「熱帯魚 」 吉田修一
吉田修一「熱帯魚 」(文春文庫) 二〇〇三年六月一日
表題作「熱帯魚」は自分が愛されたい、より一般化していうと、実は自分がそうされたいのに他人が自分にそれを望んでいるから、お節介にならない程度にそうしてやっているのだと自分で信じきっている青年(美人で子持ちの女と同棲中)のお話。だから普通にイタイ。主人公は無職ではなくガテン系でも高給取りの大工。が、まだ現場を任されたことがない。二年間だけ兄弟だった同居人の飼育がていた熱帯魚のイメージがラストでプールの底を舞い泳ぐ使い捨てライターの群れに入れ変わる辺りは鮮やかだが、蘆花公園でカラスを捕まえるシーンに見られるように全体的にはモノクロームで過ぎ去ってしまった夏の印象だ。
「グリーンピース」は理由はないがグリーンピース好きの職探し中の青年が恋人に真剣にグリーンピースをぶつけたことがきっかけで、恋人に家を出て行かれるお話。もっとも出て行けといって車のキーを彼女に渡したのは主人公の方で、しかもそこが彼女のアパートで……といった辺りが巧み。缶コーヒーにマジックペンでそのときの偽らざる(しかし本気ではない)気持ちを書くのが癖だったりするところも。病気の祖父の年金で暮らしているという情けなさが秀逸。彼女がキレて出て行き、共通の友人たちと浮気しまくろうと(ただし実際には一人止まり)することころが良い。
「突風」は――詳しくは書いていないが――証券会社勤務の高給取りの青年が休暇でたまたま出向いた千葉の田舎の民宿でアルバイトをする様子を描いたお話。最後に少しだけ気の触れた民宿の中年だが美人の奥さんを何とかその状況から救い出そうと夜のドライブに誘うのだが、主人公自身が自分から逃げ出せないことを悟るに至り、帰りの電車賃(実は当面の生活費)を渡して新宿駅で奥さんを降ろすシーンの優しい残酷さが秀逸。一週間後に同じ場所で会おう、と奥さんの脱出を支援するためにした約束を思い出すのが三週間後という辺りが吉田節。当然、再会するシーンは描かれていない。しかも待たれることがぞっとするくらい嫌いという設定の主人公。。
これまで読んだ作品で共通していえるのは主人公(または語り手)と場合によっては主人公周辺の人物の痛さで続けて読んでいると本当に自殺したくなってくるところが太宰と似ているかもしれない。本当に死ぬ気がなかったのに死んでしまった太宰と違い、予定調和的な死を予感していた三島の作品に死の影がないのが面白い(もちろん登場人物が死なないということではない)。だから口に出していうと「えっ!」という顔をされる「潮騒」が好きなのかもしれない。いま読めば印象が違うかもしれないが、人工的な生の見事な鮮やかさが、そこにある。
共通していえるといえば、おそらくそうはしないだろうけど、でももしかしたらそうするかもしれないという終わり方が多いようだ。総じて情けない主人公の将来を読者に心配させる書き方とでもいうか。