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明日は何事もなく終わるはずだった。いつも通りに起きていつも通りに授業を受けていつも通りに帰宅しやはりいつも通りに一日が終わる。そして、これまたいつも通り次の日が始まる。そうならずに昨日の街を駆け回っている僕らの現状を説明するとなると、さてどこから話したらいいのだろうか。
昨日の出来事ではあるのだが、ことの発端は明日の朝、通学路から逸れる彼女たちを見つけ後を付けたことから始まるのだろう。傍から見ればストーカーと勘違いされても可笑しくないほど挙動不審だった僕は幸い誰にも通報されることなく、彼女たちが目的の場所に着くまで尾行できた。
そして消えた。見失ったわけでもどこかの建物に入ったわけでもなく、それはまさに言葉通り忽然と消えてしまったのだ。これは夢だろうか。いくらつねっても頬は痛いだけで目が覚める様子はない。見間違いだろうか。そんなはずは万が一にもない。確かにこの目で見て後を付けてきたのだ。あれが幻や錯覚だとすれば、僕は僕自身の目に対して一切の信用をなくしてしまう。それとも頭が可笑しくなってしまったのか。まだその方が納得できそうだった。
消えたと確信を得られたのはその数秒後。いよいよ本格的に自身の頭を心配し始めながら彼女たちが消えた場所まで亀のようにのっそりと歩いて来た時だった。人通りも少ないせいもあり殺風景に拍車をかける剥がれたペンキと錆び付きボロボロになった立て看板が今も残る駄菓子屋。小さい頃は百円玉を一枚握り締め放課後友人と訪れた街角にある小さな駄菓子屋。腰の曲がった一度話し出すと饒舌で帰るタイミングを与えない腰が曲がりすぎてn字になろうかという名物お婆ちゃんがいた、何年も前に閉店した思い出の駄菓子屋。そこに彼女がカバンにつけていたキーホルダーが落ちていた。中学時代、一緒に行ったゲームセンターで彼女がどうしても欲しいと、取れるまでクレーンを動かし続けやっとの思いで取った卵の黄身に描かれたぐでっとした表情が特徴の流行りのキャラクター。十センチほどのぬいぐるみになっていて、キャラクターの性格とは裏腹に活発な彼女の動きで左右上下に激しく揺らされている姿は不憫なことこの上ない。落ちていたのは駄菓子屋のシャッターの前、真ん中よりやや右寄りの位置だった。
彼女たちは見当たらない。辺りを見渡しても周囲の音に耳を傾けても、まさかとは思い首を上に傾けるが見事なほど雲一つない晴天の空が広がっていて、遮るビルも覆い隠す雲もない太陽はただただ眩しいばかりだった。
一体どこに消えてしまったのか。目の前には閉店した駄菓子屋。シャッターは降りていた。開くのではないかと思えばそう思えなくもない、いかにも錆び付いた音が響きそうなシャッターの窪みに手をかけ持ち上げようとするが、試すまでもなくカギは閉まっており動くことはなかった。
僕はこの街角で一体何をしているのだろう。自身がした行動の無意味さに脱力し、五月の涼しい風が心地いい朝の陽気だったにも関わらず気づけば背中に少し汗をかいていた。腕時計を見ると早く家を出たわけではなかったので、いい加減行かないと学校に遅刻してしまう時間だった。
落ちていたキーホルダーをポケットにしまいその場を後にしようと思った。ここにいることに意味なんてない。僕は何かを見落としてしまい彼女たちを見失ってしまったか、そもそもが僕の勘違いだったんだ。答えの出なかった探求はそこで折れ歩き出そうとした矢先、彼女の声を聞いた。
幼稚園から高校一年生の今に至るまで一緒に過ごした幼馴染みの声を聞き間違うはずがなかった。声はシャッターの奥から細々と聞こえてきた。中にいるのだろうか。耳をすましたが聞こえたのは身体を撫でるように柔らかく吹いたそよ風の音だけだった。
相変わらずシャッターが閉まった駄菓子屋が目の前にあるだけで、何も変化のない風景をいつまでも凝視するのは我ながら酷く滑稽だった。唯一意味を見出すならばシャッターに描かれた手のひらサイズの幾何学模様の落書きを発見したことぐらいで、それはいくつもの円が不規則に重なり合っていて、円の大きさも色も全て異なっていた。子供の落書きのような絵は一見何の法則もないように思われたが、不思議なことにその絵の中心を見定めることができた。見定めたといってもバツ印があるわけでも丁寧にここですと書かれているわけでもなかったが、その何の印もない一点が中心だと思うことがごく自然で一切の抵抗がなく受け入れることができた。信号が赤なら止まり青なら進むような、それは当たり前の事実のようだった。
中心には何もない。けれどそこには目に見える以外の何かが潜んでいる気がして、じっと見続けているうちに気づけば手を伸ばしていた。薄汚れたシャッターに触れるのを一瞬躊躇ったが、伸ばした人差し指はタッチパネルのボタンでも押すかのようにその何もない一点との距離を詰めていた。触れたのはほんの数秒後。
何も起こらなかった。落胆はなかったが、そもそも何を期待していたのだろうか。傍から見れば理解に苦しむ不審な動きで、漫画や小説の主人公みたいに日常を覆す事件に見舞われたり、あるいはどこか別の世界に行けるわけでもないのに。指先を離すと心なしか地面が揺れた気がした。流れていた空気も少し変わったと思ったのは、じんわり込み上げてきた気恥ずかしさのせいかもしれない。気温は変わらず体温だけが僅かに上昇していることに気づいた。天地を逆さにしたような今までにないタイプの目眩がしたが、原因はいくらでも心当たりがあった。
後になって思えばその目眩は反動だったのだろう。気づかぬうちに昨日に戻っていたことへの、小さな小さな身体への反動。もう声は聞こえなかったが、代わりに遠くに離れていく複数の足音を聞いた気がした。その誰かも分からない足音を追うように、僕は学校への道程を歩いて行った。駄菓子屋は遠ざかっていきトンネルが見えた。その向こうへ行こうとして響いてきた大きな音に足を止めた。灯りはなく暗くて見通しの悪いトンネル。どこかの道路に出る近道になっているのか近くに会社があるのか、ぎりぎり潜れるサイズのトラックがスピードを出し通り抜け、トンネルを出たすぐ先にある十字路を荷台が傾きそうになりながらも勢いよく曲がる。数秒ずれていれば轢かれていたのではないかと思うほど乱暴な運転のトラックは、五月に入ってからよく見るようになった。これまでにも何度か轢かれかけていた僕はそれでも道を変えなかったのは、このトンネルを通らなければ学校へは遠回りをしなくてはならないからだった。時間にゆとりを持たない僕にとって朝の一分を削るという選択肢は考えなかった。いい加減覚えたトラックの大きさと色を見つつも薄暗い数メートル程のトンネルを潜り抜けふと空を見上げた。そこにあった青空は、気づけばどんよりとした雲に覆われ太陽は姿を隠していた。妙な寒気に朝日が恋しかった五月の昨日のことだった。