女を泣かせるなという言葉の影で男は大体泣いている
「……ごめんなさい、遅くなって」
しばらくして岩村が戻ってきた。目許が腫れている。泣いたのだろう。声は少しかすれていて、さっきの慇懃無礼な調子はすっかり消えていた。
「申し訳ないけど、おねえ……姉と会話はさせられなくなったわ。証明はまた次の機会に。先にJNCのシステムを説明するわね」
岩村は冷めたコーヒーに少しだけ口をつけた後、JNCの支援システムの説明をし始めた。
JNCからは一定の予算が出るので、レッスンやオーディションにかかる費用、電車代など諸々は、限度額を超えなければ経費で落ちること。
育美がアイドルになった後、岩村側から金銭等を求めないこと。
マリちゃんの活動停止で少々予定は狂ったが、岩村にコネクションがあるのは変わりないこと。
育美側には不利益を出さない、徹底的にサポートする、という熱烈なアピールだった。野球のスカウトマンみたいだ。岩村はよっぽど育美の才能とやらに惚れ込んでいるらしい。
俺としてはJNCとかいう架空組織のご都合主義設定よりも、マリちゃんのことが気になっていたのだが、それについては一切触れられなかった。別に岩村をマリちゃんの妹だと信じているわけではない。念のためだ、念のため。
「コウくん、どうしよう」
育美は困ったような声で俺に尋ねてくる。怪我をした犬を見つけたときのように。遠い町まで歩いてきて迷子になってしまったときのように。
なぜ迷う必要があるのか、俺にはわからない。こんな怪しい話は当然断るべきだし、判断の参考にするにしても、たまたま外に居合わせた俺なんかに聞いていいことじゃない。こういう大事なことは親と相談するものだ。
そもそも育美がアイドルに向いているとは思えない。俺は幼い頃の育美を知っている。競争心が強くなくて、鈍くさくて、家事や料理が好きな普通の女の子だ。そりゃ、育美だって高校に入って運動神経は改善されたかもしれないし、顔だって前よりも可愛くなった。しかしアイドルなんて甘い世界じゃない。たくさんの可愛くて頑張り屋の女の子がアイドルを目指しているんだ。育美に才能があるとは思えないし、仮に才能があったとしてもあの弱さではすぐ潰れてしまうだろう。
大体、アイドルを目指すなら岩村自身の方がよっぽど向いているのはずだ。顔だけで比べるのなら、需要は岩村のほうにあるはずだ。
「綾辻さん。貴女自身はどう思っているの? サポートを受けながらアイドルに、って話はとてもおいしい話なのよ」
「そ、それは……」
「貴女はアイドルになりたいんじゃないの?」
「……でも……」
「私は貴女にその気があるのなら、明日、貴女のお宅に伺うつもりよ。もしも貴女を希望の種として登録するなら、貴女のご両親の同意が必要になるの」
「……親の……」
「貴女のご両親を説得するのも私の役目。
今日貴女だけに話をしたのは、ご両親の前で萎縮した貴女が私の話を断らないための対策だった」
成る程、依然として岩村は怪しいが、先に両親に話を持っていかなかったのは正解だ。
育美の両親の、特に母親の躾は厳しい。育美は幼稚園の頃からピアノと日本舞踊と花道を習っており、漫画やゲームといった娯楽からは隔離されていた。小学生の頃から育美はテストで酷い点数をとると怒られると泣いていたし、俺が育美を引っ張り回すと怒鳴りつけて叱った。服が汚れた、帰りが遅い、というのはまだ良い。ただ、女の子がはしたない、という言葉を育美の母親は繰り返していた。
思えば、育美がそうやって怒鳴られるのを見るようになってからが、ちょうど俺が育美と距離を置き始めた時期だった。アイツと遊ぶの止めよーぜ、と触れ回っていた。母親からも、育美ちゃんのところは厳しいからねえ、と遠回しに釘を刺されていた。それで育美とはあまり遊ばなくなった。
育美は中学に上がると習い事をやめて、吹奏楽部に入部し、塾へ行かずに成績を一定キープして、母親が望む通りの、家政を中心にした私立の女子高校へ進学した。育美の学力からすればもっと上を狙えただろうに、育美の親はそれを許さなかったらしい。
もしも育美が親の前で岩村に話をされたら、親の意見を伺い、その通りに従っただろう。俺は親の前にいるときの育美が好きではなかった。育美は親の意見に逆らえないのだ。
「……わ、わたし……」
「綾辻さん。貴女にはご両親と対決しなければならない日が必ずくるわ。それが早いか遅いかだけの違い。今回のことは良い機会だと思って欲しいの」
「で、でも……お母さんは、絶対に許してくれない……」
「貴女の気持ちを伝えるだけ伝えましょう。許してくれなかったら、また相談すればいい」
「こ、コウくん……」
「綾辻さん、私は貴女に話をしているのよ」
「やめとけよ」
俺の口からそういう言葉がこぼれた。
その言葉を口にしたとき、俺は俯いていて、育美と岩村がどんな表情をしていたか分からない。
ただ、俺自身がとても醜い顔をしているのは容易く想像できた。
「育美、おまえ、あの両親に逆らえるのかよ? つーか、JNCとか、埋もれた才能を開花させるとか、バカじゃねえの? 詐欺だ。詐欺、詐欺。オーディションのこととかどうやって調べたかはわからないけど、コイツはアイドルになりたいっていうおまえの気持ちにつけ込もうとしてるんだよ」
「違う! 私は本当に綾辻さんの才能を見込んでいるの!」
「そうやって才能とか希望とかデカい言葉出してりゃ皆がホイホイついていくと思ってるんだろ? マリちゃんの名前もそうだよ。妹だからマリちゃんの名前出して連絡取れるとか言っておきながら、活動休止のことを知らないでさぁ」
「そ、それは……私も、お姉ちゃんの活動休止を知らされてなくて……」
「それが怪しいんだよ。 家族だろ、妹だろ。真っ先に相談されるはずだろ」
「っ……!」
「大体、育美にアイドルなんて無理に決まってるんだ」
「アンタねえ!!!」
ガタッ、と椅子の動く大きな音がしたかと思えば、俺は首元の裾をグッと掴まれて顔を引っ張り上げられた。俺は咄嗟にテーブルに手をつく。マグカップが浮いて落ちる甲高い音。目の前には物凄い形相で睨んでくる岩村、その眼差しには威圧感があった。俺はテーブルについた両手で上体を支え、岩村に胸ぐらを掴まれた状態になっていた。
「無理って何様のつもりで言ってんのよ!?」
「やめて!!!」
育美の甲高い悲鳴が間髪入れずに響いた。
一瞬、周囲が静まり返った。
俺の胸ぐらを岩村が放す。育美が岩村の腕を掴んだからだ。
俺は育美を見る。育美は俯いたまま綾辻の腕を掴んでいた。祈るように、すがるように。
「や、やめてください……もう、いいです……」
「あ、綾辻さん……」
「こ、コウくんの言うとおりです。私なんかにアイドルなんて無理なんです。
岩村さん、このお話、お断りします。声をかけてくださってありがとうございました」
震える声で育美が言った。ポタ、ポタ、と床に何かが当たる音がする。
俺たちのところに店員が飛んできた。岩村が対応する。その時には店内の喧騒が戻っていた。
俺はテーブルから手を離し、後ろの椅子へ崩れ落ちる。周囲から視線を感じるが、不思議なことに、あれだけ怖かった周囲の視線が全然気にならない。けれど、両手で顔を覆って嗚咽を漏らす育美と、店員に謝り倒す岩村の姿、そして二人を呆然と見守る自分自身を認めるのが、辛い。
育美は椅子にかけたコートを日っ掴み、足元に置いておいた鞄を引っ掴むと、帰ります、と言った。軽くお辞儀をするときに頭を深く下げ、しかし顔を上げないで育美は店を出て行った。育美の表情は始終分からないままだった。
俺が暫く放心していると、店員に謝り終えた岩村が、ドッと音を立てて椅子に座った。岩村は深い溜息をいた。
「ごめんなさい。少し、焦ったの。あなたが私の話を詐欺だと言うのも当然だわ。証拠がないもの」
「……」
「でも、簡単に無理って言って欲しくなったの。あなた、綾辻さんのダンスを見たことないでしょう?」
俺は立ち上がった。この場にもういたくなかった。今日は何もかもを忘れて眠ってしまいたい。マリちゃんのことも、Skypeのことも、育美のことも、岩村のことも。部屋に帰っても、空気が濁りメチャクチャに散らかった部屋が待っているだけだ。でもここで岩村と一緒にいるよりはマシだ。
「アイドルになる前の岩村真理香は、動きが鈍くて親や教師に叱られてばかりの子どもだった」
立ち去ろうとする俺の耳に、岩村の静かな声が滑り込んだ。俺は岩村を見下ろす。岩村は冷静さを取り戻した顔でこちらを見上げている。体は小さいが存在感の大きい岩村は、座っていても俺を見おろしているような気さえしてくる。
圧倒的に可愛いからか、それとも性格からくるものなのか、岩村からは威圧感を感じる。見た目は可愛い小動物だが、中身は獰猛な別のナニカ。そう思わせる雰囲気が岩村にはあるのだろう。
「岩村真里香がアイドルになったのも、JNCの人に認められたからよ。家族も教師も友達も、この子にはアイドルは無理だと言った。でも、岩村真理香には、彼女の背中を押してくれる人がいたの。多分、姉は、一人では歩き出せなかったわ」
「……何が、言いたいんだよ」
岩村は立ち上がると、俺の顔を上目遣い覗き込んでくる。
「綾辻育美は誰かに背中を押されたがっている。そしてその誰かに、私にはなれないっていう話よ。
ねえ、この意味、わかる?」
真っ直ぐな眼差しだった。可愛い印象が吹っ飛ぶような清々しい表情。ファーストインパクトからJNCの説明までは胡散臭かった雰囲気は一切消えていた。これが岩村円という人間の根本なのだろう。清廉潔白、威風堂々。多くの人間がコイツと話をしていると自分が小さく惨めに感じる、そんなタイプの人間。
俺は目を逸らす。俺は岩村の言葉を正面から受け止められるようなデカい器の人間じゃない。
「……わかん、ねえよ……」
「じゃあ、一晩考えて。どうせ暇でしょ?」
岩村はコートを身にまとい、肩にショルダーバッグをかけると、こちらを
「私、綾辻さんを諦めるつもり、全然無いから」
岩村は、それじゃあ片付けヨロシクね、と言い残して店を出て行った。なんで俺が、と思ったが、先程の岩村の剣幕を思い出して、大人しく片付けることにした。
三人分の飲み物を片付け、フラフラとした足取りで家に帰った俺は、心配してくる母親を無視し、部屋に戻った。散らかったままの物は放置、ベッドの上のものを床に払いのけて、布団に寝転がる。部屋の空気は濁ったままだ。
帰り際の育美は泣いていた。泣くのを堪えて、コートも着ずに店を飛び出した。育美はどうして泣いたのか? ……決まっている、俺がアイツにアイドルは無理だと決めつけたからだ。
昔から育美は押しに弱かった。両親もそう、教師もそう、そして俺も例外ではない。何か困ったことがあると育美は誰かの方を向き、答えを教えてもらうのを待っている。それが正しいか間違っているかは別として、育美は言われたことを呑み込んで、一生懸命こなすのだ。
そんな育美にも、しかし、自分の意志がある。育美は無言の眼差しでメッセージを送ってくる。俺はその眼差しから育美の意志を汲み取り、育美の求めるがままに動いてやっていた。それが俺たちの間にあったルールみたいなものだったと言っても良いかもしれない。
けれど、さっき、俺はそんな育美の期待を裏切ったのだ。
育美の顔の中に見えた、アイドルを目指したいと思う育美の気持ちを無視し、無理だとバッサリ切り捨てた。俺が無理だと言えば、育美が従うだろうと思った。
理由は一つ。育美に嫉妬したからだ。
高校で新しいことを始め、努力で実力をつけ、才能を認められた育美。
高校で何もせずに辞め、何も長続きをせず、家に引きこもるだけの俺。
『綾辻育美は誰かに背中を押されたがっている。そしてその誰かに、私にはなれないっていう話よ。
ねえ、この意味、わかる?』
ーーわかっちまうから、嫌なんだ。
俺は小さく舌打ちし、寝返りを打って布団に顔を埋めた。自己嫌悪で死にそうだった。
あと少しでラブコメになる予定です。