黒き森へ
ふうと吐いた息の温かみが、白い靄を作り出してはまた消えていく。
肺を、薄荷のような清涼さが占拠しはじめたのはいつ頃からか。まだ冬には遠かったはずだが、山の上ならばむべなるかな、というものなのだろう。
常として、地上から一千メートル標高の高い場所に登ると、それだけで十度は気温が下がるという。まだ気温の安定しない秋口の手前なれば、山の気温が低かろうとさほどおかしいことではないのかもしれない。
それにしてもこの厳しい寒さは、随分と堪えるものだが。
「……なんでドイツに来てすぐ、こんな山ん中に遣わされなきゃならないんだよ」
モミの森の真上、曇り空に浮かぶ白日に向かって、そんな愚痴が呟かれる。吐いた息は雲のようになってまた消えた。
その日、現代魔術師である八鍵水明は、彼が所属する魔術組織、結社の盟主であるネステハイムからとある任を言い渡され、ドイツの山奥へ赴いていた。
――魔術師。普通の感覚を持つ者がその名称を名乗られれば、正否にかかわらずはなはだ胡乱に感じるだろう。魔術師などという者は普通、創作物の中にしか登場しないものだ。
マーリン、モルガン、オーディン、キルケー、マクベスの魔女。そんな架空の存在など、挙げ始めれば枚挙に暇はないだろう。十人に聞けば間違いなく十人が、「魔術師などいない」と答えるのが一般的で、奇術師という言葉の方がまだ社会的な立場を確立していると言える。
しかし、科学技術が至るところに蔓延するこの現代において、魔術師というものは確かに存在している。無論それは誰彼が考える魔術師像と同じく、神秘を解き明かし、俗人が思う不可思議な現象を操る者としてである。
彼らは古くから、その途方もない力で人々を導き、その繁栄に寄与してきた。自然哲学に始まり、あらゆる学問を発展させ、ともすれば人の世の栄華の礎は、彼らが築いたと言っても過言ではないだろう。しかし現在ではその技術的地位は科学によって取って代わられ、その存在の認知は先ほど挙げたように、ロバート・ボイルの時代から徐々に架空の存在にまで貶められていった。
それでも、魔術師は世の裏側で息をひそめ、連綿とその神秘を伝え続けているのである。
そんな者たちの一人である日本人の少年――八鍵水明は、ふと立ち止まる。
道がなくなってからもうどれほど時が経ったか。歩けど歩けど、同じような形をした樹木と、砂利と土の地面しかない。
冷たい空気にしかめっ面をしながら、水明は手に下げた鞄からおもむろに地図と星図の両方を取り出して、地面へ放る。そして、何やら胡乱な言葉を呟いた。
それが終わると一度空を見上げ、周囲を見回して地面に目を落とす。すると、地図と星図は地面に落ちた時の向きとは違う状態で、地面に投げ出されてあった。
「ふん……迷ってはいないな」
進行方向に誤りはない。目的地に行くにはこのまま進めばいい。だが、目の前にあるのは木々がやたらと生い茂った暗がりの森。常緑樹がところ狭しと立ち並び、その葉に覆われているからなのか、数メートル先すら見通せない。
当然のことだが、魔術師である彼にかかれば暗い森、障害にさえならない瑣末な事柄だ。魔術を用いて照らせば、たかが暗がりに沈んだ道などすぐに通り抜けられるのだから。
だが、ここでふと横着でもしようかと思い立った水明は、黒スーツのポケットから友人からもらったフラッシュライトを取り出して、点けようとする。
「ん?」
かちり、かちり。スイッチから虚しい鳴き声が上がる。何故かフラッシュライトは本来の役割を遂げようとしない。
つまり。
「あちゃー、壊れやがった。なんだよあいつ、つーことはよっぽどいいモンくれたのかよ」
そう、このフラッシュライトは今回日本を発つ前、一番仲の良い友人から誕生日プレゼントだと言われ、もらったものだ。まだ一度も使っていなかったのだが、その効果を拝む前に、どうやら天寿をまっとうされてしまったらしい。
水明は困ったように後ろ頭を掻いて、友達のプレゼントのなれの果てをポケットへとしまい込む。
科学技術を用いて作られたものを使おうとして機能しないのは、魔術師にとって往々にしてあることだ。神秘に対して理解のリソースが傾くと、科学知識への理解が及ばなくなり、それどころか高度に機械的な工作物も扱えなくなってしまうのだ。
そして極め付けは、いまの水明のようにこうやって、勝手に壊れてくれてしまう。
魔術を身に付けていくと、その者自体が神秘的な存在になるためだ。
水明も、駅の自動改札や自動ドアに嫌われたのは一度や二度ではない。
確かにフラッシュライトは機械的なもの――と言うまでもないほど単純なものだが、昨今では有機ELやダイオードなどが使われているものもあり、以前までのものよりも先進的な技術が使われていることがある。
おそらくは今回、それが影響を受けたのだと思われる……のだが、それでも懐中電灯程度のものがそう簡単に壊れてしまうことは、水明にとっても未だかつてないことだった。
ということはつまり、他にフラッシュライトが壊れてしまう要因がこの場にあった、という可能性がある。
しばしば耳にしたり、経験したりしたことはないだろうか。神聖な場所や心霊スポットなどに赴いたとき、写真、ライト、ラジオ、それらが突然、機能しなくなることが。
魔術概論の示す通りならば、電波というものは極めて神秘の影響を受けやすい性質を持つという。神秘の世界では『光の波長』という点で電波は重要だが、この世に言う「永久で普遍の原理」の中でも、電波は極めて重要な部分を占める。
そのため、「神秘」という原理が近くにあると、科学的原理の内から発生した電波は機能しにくくなるという。
つまりこの辺りでは恒常的に、電波や機器に影響が出るほど強い神秘の力が働いている可能性がある、ということになる。
――結界か。
そう、森が異常に寒いのは、標高が高いからという理由だけではない。
目の前の空間が暗すぎるは、陽が当たらないからという理由だけではない。
フラッシュライトが壊れたのは、自分が魔術師だからという理由だけでは決してないのだ。
要は、結界を用い、この先に迷い込まないようにしているのだろう。異常な寒さと、呑み込まれそうなほどの暗がりで、只人の侵入を拒んでいるのだ。
いま水明が立つその場所に、見えない境界が確かにある。
だがそれでも、水明は躊躇なく森に足を踏み入れた。
足元の感覚は覚束ないうえ、落ち葉や枯れ枝を踏む感触はおろか地面の盤石ささえ感じられない。ただの暗闇とは違い、生物的な湿り気を感じる黒が、肌にねばりついてくる。本当に、暗闇の海の中に落ち込んだかのよう。常人ならば一分と保たず逃げ出すそんな違和感の海の中を、足取りも強く突き進む。
やがて森を抜け切ると、彼の目を光が突き刺した。ちかちかと目の奥を焼く残像に堪え、目が光度の差に慣れてくると、一転、先ほどの道のりは何だったのかと疑いたくなるほどしっかりと舗装された石畳の道が現れた。
「目的地は、この道の先か」
この道の先にあるあのおぼろげに見える建物が、そうなのだろう。
そう、今回、水明が結社の盟主から任せられたのは、なんとも変わった任務だった。
彼曰く――めでたく、偉業者級の位階に達した君に、今回から補佐を付けることにする。ついては、これから君を使わせる場所に僕の古い友人がいるから、彼からその君の補佐をする者を受け取ってこい、と。
その言葉に、自身の顔は、かなり険しく歪んでいただろう。
いつも無邪気な笑みを浮かべては、無理難題を押し付けてくる結社の盟主、ネステハイム。
彼に言い渡された言葉は、いつにもまして突っ込みどころが満載だったからだ。
まず、この場所だ。
魔術師にとっては隠棲する場所が険しいところというのはままあるため、山の中にあろうが海の中にあろうが陸の孤島だろうが問題はないのだが、あろうことか結社にある古地図に、ここについての記載が何もなかったのが、水明の疑問を助長させた。
結社の古地図は、土地が変化するたび常に正しい地理を正確に写し、その情報も付け加えられる。それは必ず、絶対という言葉とともにあるものだと思っていたが、何故か水明がいるこの場所のことは、地図には載っていなかった。
どういうことなのかと、それについて盟主に聞けば、いつものように優しそうに笑っているだけ。行けばわかると言われただけで、明確な答えはもらえなかった。
次に彼の言った「古い友人」という言葉もそうだ。
そう、確かに盟主は友人と言った。だが、盟主の言う友人とは胡乱なものだ。彼にかかれば、同じ理想を目指した者はみな、彼の友人になるのだから。それが、彼に心酔し、その後ろを追い掛けてきた者でも、彼を盲目的に崇める者でも、例外はただの一つもない。
この先にいるのは果たして友人なのか、弟子なのか、彼を神のように信奉する人間なのか、判然としたものではないのだ。
そして最後に、最も重要なのは、補佐する者を受け取ってこいとの言葉だろう。
受け取ってこい。その言い様から、まさか使い魔かとも思ったが、もともと自分は使い魔を使役する能力に魔力を振ってはいないし、それについては盟主も良く知るところだ。
これから一時的に使うときは出るかもしれないが、基本的には使い魔を常備するつもりは無論ない。その旨も、彼にきっちり伝えてある。
ならば、盟主の言葉は一体なんの意図があってのものだったのだろうか。山道を歩きながら考えていたが、一向にその答えは出て来ない。
やがて、水明は石畳の果てにたどり着く。
「ここか……」
目的地とした場所にあったのは、ネオルネッサンス様式の巨大な古びた館だった。
陽光は雲の裏に隠れたか、いまはそのなりを潜めており、門に連なる壁に雲で透かされた灰色の光がどんよりと反射している。そのせいか、全体が黒と白と灰の色に映り、うらびれた佇まいを際立たせていた。
歩みを進めると、寂れた鉄製の門扉があった。巨大な館に見合うほど大きく重厚で、真っ黒に焼けたような鋼鉄でできている。時計仕掛けや単純機関を模したのか、歯車や往復機関、振り子などが門扉と同質の素材で、いくつもあてがわれてあった。
門扉に設えられたドアノッカーを叩くと、響きのいい金属音が洋館の扉に向かって真っ直ぐに飛んでいった。古い魔術師の館は、当然の如く不可思議が施されている。いまの音も施術によるものだろう。
しばらくして、洋館の蝶番が年季を感じさせる音を立てた。
両開きの扉の片側に、陰が口を開ける。その暗闇から、影法師がにゅ、と剥がれてきた。現れたのは美しく装飾されたエプロンドレスを身にまとった少女。茶色の長い髪は流しており、背丈と容貌から考えて、歳の頃は少し下と見る。澄ました表情が、一見してどこか冷たいものを感じさせた。
門扉を挟んで前にいる少女は、スカートを摘まんで上げ、優雅に一礼する。
それに水明は、来訪者のならいと自己紹介で返そうとするが、
「俺は……」
「結社の八鍵水明様ですね。お話しは伺っております」
水明が「そうか」とその場にこぼすと、少女は門扉に触れた。
時計の針を無理やり動かしたように、ガンギ車とアンクルがかみ合う音が加速する。「チチチチチ……」という小気味良い音が停まると、次いでゼロールギアの動きとともに「ギャー」というけたたましいギア音が猛回転と共に響き渡り、やがて重い鉄の門が地面を引きずった。
開門の音が、山を揺るがす。飛び立つ鳥たち。羽ばたきの音と鳥の声が、山の中に谺した。
門扉が開き切ることに少し遅れて、少女が館に向かって手を差し出した。
「奥でお父様がお待ちです。どうぞこちらへ」
そこで、水明は少女に顔を向ける。
「ちょっと聞きたいんだが」
「なんでしょうか」
「ここは?」
「ここは、とは?」
「いや、誰の家なのかなってな」
「まさか……お伺いになっていらっしゃらないのですか?」
水明の訊ねに、少女が驚くのも無理はない。普通は自分が訪ねるところを把握してから、その場所へと赴くのが自然なのだから。
「悪い。うちの盟主殿はかなりのイタズラ好きなもんで」
弱ったような水明の言葉に少女は得心がいったか。「なるほど」とため息を吐いたあと、静かに、
「――ご案内いたしましょう。ここは、アルツバイン時計人形工房でございます」
「アルツバインって、ここが、あの――」
あの有名な、幻の人形使いの居城なのか。
水明は改めて館を仰ぐ。
陽がまた顔を出すと、白黒の写真の中にあったうらびれた館が、赤い色みを取り戻していった気がした。