後日
明け方まで降っていた雨は止み、気温の上昇で急速に乾いていくアスファルトからは蒸発した水分の匂いがした。けれど連日のじめじめした気候でないのは、梅雨の終わりを告げる白南風が雲を巻きながら湿気を飛ばしてくれたからだろう。
待ち合わせ場所には既に二人ともいて、僕を見つけるなりようやく来たかと肩を落とす。急ごうにも治ったばかりの足の怪我が心配で走らずゆっくりと向かった。程よい風は涼しくて、けれど日陰から一歩でも外に出れば浴びせられる太陽の日差しは強くて、僕に大きく手を振る篠井さんは太陽を正面に迎え時折眩しそうに顔をしかめる。
まだ残る水溜まりには、電線から垂れた水滴が輪っかを三つほど作り広がり、水面に映る太陽を揺らしている。きらきらと玉虫色に光りながら。
「おっそーい、もう待ちくたびれちゃったよ」
夏海は腰に手をやりながら、伸びてきた前髪をもう一方の手で鬱陶しそうに掻き分ける。
「やっぱり、足つらいですか」
心配そうに前屈みになり、僕の足を見る篠井さんの肌と制服の間にできた隙間からは、二つの膨らみが見え欲望に負けた僕はつい凝視してしまう。
「そ、そうだね。まだちょっと気になる感じは……あるかも……いてっ」
「じゅーんちゃぁぁぁん」
低い声とともに叩かれた肩はあんまり痛くなかったが、大袈裟に痛がってみると「木守君っ、平気ですか?」篠井さんに真剣に心配されてしまったので「冗談、冗談。ほらっ」と足をばたつかせその場で跳ねてみる。
「あれ……足は……」
「もう大丈夫だって医者は言うんだけど、どうにもまだ不安でさ」
「はあ、本当に良かったです。大事にならなくて」
夏海は聞こうとはしなかった。あの日、雨の中を僕らがどうして走っていたのかを。もしかすると全てではないにしても、薄々気づいてはいるのかもしれないがぶり返して聞いたり、僕らが何か考えさせられてしまうような表情をみせたりはなかった。篠井さんと二人であの日のことは夏海に言わないことにした。言っても不快にさせたり嫌な思いをするだけかもしれず、ましてプラスになるようなことはなかった。
あの日どうして助けることが出来たのかは結局分からなかった。何が原因で死ぬ未来になり、何が原因で死なない未来になったのか。時々思ってしまうのはただ引き伸ばしているだけで、その日は再びやって来るのかもしれない。
僕らが昨日に戻ることができた、閉店した駄菓子屋はまだあるものの、落書きがあったシャッターの上に張り紙があり、近日中に取り壊し工事が行われると書いてあった。どちらにしても落書きは消え、もう昨日に戻ることはできない。悪いことがあってもやり直したいことがあっても。
だからじゃないが、少し先の未来でさえどうなるか分からない危うい人生、後悔しないように生きようと思ったが急ごしらえの決意など長続きせず、以前と変わったことと言えば、
「最近、朝練サボってないね」
夏海がカバンを持ち直し、篠井さんを見た。
「詳しく言うと、麻央ちゃんが入ってから一回もサボってないね」
「いや、それは偶然で……」
「そーお?」
篠井さんを前にそんなやり取りをするものだから、「えっ、えっ」と篠井さんは目の行き場に困り泳がせてしまう。
「せっかく入ったんだから、真面目に頑張ろうって思っただけで」
あの日から数日後、篠井さんは陸上部は言った。理由を聞けば夏海がいるかららしい。無論足の速さを見た僕や、体育の授業で知っていた夏海の勧めもあってだが。
「最初から麻央ちゃんに入ってもらえば良かったよ。こんなに真面目に練習に参加して、タイムも急に上がったよね」
「それは練習の成果が」
「麻央ちゃんが入った途端に?」
確かに時期はそうなのだが、実をいうと夏海を助けようと必死に走っていた時、身体の使い方のコツのようなものを掴んだからだった。
「そうなんだよね、ここに来てようやく実ったっていうか」
「でも木守君、部活サボってばっかでしたよね」
「え、篠井さんまで……」
味方だと思っていた篠井さんからも攻撃を受け口篭もってしまう。
「純ちゃん、カッコ悪いよ」
「木守くん、なんかおかしいです」
二人から浴びせられる憐れむような眼差し居ても立っても居られなくなり、わざとらしく時計を見る。
「あ、もう行かないと間に合わなくなっちゃうよ」
時間なんて日差しの反射でよく見えなかったが。
「よし、学校まで競争っ」
言いながら誰よりも早くスタートを切る。
「待ってよ夏海ちゃーん」
夏海の後を追う篠井さんのカバンからはぬいぐるみは消えていた。あの日からだったかその翌日か、はたまた別の日か。気づいた時にはそこに何もぶら下がっていなかった。篠井さんからマイちゃんの話を聞くこともなくなっていた。
小さくなっていく二人の影を追うように、僕も駆けていく。
まだ当分、僕の前に夏海の背中がありそうだった。
了




