表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/12

10

 身体の冷えと震えで意識が戻る。駄菓子屋の前、硬い地面と冷たいシャッターで眠りに落ちてしまったものだから全身が痛くて、伸びたくて手足を動かそうとするが、隣で眠る篠井さんの寝息でそれを止める。そうとう疲れが溜まっていたのか、こんな場所にも関わらず気持ちよさそうに寝ていて、好奇心に負け肩をちょんと突いてみるが起きる気配はなかった。よく見ると初めて会った時より髪は随分伸び、けどその綺麗さは変わらなくてそっと撫でるとふわりとした感触が気持ちよかった。篠井さんを起こさないようカバンから携帯電話を取り出し時間を見ると、日付は変わっていた。時折吹き込んで来る雨粒は身体を濡らすほどではなくて、ただ地面を跳ね返る雨が靴を少し湿らせていた。夏海が死んでしまうまであと数時間。何もしなかったんだ、今回もまたやり直しだろうか。いっそ僕だけ戻ってやり直そうとも考えたが、二人でこれだけ協力して出来なかったことが、僕一人戻って未来を変えられるとは思えない。手詰まりで、何度も奮い立たせてきた気力はついに尽きてしまった。これが現実で受け入れればこの苦しみから解放される。終わりの見えない繰り返しとは違い、そこには一筋の光が見えて、縋ればどんなに楽だろうか。もういいじゃないか。僕は頑張った、やれることはやった。そもそも昨日に戻れてしまうから諦められなくなるんだ。

「ごめんな、夏海……」

 言葉を発した瞬間、身体がふっと楽になった。これでようやく明日を迎えられるんだ。今日は土砂降りだけど明日はどうかな。せめて、夏海に伝えられることはあるだろうか。ありがとう、ごめんね、さよなら――――。どれも違う気がする。考えているうちに溢れ出てくるのは夏海との思い出だった。小さい頃から一緒で、どんなときにも傍にいた幼馴染み。恋愛感情はなかったし、これからもそんな関係になることも恐らくなかった。けど僕は夏海の笑顔に何度救われただろうか。飾らなくて、晴れた日の水面のようにきらきらしていて、何かいいことが起こりそうな、そんな楽しい気分にさせられてしまう夏海の笑顔。できればもう一度、見たかったな。

 一つ二つと思い出すたび涙が次々とこぼれ、最後には抑えきれなくなり声を上げていた。いい年して大声で泣いて、みっともなくて。

「……ごめん……許して……」

「違うんです!」

 篠井さんは寄りかかっていた身体を急に起こしたので、僕はそのまま地面に倒れそうになるがどうにか手で支える。篠井さんは唇を強く噛んでいて形が歪み、瞬く間に目を赤くし潤ませていく。「違うんです」一回目とは正反対の、弱々しくて震えたかすれ声。「どういうこと?」一体何が違うのだろうか。踏み込んではいけない場所に足を踏み入れてしまった。泥沼で、もう抜け出せなくなった足。僕は何を知らないのだろうか。もう後戻りはできそうにない。「篠井さん……」出来るだけ優しく呼び、そっと手を握った。離そうと思えばいつでも離せる、包み込む程度の力加減。篠井さんはただそれを受け入れた。最初の一言は「ごめんなさい」だった。話し始めたのは昨日のことだった。僕らが何度も戻った昨日の初め。一回目の昨日の出来事。

 そう言えば篠井さんは二つの時間に戻っていた。最初は朝、登校時に見かけたとき。もう一回が、夏海を助けようと戻っている放課後。特に考えもしなかったし、夏海のことで頭がいっぱいで疑問にも思わなかったが、篠井さんは昨日の朝にはどんな目的で戻ったのだろうか。

「昨日の朝に戻った理由はね、夏海ちゃんとケンカしたことが原因なんです。私のクラスでテストがあって、その日のうちに答案が返ってきて。苦手な科目で、でも頑張ろうと思って毎日復習もしてた。それでね、あの科目でいい点数取ったの初めてだったの。嬉しくて、一緒に喜んでもらいたくて、夏海ちゃんにテストを見せたの。どう? 頑張ったでしょって。そしたら夏海ちゃん、こう言ったの。麻央ちゃん、また戻ったのって。悲しかった。認めてもらえなくて、信じてもらえなくて。確かに自分が悪いの。それまで何回も戻って色んなことをやり直して、都合の良い一日に変えてきて。疑われても仕方がない。分かっていたのに、私は冷静になれなくてただ怒りをぶつけて。酷いことをたくさん言ったし、思ってもないことも言った。本当はただ信じてもらいたかっただけなのに。謝ろうと思ったし、夏海ちゃんも謝ろうとしてくれた。けど私にはそれが耐えられなかった。夏海ちゃんに謝られてしまえば自分が惨めになるだけで。顔を合わせないように避けたし、話しかけられても聞こえないふりをした。家に帰って何回も連絡が来たけど、それを受け入れる勇気もなくて。仲直りしたかった。けどきっかけを掴めなかった私は、その日をもう一度やり直すことにしたの。ケンカする前の二人に戻って、些細な一言で関係を壊してしまわないように」

 そして戻ってきた朝、僕と鉢合わせた。僕は篠井さんがこれ以上昨日に戻らないように説得しようとして。見るからに疑った、きっと不快な気持ちにさせる態度だった。

「木守君は私を止めようとしてくれた。なのに私はまた苛立ってしまった。みんなして私を責める。今回は夏海ちゃんと仲直りしたくて戻るだけなのに。木守君の言葉が、私を悪く言ってるみたいに聞こえてしまった。そんな気持ちでないのは分かるのに、感情が先立ってしまった。ごめんなさい。木守君ともケンカしたくなかったけど、戻った瞬間にまた言われるのが嫌で、戻りたくなかった。その日、夏海ちゃんとケンカせずに済んだし、木守君とケンカしたことを話したら、仲直りできるように取り持ってくれるって言ってくれたから戻りはしなかった…………ふぅ……」

 そこまで話して篠井さんは一呼吸置いた。寝ていた時間は思いの外長かったのか、話し始めてそれほど時間は経ってないはずなのに、暗かった空は少し明るくなっていた。依然として土砂降りの雨ではあるものの、夜の暗さは消えつつあった。篠井さんの手にほんの僅か力が込められた。そして僕を見た。許しを乞うような目だった。僕は僅かに手に力を込めた。それが合図であるかのように篠井さんは再び口を開いた。

「放課後、一回目より帰る時間が遅かったのは覚えてます。どれくらい違うのかは分からないけど確かに遅かったです。家に帰る途中、いつも木守君と別れるトンネルの前で雨が降り始めたんです。一回目は家に帰ってから降った雨が、その時はその地点からぽつぽつと。まだ傘もいらない程度の雨でしたけど私は傘を差したんです。マイ差そうって言ったから。水色の傘で、ビニール傘と違い視界の一部が遮られる傘でした。もしビニール傘だったら、もし後ろではなく前を向いていたら、もし少しでも耳を傾けていたら……もし、傘さえ差さなかったら…………何が起きたと思います? 後ろから来たトラックに傘の端が当たり、傘は壊されてしまったんです。そのトラックは、夏海ちゃんを翌日に轢いたトラックでした」

 そんなことで未来が変わってしまうのか、にわかには信じられなかった。鵜呑みにして、篠井さんに罪の意識を持たせたまま話を聞き続けていいのか迷った。その意識があったから篠井さんは何回もやり直し夏海を救おうとした。自分のせいで、夏海が死んでしまったのだから。

「たったそれだけかもしれません。でも、間違いなく私の行動があのトラックに影響を与えた。変わったことは二つ、夏海ちゃんとケンカしなかったこと、トラックに傘をぶつけられたこと。気づいて戻っても、その二つはもう起きてしまったことで変えられない出来事だったんです。夏海ちゃんの死を知ったのが、放課後だったんですから」

 雨音が煩わしかった。篠井さんが話しているときは一切耳に入ってこなかったはずなのに。何に対しての溜め息なのか、篠井さんはゆっくりと身体を沈ませながら吐いた。その背中を僕はさすった。想像していたよりも柔らかくて小さくて、夜風で冷えたのか冷たい背中だった。

「きっと最初から間違っていたんですよね。昨日に戻ってやり直すなんて、そんな都合の良いことばっかしてたから、こんなことに……。どうせ戻るんだから少しでもよくしようと、マイと相談しながらやり直す個所を探しながら過ごすようになっていた。昨日に戻るために生きてたんです。そしたらもう、今日を生きることに一生懸命になれなくて。毎日毎日、私は何のために生きてるんだろうって。もう……疲れちゃった」

 遠くの大通りには疎らに自動車の走行音が響いて、携帯電話を見ると夏海が事故に遭う時間が近づきつつあった。今回はもう諦めようかな、また次頑張ろう。でもまたこんな倦怠感に見舞われる。今まではどうにか脱することができたけど、また次訪れた時、乗り切る自信なんてこれっぽっちもなかった。これっぽちもなかったけど、温かさを感じるようになってきた篠井さんの背中で、まだ少しだけなら振り絞れる気がした。次どうなるか分からないけど、もう一回だけ頑張ってみよう。凍り付いてしまったかのように重かった足を無理やり起こした。

「僕も一緒だよ」

「え?」

「疲れてくたくたで、逃げ出したいと何回も思ったけど、いつも必死に夏海を助けようとする篠井さんがいたから今まで頑張れたし、これからもきっと頑張れる。もう一回がんばろ? ね」

 すっかり丸まってしまい、篠井さんは動こうとしなかった。けど耳は塞がってない。どうすれば篠井さんに聞いてもらえるか考えた時、一つの嘘が浮かんだ。付け焼刃でボロが出るかもしれないけど、言葉を届かせたかった。

「それだけじゃない。僕も戻ったことあるんだ。誰にも内緒でこっそりとね。陸上部の練習で、大会のリレーのメンバーを決める選考があったんだけど残れなくて。それで昨日に戻ったんだ。どうしてもメンバーに選ばれたくて」

 そう言って僕は篠井さんの腕を引っ張り強引に立たせたが、立った所でその腕は払われた。

「止めてください。全部、私がいけなかったんです。いけないのに、でも自分も被害者だって同情してもらいたくて、憐れんでもらいたくて、本当のこと言わなかった。原因は私にあるのに…………木守君とこうしてるのは幸せだった。けど幸せになればなるほど、そんな自分の醜さが浮き彫りになってくるようで、本当に自分が嫌になります。今だって、木守君も私と一緒なんだって思って、何だか嬉しかった。怒ってくださいっ、幻滅してくださいっ。どうして……どうしてこんな私を許せるんですか!」

 払った手で持っていたカバンに手を掛け僕に向かって投げつけたが、僅かに逸れ閉まったシャッターに当たり耳障りな音を響かせた。目を開いて僕を睨みつけた篠井さんは力が抜けたように手をだらしなく垂らした。目は僕ではなく後ろを見ているようだった。

「篠井さん?」ただ呆然とそれを見ていた。何かあったのだと僕も振り返った。そこには昨日に戻れる不思議な落書きをされたシャッターがあるだけだった。そのはずだった。丁度カバンが当たった場所は大きくへこみ、あったはずの落書きは擦れて一部が消えていた。その意味を僕も即座に悟った。

「消えちゃった……」

 篠井さんは口を開け言葉を失っていた。もう夏海を救えない。その事実が重く身体にのしかかる。もう一回だけ頑張ってみよう。そう振り絞っていた気力は、とどのつまり失敗してもやり直せるという保険で保たれていたのだと思い知らされる。頭が真っ白になり雨音だけが耳に入ってくる。

「一つだけ、試してみたいことがあるんです」夏海が死んでしまう。「もうすぐ……時間ですね」篠井さんの声は聞こえるのに、その意味を理解することができない。夏海が死んでしまう。もう何もかも終わってしまったんだろうか。「確証はないけど、こうすれば夏海ちゃんが今日死ぬのは救える…………試してみても……いいえ、試してみますね。木守君はここで待っててください。それで確認してみてください。夏海ちゃんが助かったかどうか」

 何かするらしい。僕は必要ないのだろうか。なぜ助かったかどうか自分で確認しないのだろうか。今までどんな手を打ってもダメだったし、もう出来ることはやり尽して残っていないと思っていたけど、篠井さんはこんな雨の中、傘も差さずに屋根から一歩出た。土砂降りの雨はみるみる全身を濡らしていき制服はあっと言う間に重そうに濃く染まる。水分を吸い形を変えた長い髪は、顔の一部を覆い表情を隠す。何を考え、どんな顔をしているのか読み取れない。「あ……」篠井さんは小さく声を上げた後、振り返らずに僕に近づいた。てっきり雨の中を行くのかと思っていた僕は拍子抜けし「え、篠井さ――――」情けない声は、雨で濡れ冷たくなった唇で塞がれた。神経が唇に集中してしまったかのように全身の感覚が消え、ふわりと入り込んできた生温かい吐息に喉が焼けそうになる。

「さよならっ」

 脳がその意味を理解したのは唇が離され、篠井さんが走り始めて何秒経ってからだろうか。重たかったカバンは最初の一歩でどこかに放り投げた。道路の左右など見ずに篠井さんを追いかけた。答えを知ってしまえば簡単な計算。篠井さんは自分のせいで夏海が死んでしまうという罪悪感があること。試した結果の確認を僕に委ねたこと。そして、さよならの意味。試そうとしてるんだ。夏海が轢かれてしまう今日、それよりも早く自分がトラックに轢かれることを。そうすれば夏海は助かるのではないかと。

「――――っ」

 全力で走っているせいで声が出ず、余計に息が苦しくなっただけだった。僕はひたすら走った。篠井さんを止めなくては。だってそんなのはおかしいじゃないか。例え夏海が助かっても、自分を犠牲にして助けるその方法は正しいとは思えなかった。少しでも早く前に進もうとする自分の頭では、そう思った理由も分からない。もしかすると大層な理由なんて始めから無くて、初めてのキスが官能的で刹那的で、けどその泡沫のような瞬間をまた味わいたいと思う欲求からなのかもしれない。

 なんだよ篠井さん、こんなに足が速いなら陸上部にでも入ればいいのに。

 離されこそしないものの、一向に縮まりそうにない距離にそんなことを思っていた。横っ腹が痛くなってきて、うまく呼吸ができず、けれど僕の身体は動き続けた。陸上部の練習だってここまで辛いことはなかった。やめたい、止まってしまいたい、いっそこのまま倒れ込んでしまいたい。なのに身体は休まることなく最大限の出力を保ち続ける。

 ようやく篠井さんが止まった。そこがゴールだ。そこまで行けば――――違う。辿り着けばいいんじゃない。篠井さんが止まった真横から迫るトラックは、気づいていないのかスピードを緩めそうにない。いま僕と篠井さんの距離はどれくらいだろうか。あと何秒で着くだろうか。トラックと篠井さんの距離も縮まっていく。このままいけば篠井さんは轢かれてしまう。けどこの速さで行けば恐らく僕も巻き込まれてしまうだろう。死んでしまうだろうか、それとも運よく助かるのだろうか――――そんなの今はどうだっていいや。もっと早く走れる気がした。悲鳴を上げていた身体の痛みはさらに増していく。でも駆け抜けたかった。篠井さんのいるその場所まで全力で、何もかも残らないよう体中の全てを使い切って。

 立ち止まっていた篠井さんの身体がトラックに向けられる。その視界の隅にいた僕に気づき首を動かす。口を開け目を見開き僕を見る。一瞬でも早く触れたくて、伸ばしていた手と篠井さんの距離はまだ少し遠かった。届け届けと、堪えていた身体が我慢しきれずに大きな一歩を踏み出し、次の一歩で思いっきり飛び込んだ。真横はトラックの巨体が視野を塞いでいた。宙に浮いた僕の身体がぶつかるのは時間の問題だと思った。けどせめて最後に篠井さんに触れたくて、両手で抱え込むように身体を抱きしめた。全身を包み込めそうなほど小さな身体だった。前が見えなくなっていたのは轢かれてしまったからなのか、篠井さんの身体で目を覆われたからなのか、何なのか分からない宙に浮いた平衡感覚が曖昧な時間だった。

「うぅ……」

 うめき声が耳元で聞こえ、同時に足の痛みで目を開ける。全身に降り注ぐ雨と、身体にのしかかる篠井さんの柔らかさと重さで、まだ死んではいないのかなと何度か瞬きをして意識を整える。

「大丈夫?」

 篠井さんは横に身体をずらしその場に座り込んだ。僕と目が合う。頬は赤く擦りむけていて血が滲んでいたが、雨のせいで赤い水滴となって地面に落ちた。「どうして……」篠井さんが弱々しく、地面に転がったままの僕の胸を叩く。「どうしてっ」何度も叩くがその手に力はなかった。「もう意味ないんだから、生きてたって、もう……せめて死なせてよ……」雨音をかき分けるように響く嗚咽。何度も何度も僕の胸を叩く手は止まり顔を覆う。「まだ終わってないよ」走り切り脳に酸素が行き渡らないのかうまく働かない頭で分かるのは一つだけだった。「まだ一回あるよ」「もう意味ないっ、だってダメだったじゃないですか。何回も何回もやって、結局夏海ちゃんを助けられなかったんですよ。今さら、最後の一回頑張ったって」顔を覆ってた手を掴みどけ、篠井さんを見つめた。「終わってないよ。いまこの瞬間、まだ夏海は生きてる。諦めちゃだめだよ!」けど篠井さんは僕から目を逸らした。「もういいんです。私は疲れたんです、休ませてください」目を逸らしていつだってそばにいるマイちゃんを抱きしめた。「最初もそうだった。ケーちゃんが死んだ時もマイが戻ろって。その後も木守君と一緒にみんなを助けようっていったのもマイの発案。今回もそう、マイが夏海ちゃんとケンカしたなら、昨日に戻ってなかったことにすればいいって……そうだ、全部マイがいけないの。木守君が財布泥棒の時ケガしたのも、夏海ちゃんが死んじゃうのも、全部マイが」困ったときはマイちゃん。篠井さんはいつもそうだった。悪い事も良い事も、都合の良いようにマイちゃんを使って。こんなときまで、そんなにマイちゃんが大事なのだろうか。「そうだ、もう戻れなくなったもマイが」「篠井さん!」泣いていた篠井さんは僕の怒鳴り声に言葉を失う。もう限界だった。篠井さんのことを可愛いと思うし、一緒にいたいとも思う。けどこのことだけは、どんなに好きな気持ちがあっても、素直に受け入れて接することはできなかった。「マイちゃんなんていない! もう止めよう、何かあるたびにマイちゃんマイちゃんって、都合の悪い事は全部押し付けて逃げてばっか。いい加減にしてよ。どんなに愛着があっても、それを人間としてなんて扱わないでよ」篠井さんはマイちゃんをぎゅっと握り締めた。「レストランでもテーブルの上に置いたり、教室でも一緒にご飯食べてるみたいに扱ってさ、そんなに大事なの? それは僕や夏海に不快な思いをさせてまで続けることなの?」「えっと……」「今だってマイがマイがって、そんな言い訳してるなら夏海を助けに行こうよ!」「でも」「あーもう、夏海とマイちゃん、どっちが大事なの? どっちに居なくなってほしくないっ?」「それは……」握っていたマイちゃんに力を込める。込めすぎて顔の形が変形する。そして俯いていた顔を上げ僕を見た。

「――――夏海ちゃん!」

 篠井さんはマイちゃんを……いや、カバンに付けられていたクマの縫いぐるみを思いっきり引っ張りチェーンを引きちぎった。一度じっと、名残惜しむかのようにしていたが、躊躇いもなく放り投げた。「夏海にもう会えなくていい?」聞くまでもないことをわざわざ聞いた。「そんなの、絶対にやだ!」最後の一押しにしたくて。

 篠井さんは迷わず走り出した。トラックが去ったとは反対の方角へ。「こっちでいいの?」「あの先は一方通行で、もう一回こっちに戻ってくるんです。その時、夏海ちゃんと」「そっか」走ってはいるものの先程よりも身体は重かった。足はくじいたのかずきずき痛むし、回復しきっていないせいで速度は今一つ上がらなかった。こんなんじゃだめだ、さっきはどんな感覚だっただろうか。身体の記憶をもう一度呼び起こす。早く、少しでも一秒でも。まだ生きているんだ。まだ死んでないんだ。そう思った瞬間、どうやらまだ力が残っていたのか、わずかなら先ほどのように走れそうだった。全身を使いスピードを上げていく。遠くに夏海の背中が見えた。いつも僕の前にある背中。そうだ、一度くらい追い越してやりたい。不思議な事に、それが夏海を救うことにも繋がっている気がして。同時にトラックが後ろから迫って来ていた。見たわけではないが音と振動でその気配を感じる。追い抜かされてはいけない。けど近づいてくる音にそういえばと思い出す。そもそも僕が得意なのは長距離。短距離は向いてないんだ。それでもかなり早く走ってるはずなのに、先ほどの篠井さんの時と違い、どう考えても間に合いそうになかった。ましてや篠井さんが……待て、どうして篠井さんが僕と並んで走れるのだろうか。練習はややサボり気味ではあるがこれでも現役の陸上部。いやそれどころか、僅かに僕よりも先を走っているような……。

「あっ」

 それに気を取られてしまったのか、足を踏み外しその場に転がってしまう。即座に立とうとして足の痛みで動けなくなってしまう。どうやら痛かった足をさらに痛めたらしい。どんなに足掻いても起き上がれそうになかった。もう駄目なのか、そう思って前を見ると篠井さんは夏海の背中を目指しまだ走り続けていた。けれど無情にもトラックは篠井さんを追い越していく。夏海はそれに気づく気配はない。「夏海っ」遠すぎて僕の声は雨に消された。もう数秒後には……。それでも篠井さんは走り続ける。「夏海ちゃん」その声は届かない。「夏海ちゃん」トラックは止まる気配を見せない。もう数メートル。やぱり夏海は死んでしまう。追い打ちを掛けるように篠井さんは雨の中、腕を振り真っ直ぐ走っていたがその足がよろめき、そのまま前のめりになって傾いた身体は地面に打ち付けられ、その勢いで一メートル程引きずった。

「夏海ちゃーーんっ!」

 雨が止んだかと思った。その声は雨音もトラックの走行音も掻き消しどこまでも届くような大きくて通った声だった。

 轢かれたと思った。もう駄目だと思った直前の所で夏海が振り向いた。そして――――。

 けたたましいクラクション。トラックがぶつかった振動。動かなくなった前方が不自然にへこんだトラック。その後ろから出てきたのは、夏海だった。

「麻央ちゃん! 純ちゃん!」

 傷一つない身体で僕らに駆け寄ってきた夏海。夏海は死んでないのか。もしかして助かったのかな。色々考えたいけどごめん、ちょっとだけ休ませてほしい。あんな一生懸命走ったの、久しぶりで疲れちゃったよ。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ