偶然のクリスマス
「……はぁ、辛いなぁ」
波瑠は逃げるように降りた電車が扉を閉じ去るのを聞きながら、ヨロヨロとベンチに近づくと座り込み、震える手で握ったハンドタオルで顔を覆った。
潤んだ瞳からこぼれた涙はタオルが吸い取り、血の気の引いた顔にようやく血液が循環し始め、汗が噴き出る。
いつもは人の多くない時間を狙って電車に乗るが、今回は友人とは名ばかりの『お友達グループ』のリーダーたちの命令で、予約の空き待ちでカラオケボックスに行くことになっていた。
彼女達の一人が予約を取るのを忘れた……いや、波瑠への嫌がらせのためにわざと取らなかったのだ。
今日はクリスマス。
『お友達グループ』と、同じ学校の運動部の男子と一緒にクリスマスを祝うのだという。
だからどうしても取れと、昨日の夕方からひっきりなしにメールが届き、ほとんど眠れぬまま電車に乗ったのだが、学生は冬季休暇でも、一般の会社員の人や受験生などは休みはまだ先……。
通勤ラッシュに巻き込まれ、途中下車したのだった。
めまいがするし吐き気はないが、何かを吐き出したい……。
でも、小中高の先生に相談しても全てもみ消され、チクったとイジメが悪化した。
イジメられないようにするには強いグループのメンバーになり、パシリとして動くこと、それしかなかった。
もうそれを理解した頃には先生も学校も、クラスメイトも信用しなくなっていた。
……家族も、兄弟がいじめられたら大騒ぎするくせに波瑠のいじめには無関心……この通勤ラッシュでめまいを覚えても、人と話すことが怖くても、絶対に家族には話さない。
目を閉じて何度か呼吸をし、心の中で言い聞かせる。
「他人は信用しない……信じられるのは私だけ……私には私がいる……他はいらない」
手が震えるのが止まったのを確認し、顔を上げると、人と目があった。
見たことのある顔……だが、波瑠は人の顔と名前を覚えるのがとても苦手である。
「……大丈夫か?一ノ瀬」
「えっ?」
「おい、制服から私服に変えただけで忘れたのか?俺だよ。熊谷天音」
「……クマガイ……アマネ……?」
「おい、生徒会長も忘れたか!」
波瑠は必死に思い出そうとするが、授業内容の記憶には自信があるが、人間……学校の担当教諭の名前もほとんど覚えていない記憶力である。
それ以上に人数の多いクラスメイトも、グループの半分も覚えていない。
それでも何とかなるのは下っ端で、声をかける前に命令されるからである。
「えっと、く、クリ……」
「熊谷だ」
「クマガイ君は何でここに?」
「ここは俺の家から一番近い駅だ。それよりもどうした?目が赤い」
顔を覗き込まれ、ヘラっと笑う。
「あぁ、何でもないよ。冬休みの宿題してて、あまり寝てな……」
プルルルル……
スマホが鳴った。
一瞬ビクッとするが、表情を取り繕う。
「取らないのか?」
「……う、うん……いつもの事だし……」
「いつもの?」
留守電に切り替わり、キャンキャンとした喚き声が響く。
『おい!電話無視するなよ!すぐ出ろと言っただろうが!あぁん?ぶん殴るぞ!』
天音は目を見開く。
『おい!いつものカラオケボックス、予約空きまで待機しろよ?いねぇと、お前が全部金出せよ?判ってるな?いう事きかねぇと、体育館のいつもの場所でタバコ押し付けるぞ!いいな?』
プツンッ!
と音が途切れる。
「おい、一ノ瀬……スマホ見せろ」
「えっ、何で?」
「それ持って、学校に行く」
「無理だよ。学校に行っても先生たち何もしてくれないし、逆に向こう伝わって殴られるから」
「親は?」
再びヘラっと笑い、
「うちの親無関心。ありがとう、イヌカイくん。これから電車に乗ってカラオケボックスに行ってくるよ」
「おい、こら、熊谷だ!犬飼じゃない……それよりも、警察に行こう!」
「大丈夫……」
立ち上がろうとして、再びめまいと言うよりも、血の気が引き、目の前が真っ暗になる。
「おい、おい!一ノ瀬!」
力が抜けるように倒れこんだ波瑠は、そのまま意識を失ったのだった。
目を覚ますと、ベッドに横になり肘と手首の間あたりに針が刺され、点滴を受けていた。
ぼんやりとするのは、薬のせいか、昨日眠れなかったせいか……視線を彷徨わせると、確か……。
「と……」
「鳥飼とか言うなよ?熊谷だ。お前、過労にストレスで倒れたんだ。救急車で運ばれた」
「お、親にバレちゃう!」
「俺の親が連絡を取った。寝てろ」
「でも……あの子達が……」
青い顔になる。
「寝てろ。しばらく入院だ。俺が毎日見舞いにきてやるよ」
「でも……迷惑じゃない?……役に立たないグズだし……」
いつも言われている事だが、自分が言うと余計惨めである。
「全く……あいつらより俺の方がマシだろ?こんなところではあるけれど一緒にいてやるよ。メリークリスマス」
「メリークリスマス……あっ!何にも持ってきてないです」
「寝てろって。もう少ししたら夕食だと。食べさせてやろうか?」
「……えぇぇぇ!」
必死に首を振る波瑠を天音が子犬のようだと思った。
一ノ瀬波瑠……高校生。人の名前を覚えるのが極端に苦手。
熊谷天音……犬飼でも、鳥飼でもなく熊谷。