの方に向け、だがしかし俺は見ていない。彼らの意識は俺の後ろの方へと向かっていた。当然俺は首を傾げた。

 後ろに何かあるのだろうか。

 振り返ろうとした時、トントンと誰かに軽く肩を叩かれる。反射的に振り返り――ぷにっ、と。

 頬を突かれたような、そんな感覚。すぐに理解した。ああ、これは肩を叩いて振り返ると人差し指が頬に刺さるあのいたずらかと。


 そっと視線を上へ。俺の視界が紺色のブレザーの上を滑り、水色の胸元に咲くリボンを捉えた。そしてもう少し上に。


「こんにちは、先輩」


 鈴が鳴るような綺麗な声を、細い喉が奏でる。

 黒いショートヘアー。雪原のような肌。黒真珠のような瞳。

 それらを携えた見覚えのある顔が、ニヨニヨといやらしく笑みを浮かべていた。

 少し、イラっとした。


「……何の用だ?」

「何の用だとはまたひどいですねー。せっかくかわいい彼女が迎えに来たというのに」

「俺は何も聞いてないんだが?」

「そりゃそうですよ。私は何も言ってませんから。何か言う必要もありませんでしたから。彼女が彼氏に会いにくるのに、何か理由が必要ですかー?」

「…………」


 正直なところあった方が良いとは思うが、それをそのまま口にするわけにもいかない。特に言葉が見つからず、結果彼女の視線からもその人差し指からも逃げるように顔をそらした。

 その逸らした先、視線の先で友人二人が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。

 そこでふと気がつく。

 この高校では階によって並んでいる教室の学年が違う。違う学年が教室に来るなんて、滅多にあることじゃない。つまりは、今目の前でニヤニヤ笑っている彼女はかなりの視線を集めていた。そんな中で言われた先の歯の浮くようなセリフ。なぜかこっちが恥ずかしくなり、んんっ! と一度喉を鳴らした。


「とりあえず、移動しようか」

「おや、お友達はいいのですか? なんなら私はこのまま、一人で、帰ることにしますが。それは寂しいので、できれば先輩をお借りしたいのですが」


 強調するように一つ一つ区切って。「いいですか?」と彼女は友人に笑いかけた。彼らは首を勢いよく縦に振って、どうぞどうぞと。彼女は年下なのに、なんとも情けない。まあ俺も人のことは言えないが。


「では、私は先に行ってますね、先輩」

「ん、俺もすぐ行く」


 言葉をそう交わし、彼女は出て行った。俺たちに集まっていた視線と意識が、ようやく霧散する。縛られたものから解き放たれたかのように肩から力が抜け、ほぅと一息吐いた。


「……そう言えば、お前彼女いたんだったな」


 地獄の底から這い上がってきたような声だった。その主は当然目の前の友人。二人が二人、それこそまるで親の仇でも見るような目でこちらを見つめている。


「悪いか」

「いいや? ほら、早く行けって。彼女さんが待ってるぞ」

「そうだそうだ。裏切り者はさっさと帰りやがれ!」

「はあ……わかったよ」


 ひどい言い草である。すこしげんなりしながら立ち上がり、リュックを背負った。

 彼女持ちをひどく妬むのはいつものこいつらだから特に思うことはないが。

 だがこいつらの言う通り彼女を待たせるのもよくない。あまり待たせると何を言われることか。

 席を離れドアに向かう途中。


「爆発しろー!」

「明日覚えてろ! もう一回爆発させてやるからな!


 背後からそんな叫び声。

 うん、すこしムカついた。

 振り返れば、すこしぽかんとした二人の友人の顔があった。いつもならそのまま無視して帰るからすこし驚いたのかもしれない。そんな彼らを無視したまま、とりあえず得意げな顔を浮かべた。途端、彼らの瞳が大きく揺れる。それを見てとりあえず満足し、俺はまた外に歩き出した。


「「くそー!!」」


 普段から彼女がいることに優越感を覚えたことはないし、自慢したこともない。自分から得意げに話すこともないし、聞かれたら言う程度。

 だがまあ、たまにならいいだろう。

 友人の叫び声をバックに聴きながら、すこしスッキリした気持ちで外に出た。






 教室を出てすぐにいた彼女と合流し、そのまま帰路につく。校舎から出た俺たちを出迎えたのは、焼けるような夕日だった。外へと流れる帰宅途中の生徒たちに混じり、騒然とした空気の中俺たちも学校から外に出た。

 見慣れた景色を横目に俺たちは街を歩く。少し歩いて住宅街にさしかかり、人通りも少なくなってきた頃。「ああそういえば」と、俺は彼女に声をかけた。


「今日はどうしたんだ? いつもこっちまで来ることなんてほとんどないだろ」


 俺と彼女が一緒にいる時間は、特に学校では意外と少ない。一緒に帰ることもあまりないし、俺も彼女も、どちらかといえば会いたいと思った時に会うスタンスでいる。学年が違えば階も違う。すれ違うことも、なんなら顔を見ることすら学校ではあまりない。だからこそ俺の教室まで来たことにかなり驚いた。


 俺としては当たり前の疑問だったのだが、隣で歩く彼女はといえば呆れたような、げんなりとしたような目で俺を見つめていた。


「……先輩はあれですね。本当に救いようもない馬鹿野郎ですねー」

「そんなに馬鹿なこと言ったか?」

「自覚がないとはさらに救いようがないですね。さっきの先輩の友達のような無関係そうな人でさえ覚えているのに、まさか、まさか先輩が忘れているなんて」

「なんであいつらが……?」


 あいつらのことを引き出され、ふと頭に浮かぶ一つの可能性。

 確かにこのことだったら俺は彼女の言う通りの馬鹿野郎だが、すこし認めがたい。

 認めがたいというか、認めにくい。

 ふと彼女に視線を向ければ、相変わらずまっすぐこちらを見据えていた。それはまるで俺の回答を待っているようで。

 口を開けては、すこし唸ってまた閉じる。それが正解だったら俺は本当に馬鹿野郎だからこそあまり口にしたくないのだが、彼女はまだ俺を見ている。諦めて一つの息を吐き、ようやく俺は口にした。


「まさか……バレンタインか?」

「……そーですよ、それですよ」


 彼女は視線をようやく外して、すこし下へ。拗ねるように口を尖らせて、そう呟いた。

 対する俺は頭を抱えたくなるような心地だった。

 マジか。本当にそれなのか。

 いや、全く頭になかったわけじゃない。今日がバレンタインだと意識できる出来事は、その二人の友人なり義理チョコなりであった。でも彼女がそれを意識しているとは思わなかったのだ。事実、去年は俺が高校生で彼女が中学生というのもあったが、彼女はその話題に触れもしなかった。俺はかすかに期待していたのに。

 

 でもしかし。

 考えれば考えるほど俺は馬鹿野郎で。ついつい大きくため息をついてしまう。


「……やっと自分がどれだけ馬鹿野郎か自覚しました?」

「ああ。ていうかお前こそなんでだよ。去年は何もなかったのに」

「別になんでもいいじゃないですか」


 彼女は急に歩く速さを上げ俺の前を行く。すこし言ったところでクルリと振り返り俺に向き直った。


「理由なんてなんでもいいんですよ。私があげたくなったからあげるんです」


 夕暮れの風が彼女の柔らかな黒髪を揺らした。手を後ろに組んではにかむように微笑むその顔は、夕日のせいかすこし朱に染まっていて。文句を言おうにも、言葉が出てこなくなる。


「と、いうわけで。ハッピーバレンタインです、先輩」

「あ、ありがとう……」


 そう微笑んで彼女は後ろで組んだ手を前に突き出した。そこに握られていたのは放送された小さな箱。あの義理チョコをくれた友人には悪いが、なんだかこれはかなり貴重なもののような気がして。やけにおどおどしく受け取ってしまい、それを見て彼女はクスクスと笑みを浮かべる。

 その受け取った小箱に目を向けた。買って来たものだろうか、やけにしっかりとしている。包装はチョコのような茶色一色でシンプルに、そしてその中央には『GODIVA』と書かれていて――


「ゴディバ!?」


 思わずそう声をあげた。

 その反応も彼女の期待通りだったらしい。ニヨニヨと楽しそうに薄ら笑いを浮かべていた。


「どうしたんですかー? 先輩。あまり大声を出すものではないですよ。キーンてしますから」

「いや、これはしょうがないだろ。まさかこれ買ってきたのか?」

「私も流石に人からもらったものをバレンタインに渡すなんてことしませんよ」


 いや、むしろそっちの方が精神的には嬉しかったり。もちろん彼女からもらえることは嬉しいが、これはお返しが大変そうだ。

 それに、すこし手作りを期待してしまったところも確かにあるのだ。でもまあ、それはしょうがない。彼女がお菓子を作るなんて聞いたことがないし、こちらから注文をつけるのも違う気がするし。


「いや、でもありがとう。こんな高いもの、なんていえばいいか……」

「いえいえ、礼には及びませんよ」


 そう言って彼女はより一層笑みを深くして。


「ゴディバなのは外の箱だけで中身は手作りですから」


 それこそ少しも悪びれた様子もなく、彼女はそう言った。


「……一応聞くけど、なんで?」

「もちろん私なりの気遣いです。貧乏舌の先輩ではゴディバの味はよくわからないかと思いまして」

「先輩であり恋人の俺にかけるには少し失礼すぎないか? まあ否定はできないけど……」

「でしょう?」


 そう言う彼女はなぜか少し自慢げで。両手を腰に当て少し胸を張るその姿は見ていてほほえましい。

 でもまあ貧乏舌で味がよくわからないとしても食べてみたかったのもまた事実で。


「……で、どうだった?」

「どう、とは?」

「ゴディバ、お前が食べたんだろ? おいしかったか?」

「ちょっとよくわかりませんでした」

「お前も貧乏舌じゃねえか」


 思わず肩を落とした。すべてを信じるわけじゃないが。俺をからかうための嘘の可能性もある。黒い瞳を見つめるが、狐のように目を細めて笑うだけで、そこに込められた意味は俺には読み取れなかった。



 チョコも受け取ってまた歩き出して少し。空の向こう側も黒く染まり始めた。冷え込んで、息を吐けば白い吐息が青い空気に溶け込んでいく。そんな中俺と彼女は住宅街を進んでいた。

 手が冷えてポケットに突っ込めば何かに触れる。先ほど彼女から受け取ったチョコレートだ。彼女の余計なサプライズはともかく、中身は手作りらしいしその場で食べてみたかったが、彼女に止められてしまった。


『私、恥ずかしながらお菓子作りは初めてでして。まずいとかお世辞を言われたら傷ついてしまいますので、感想はいいです』


 というのが彼女の言い分。彼女ならそつなくこなしてしまいそうなものだが、そう言うのならしょうがない。


 さて、彼女の目的も達成しあとは帰るだけ。幸い帰る方向は同じだ。だからこそ珍しく隣で歩いているわけだがーー


「…………」


 横目で彼女を見る。相変わらずの彼女だった。薄く笑みを浮かべながら、きれいな声で言葉を紡んでいる。だがすこし、違和感。


「――お、とっと」


 突然彼女がふらついた。手を伸ばすが、彼女には必要なかったらしい。自分で体勢を立て直し、何事もなかったかのように歩き出す。やっぱり、違和感。


「なあ」

「はい、なんでしょう」


 こちらに向いた彼女はぱっと見何もおかしなところはない。いつも通りの彼女。だが俺にはどうしても引っかかるところがあった。

 間違っていたらどうしようか。

 そんなことを考えながら、重い口を開く。


「お前……熱ないか?」


 そう問いかければ、彼女は珍しく動きを止めた。そして数瞬して、ようやく動き出す。


「……やだな先輩。熱なんてありま――」

「ちょっとジッとしてろ」


 彼女の言葉を遮って彼女に詰め寄った。少しかがんで彼女の前髪を上げる。「ちょ、先輩っ……」なんて言ってやけに慌てながら俺の手をどかそうとするその両手にも、いつもより力がこもっていないような気がする。

 彼女の額に手を当てた。そして、一つ息を吐く。手のひらに感じる体温は、明らかに高い。


「で、熱が何だって?」

「……先輩は馬鹿野郎ですね」

「馬鹿野郎はお前だよ」

「……」


 彼女は少し拗ねたように視線を外した。彼女らしくない表情や反応を多く見れるのはやはり熱だからか。俺からしてみればそれもまた面白いのだが、そうも言ってられない。

 よしと一つ意気込んでリュックを体の前で背負い、彼女に背を向けて膝をついた。


「……何のつもりですか?」

「結構ひどいんだろ? ほら、送ってやるから」

「……」


 少しの沈黙の後、背中にのしかかる確かな重さ。予想していたよりも、それはずっと軽い。そして両手が俺の首回りに回された。


「お前、荷物は?」

「教科書とかは全て学校に置いてきてますし、昼食も学食なので財布だけです」

「マジか……ま、ならいいけ――ど、っと……」


 彼女の太ももあたりに手を当てて、両足に力を入れた。そしてそこから一気に立ち上がる。

 意外と軽いものだ。なんならリュックの方が重いかもしれない。だから特におんぶをして歩くのが辛いとは思わなかった。


「……どうした私は先輩に背負われているんでしょうね」

「お前が熱だからだよ。歩くのもすこしおぼつかなかっただろ」

「まあいいです。ゴーゴーですよ、先輩。私の足となって家まで届けてください」

「こいつ急に調子付きやがって……。はいはい。ナビ、よろしくな」


 彼女は「わかりました」と呟いて、そこでようやく体を預けてくれた。彼女は顎を俺の肩に乗せ、密着度が上がって背中に感じる暖かい温度。やはり熱で辛いのかすこし荒い息はいつもより熱を持ち、俺の耳をくすぐる。その度にぞくりとしたものを覚えて、すこしだけ肩を跳ねさせてしまった。どうにか彼女にはバレていないようだけど。

 それだけじゃない。今の状態は彼女からすれば俺をからかえる要素が多いと思うが、何も言ってこないのはやはり彼女が熱だからか。俺の精神的な安定があるのはいいことだが、なんだか、物足りない。

 彼女が話さなければ自然と会話も減る。静かな沈黙の中、カラスと鳴き声をバックに俺たちはただ道を進んでいた。


 十分ほどだろうか。そこまで歩いたところで、ふと彼女は口を開いた。


「なんで、私が熱とわかったんですか?」

「なんでって、どういうことだ?」

「今日一日、もちろん友達とも過ごしてきましたけど、誰も気づかなかったんですよ。だから時間的にはそんなに長く過ごしてない先輩がなんで気がついたのか、なんて」

「お前、熱ってわかってたのに学校に来たのか?」

「あ」


 彼女が顔を逸らすのが背中の感触でわかった。彼女がこんなヘマをするなんて、やはり彼女らしくない。


「まったく……なんで来たんだよ」

「先輩には言いませんよ。あえて言うなら、先輩は馬鹿野郎ってことです」


 またそれかと、俺は頭をうならせる。でもそれ自体はどちらでもいい。来てしまったんだから、理由なんてなんでもいい。


「そんなことより、ですよ。私の質問に答えてくださいよー」

「別に、なんてことなって。なんとなくいつもより顔が赤い気がした。話し方も間延びが多かったし、足取りもいつもよりおぼついてなかったし。見てればわかる」

「…………」


 言えというから言ったのに、彼女からの反応がない。返ってきたのは熱い息遣いだけ。自分で聞いておいてどういうことか。首だけすこし振り返ろうとしたとき、ぐっと首あたりに回された手に力がこもった。

 すりすりと。ずりずりと。背中がうなじあたりに何かがこすりつけられる。額か、頬か、髪か。そんなところ。なんだか匂いを擦り付けている猫を連想させた。


「……そんなことまで分かるほどに視姦するなんて、先輩は変態ですね」


 それはまるで吐息のように。なんとか聞き取れたのは、彼女の口が俺の耳のすぐ横にあったから。


「…………」


 それはなんてことない、いつものようなからかいだった。いつも通りすこし反論しようとして、やっぱりやめた。

 落ち着いた、雪解けのような声。それは驚くほどに俺の心に染み込んで、小さな笑みを顔に浮かばせた。





 それからの彼女はスイッチが切れたように口数が少なくなった。喋る時といえば、「右」だの「左」だの案内だけで、それもひどく端的だ。だがそれに反して吐息だけはどんどん荒く、そして熱を持ち始めた。

 やっぱり、彼女も無理をしていたということなのだろうか。俺にバレて、緊張が解けたということだろうか。

 彼女と密着して密かに鼓動が早くなっていることから目をそらしつつ、ひたすら歩いた。

 救いがあるとすれば、彼女の家が学校からそこまで遠くもなかったこと。所詮は歩きで通える距離だ。背負い始めてから十分と経たずにそれらしき家が見えてきた。


「ここか?」

「そうです」


 住宅街にたくさんある家のうちの一軒。すこし同年代からは外れている彼女の家としては、あまりにも普通の家で拍子抜けしてしまう。

 何はともあれ、これで俺の仕事は終わりか。


「ん、じゃあここまでだな。ほら、降りろ」

「…………」

「どうした?」


 そう声をかけるが、彼女からの反応がない。どころか、首に回された手に力がこもった。


「先輩、私、つらいです。結構熱でつらいです。だるいです」

「……ん? ああ、だから、さっさと降りて、家に入って、あったかくして寝ろって」

「先輩、私、お腹すきました。誰かに看病して欲しいです」

「……ん?」


 彼女の言っていることに要領を得ない。支離滅裂なのはやはり彼女が熱だからか。

 いや、でもなんとなくは分かる。多分彼女は看病しろと、そう言っているんだろう。


「いま両親は?」

「仕事でー、帰ってくるのは深夜ですねー」

「……そうか」


 いやまあ確かに熱の彼女をこのまま一人でいさせるというのも、すこし罪悪感を感じなくもない。でもいいのだろうか。両親もいない彼女の部屋に上がり込んで。自分は彼氏なんだからそれくらい普通かもしれないが、なんだか熱の彼女につけ込んでいるようで、なかなか一歩踏み出せない。

 そんなことを考えながら、彼女の家の前でただ立ちすくむ。俺の考えていることなんてお見通しなんだろう。背後で息を吐く音が聞こえた。


「私は、先輩が看病するべきだと思いますけどねー。しないといけないと思いますけどねー」

「なんでだよ」

「先輩が気づくまでは誰も私が熱と気がつきませんでした。私が言わなければ、私は熱ではなかったわけです。しかし先輩が見抜いてしまった。つまり先輩が私を熱にした。先輩のせいで私が熱になったんですから、先輩が面倒を見るのは当たり前では?」

「何その超理論」


 一気に彼女はそうまくし立て、その後にぜえぜえと辛そうな息遣い。

 そんなつらいならそんな話さなければいいのに、と。そう感じて、すぐに思いつく。

 ああ、そう言わせてるのは俺か。

 ヘタレな俺の背中を、つらいのに押してくれているのだ。この愛しい後輩で恋人の彼女は。


「ん、ごめんな。わかった、そうする」

「え、なんですか。急に認めて、気持ち悪いですよ」

「はいはい。病人は黙って俺のなすがままになってろって」

「先輩。言葉がいやらしいですよ先輩」


 そんなやりとりをかわしながら、彼女の名字が彫られた表札の横を通り過ぎる。玄関に続く階段に一歩踏み出し、嬉しいような照れくさいような、不思議な感情に胸をこがせた。


 すこし吹っ切れたからか、彼女の家のドアは思ったよりも軽かった。「お邪魔します」と口にして一歩踏み込めば、一瞬立ちくらみ。これは人の家に来たらいつもなることで、彼女だからどうとかではないが。

 一旦振り返って、靴を脱ぐ。そこから一歩踏み出して気がついた。ああそうだ、彼女の靴も脱がせないと。

 そう思った瞬間、コンコンと何かが落ちる音が背後で鳴った。振り返ってみれば、乱雑に脱ぎ捨てられた彼女の靴が。どうやったかはわからないが、彼女は自力で靴を脱いだらしい。


「お前、靴くらいそろえろよ」

「いつもは揃えてますよ? でも今はしょうがないでしょう。先輩、あとで揃えといてください」

「はぁ……まあ、いいか」

「そうですそうです。こんな時くらい私を目一杯甘やかしてくださいな」

「いつも結構甘やかしてると思うんだが?」

「さあ、レッツゴーですよ先輩。私の部屋は二階です」

「無視かよ」


 いつものごとく一つため息をついて、歩き出した。ワックスがかけられわずかに艶めいたフローリングから、足の裏に刺さるような冷たさを感じながら廊下を進む。

 少し行って左手に二階に上がる階段があった。これを登ればいいらしい。階段を上っていくが、彼女がかなり軽いこともあって、特に辛くもなかった。

 階段を登りきって目に入った二つの部屋。


「こっちです。こっちが、私の部屋ですよ」


 そう行って彼女は左を指差した。ん、と頷いてそのドアを開ける。



 そこにあったのはカーペット、一人分の落ち着いたベット、勉強机、小さなテレビ。小物類はほとんどなく、必要なものだけ。


「どうですか? 私の部屋は」

「なんていうか、あれだな。すごいシンプル。お前らしいよ」


 一言で言ってしまえば、俺の印象はそれだった。

 いっそ殺風景なほどにシンプル。女子高生らしくなく、でも彼女らしいと言えば確かに彼女らしい。

 彼女もそう自覚しているのか、特に何かを言ってくることもなかった。

 あまりにもそれらしくない部屋に、変に緊張しているのが馬鹿らしくなる。だが一歩踏み入れれば覚えのある甘い香りが鼻腔をくすぐって。ああ、やっぱりここはこいつの部屋だなんて、安心に似た穏やかな気持ちが胸を支配した。


 何はともあれ、とりあえず彼女だ。ゆっくりと彼女をベットの上に下ろした。


「んじゃ、とりあえず着替えとけ。俺は外に出てるから」

「えー。着替えさせてくださいよ。病人、私病人ですよ?」

「それだけ口が動けばそれくらいできるだろ。いや、ほんと勘弁してくれ……」


 俺は自他共に認めるヘタレなんだ。ただでさえ初めて彼女の部屋に訪れて鼓動が早くなってるのに、それは辛い。


「……本当に先輩は初心(うぶ)ですね」


 背を向ければ背後からそう馬鹿にしたような声が聞こえた。





 看病というのはなかなか心が休まらないものだななんて、他人事のように考えた。

 俺は一人っ子で兄弟なんていないから看病の経験はない。だから俺がやる看病は看病のようなもの(・・・・・・)になってしまう。

 タオルを濡らして彼女の額においてみたり。当たり前だが作ったことのないおかゆをネットで調べながら作ってみたり。初めてのことでこれでいいのか、常に不安だった。

 他にも彼女の元から離れている間彼女は大丈夫かと頭を悩ませたり。何かをするごとに投げかけてくるいつも通りの一言に動揺したり。ふと呟く「ありがとうございます」に顔を赤くしたり。

 つまるところ心が休まらない理由の半分以上は彼女だったりするのだ。



 さて、それらもひと段落ついた。特にやることもないが、このまま帰るのも忍びない。かといって人の家を歩き回るわけにもいかず、結果、俺は彼女の部屋にいた。

 彼女のベットの横に椅子を置き、そこに座る。視線を少し下げれば、黒い寝間着に着替えてベットに寝転ぶ彼女がいた。

 もう窓の外は暗く、時間も七時を回っている。


「……なあ、さっさと寝たほうがいいんじゃないのか?」

「全く先輩、そのセリフは何度目ですか? 何度言えば気がすむんですか?」

「逆に言うけど何度言わせれば気が済むんだ? お前が寝てくれればそれで終わりなんだよ」


 すこし憎々しげにそう呟けば「やー、です」なんていつものにやけ面で口にする。


「はぁ……なんでそんなに元気なんだよ。本当に熱あるのか?」

「それはさっき先輩もご覧になったでしょう? 三八度三分。高熱も高熱です。なんならもう一回計ってみましょうか?」

「……いや、いい」


 そういうことじゃない。

 別に彼女が熱かどうかなんて疑ってないのだ。

 実際に体温計は彼女に熱があると示していたし、雪原のように白い彼女の肌もわずかに朱に染まっている。息遣いも荒い。

 だけど、よくもまあそこまで口が動くものだ。何度寝ろと言ったことか。

 見せつけるように一つため息。何か彼女は言ってくると思いきや、何もなかった。

 突然訪れる沈黙は、求めていたはずなのに急に寂しくなる。彼女を見れば、こちらから視線を外して、まっすぐ天井を見つめていた。


「……まあ、そうですね。私自身、辛いのも事実ですし」

「なら何ですぐ寝ない」

「そんなんだから先輩は馬鹿野郎なんですよ」

「またそれか……」

「ええ。だって先輩はいつだって馬鹿野郎ですから」


 クスクスと、キツネのように目を細めて。


「なので、もう寝ようと思いますが……。ねえ、先輩」

「……なんだ?」

「一つ、いいですか?」


 こちらに向けられたその黒い目は、いつもより潤っているような気がした。それに虚をつかれて、思わず頷く。


「手を……繋いではくれませんか」

「……は?」

「おや、意外ですか? 私が、あたかも脳内真っピンクの少女漫画のような行為を求めるのが、そんなに意外ですか?」

「いや、そういうわけじゃ……」


 でも実際意外ではあった。でもそれは失礼でもないはずだ。彼女は自分を客観的にみている。だからこそ、それが意外に思われると彼女自身理解しているのだ。

 なのについ謝ってしまった俺を彼女は小さく笑いながら、視線を天井に戻した。


「別にいいですよ。でも実際あれが好きなんです。小さい頃熱で辛い時、すごい寂しくて。でもお母さんに手を握ってもらって……それがすごい落ち着いて……」

「…………」


 思いはせるように目をつぶった彼女に俺は声をかけれなかった。すこし、驚きすぎて。

 まさかあの彼女が自分のことを話すなんて。自分の過去を話すなんて。

 彼女はすこし寂しがり屋なところもあるが、それを恥と思っているのか決して表には出さなかった。俺自身も気づきつつ口にはしなかった。

 だというのにそんなことまでこぼしてしまうのは、やはり熱が辛いからか。

 そう思えば、胸が締め付けられるようで。


「……ん」


 気がつけば、彼女の手を握っていた。それはすこし力を入れれば崩れてしまいそうなほどに細く、火のように熱い。

 特に恥ずかしくは感じない。むしろ俺まで心が穏やかになるようで。


「お前のわがままには慣れてる。お前が寝るまでこうしてやるから――安心しろ」


 彼女は一瞬目を見開いてキョトンと面に浮かべ。そしてさらに笑みを浮かべた。いつものにやけ面じゃない。嬉しそうに顔を綻ばせた、薄氷のような儚い笑顔。

 

 そしてポツリと一言、しずくのようにそれを零した。



「ありがとうございます、先輩」




 水面付近から空を見上げたような、ぼやけた意識と視界の中、まず感じたのは甘い匂いだった。

 何となく覚えのある、全身を包み込むようなそれに首をかしげるが今は寝起きだ。うまく頭が動かない。

 体をすこし動かせば、俺の服が布と擦れる。動けば沈むような柔らかさを持つそれがベットだと気がつくのにすこし時間がかかった。


 どうやら俺はベットで寝ていたらしい。だが、いつ寝たんだろうか。全く記憶にない。


「んん……」


 一つ寝返りを。

 あの香りがふわっと広がって、何とも心地いい。布団の解け出しそうな心地よさが睡魔を再び呼び寄せた時。ぼやけた視界にふと、黒い何かが写り込んだ。

 それが何かよくわからず、首を傾げながら手を伸ばす。


「……ん」


 氷のように冷たく、そして絹のような手触りのそれに触れたとき、その不思議な何かはそう音を漏らした。いや、音というよりは声か。

 すると今度はそれが動いた。スリスリと、俺の手のひらに擦り寄るように動かす。真綿のようにふわふわとした黒いそれが俺の手を撫でて、なんともこそばゆい。

 そこでようやく気がついた。ああ、これは人か。


 ……人?


「――ッッ!!」


 その時、夢現(ゆめうつつ)だった俺の意識は一気に覚醒した。俺の体に覆いかぶさっていた布団をめくり、飛び起きる。その時耳の片隅で、「きゃっ」と短い悲鳴がなった。

 飛び起きたそこは、見覚えのないとまではいかないが、見慣れてはいない場所だった。


 カーペット、一人分の落ち着いたベット、勉強机、小さなテレビ。小物類はほとんどなく、必要なものだけ。

 いっそのこと殺風景にすら思えるこのシンプルさは、俺の知ってる人間の一人を連想させる。

 ……いや、現実逃避はやめよう。わかってる。気づいた。ここは俺の後輩で、恋人の彼女の部屋だ。

 ギギギと壊れかけたブリキのようにゆっくりと首と視線を横に。そこで俺の視界が黒い寝巻きに身を包んだ、見慣れた彼女を映し出した。

 俺の隣でベットに寝転んで、その黒真珠のような瞳で俺を見つめたまま一言。


「おはようございます、先輩」


 そう言った彼女の顔は、ニヤニヤといつもの気に触る笑みが浮かんでいた。


「お前、なんでここに……いや、違うか。俺がここにいるのか」

「何を言っているのですか?先輩。寝起きだからいつも以上に今の先輩は意味がわかりませんよ?」

「意味がわからないのは俺の方だ。俺はなんでここにいる」

「別に理由なんてなんでもいいじゃないですか。それより早く布団を戻してくださいな。寒くて凍えてしまいそうです」


 彼女は相変わらずの笑みを貼り付けたまま、わざとらしく自分の体を抱きかかえて震えてみせた。反論しようとしたが、確かにその通りで。俺の記憶が確かなら、少なくとも昨日の彼女は熱だった。ならあまり体を冷やすのは得策じゃない。俺は布団から這い出て、彼女だけに布団をかぶせた。


「おや、先輩は入らないので?」

「あいにく今はそれどころじゃない」

「でも寒いでしょう? ほら、ほら。遠慮せずに、どうぞ」


 彼女は布団をすこしめくって自分の横をポンポンと叩く。だが入るつもりはない。ベットに彼女に背を向けるようにして座り、顔を逸らす。だが今は冬の朝で、寒いものは寒い。すこし体を震わせたのを彼女が見逃すはずがなく、クスクスという笑い声が背後から聞こえてきた。


 はぁ……と、一つ重い、重いため息を漏らす。


「どうしたんですか先輩。そんなに重いため息ついて。何か悪いことでもあったんですか?」

「悪いこと? 悪いこと、ね。強いて言うなら今この状況だよ」


 昨日彼女を家まで運んで看病をして。珍しいお願いをする彼女に戸惑いつつも手をつないで。そこまでは覚えているが、そこから先は記憶にない。

 そして目が覚めればこれだ。俺は恋人のベットで寝ていて、隣にはその本人が。

 悪いこととは言わないが、俺の精神上よろしくないことなのは確実で。


「悪いこと、ですか。ひどいですねえ。私との一夜を悪いことだなんて」

「は?」


 突然彼女が口にしたことに俺は思わず彼女のほうに振り返り、間抜けな声を漏らす。それに対する彼女の反応は予想通り。上半身だけ起こし、相変わらずのにやけ顔でこちらを見据えている。


「傷つきますねえ。私、初めてだったんですよ? それなのに、悪いことなんて、傷つきますねえ」

「いや、ちょっ……」


 まずい。思考が追い付かない。訳が分からない。

 そのおかげで彼女への返答はひどいものになる。それを見て彼女はさらに笑みを深くするのだ。彼女の反応を見なくても何となくわかる。今の俺ははたから見れば相当面白い。

 頭のどこかではそれが冗談かもしれないと考えてはいるのだ。でも俺に昨夜の記憶がないのも事実で、俺の考えに信ぴょう性がない。だから余計に慌ててしまう。


 きっとそれも彼女の策略のうち。彼女は本当に楽しそうに、あたかもいたずらの成功した子供のように笑っていた。




「ちょ、え、なに、本当になにがあった!?」

「ああ、傷ついたなあ。心がもうボロボロです。ズタズタです。立ち直れそうにないので、私は二度寝しますね」

「は!? まずは説明してくれ! 俺何かしたのか!? なあ、おい! 寝るなって!!」



どうでもいい真相です


ちなみにこの二人は何もやってません。ヤッてません

寝てしまった先輩くんを後輩ちゃんの母親が見つけ、その母親が面白がって後輩ちゃんのベットに入れただけです

後輩ちゃんの性格は母親譲りなのです


後輩ちゃんは先輩よりすこし早めに目覚めました。

もちろん突然一緒に寝ている先輩に取り乱し、顔を真っ赤にしましたが何とか落ち着きます

で、遅れて起きた先輩をからかうことにしたのです


ちゃんちゃん


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「彼女の囁きごと」


今回のお話はこちらと登場人物は同じです

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