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十一

「お菊――」

「おまいさん!」

 黄泉が自宅の玄関戸を開けた瞬間、義助は驚きの声を上げ、裸足のまま女房に駆け寄った。

 義助はお菊の体を強く抱きしめ、女房が無事であることを確認するや、感情を抑えきれず、泣き出してしまった。

「無事でよかった――」

「おまいさん――」

 お菊はよほど怖い目に合ったのだろう、義助の着物を涙で濡らしていた。

 義助に遅れるようにして玄関先に姿を現した伊織を見定めるや、黄泉は真面目な表情で切り出した。

「伊織――よいか?」

「あん?」

 何のことか見当もつかず、一瞬間の抜けた返事をした伊織だったが、立ち話もなんだ、茶でも飲みながら落ち着こうやと、独り言のように呟き、客間へと向かった。

 普段であれば、わしの家なのにと、伊織の態度にケチの一つでもつける黄泉であるが、今はただ殺気を漂わせ、無言のまま伊織の後を追った。

「あのぅ、あっし等はどうしたら?」

 会話の外にいた義助とお菊はきょとんとした顔で、呆然と立ち尽くしていた。

「お主等にも関わり合いのある事だ――入るがいい」

 黄泉は視線を前に据えたまま、独り言のように呟き玄関戸を潜った。



 今度はお菊を交えるような形で、客間のちゃぶ台を囲うように、義助、お菊が並び、その向かいは、黄泉、伊織が座していた。

 伊織は、湯呑みの茶をすすり、一息ついたところで口を開いた。

「で、どうよ?」

「あぁ、奴であった」

 そうかと短く答えた伊織は、再び湯呑みを口につけ、茶をすすった。

「今晩寅ノ刻、隅田川で奴を――」

 黄泉が右手に握る湯呑みの茶が細かく波打ったかと思うと、一瞬にして湯呑みは砕け散った。

「――討つ」

 その光景を見て、義助とお菊の口から、ひぃっと、短い悲鳴が漏れた。

「仇討ちなら、立会人が必要だろう。おめぇの親である俺がやるのが妥当だ――」

「伊織には、この二人を養生所に匿ってもらいたい。ゴロツキ共があれであきらめるとも限らない」

 黄泉に言葉を遮られた挙げ句に、申し出をはね退けられた伊織はふくれっ面で黄泉に食ってかかろうとする。

「おうおう、じゃぁ聞くが、一体誰が立会い人になるんだよ! それとも何か? 一人でやるつもりか?」

 黄泉はハナから独りで行くつもりであった。伊織は自分のことを心配していっていることは痛いほどわかる。しかし――黄泉が視線を落とし、頷こうとした瞬間、不意に客間の襖が勢い良く開かれた。

「その立会人、私にやらせてはもらえないか?」

 突如現れた侍姿の人物を目の当たりにした全員が、驚きの表情を浮かべた。

 一呼吸間を置いて、伊織がやっとのことで口を開いた。

「忠相――」

 忠相と呼ばれた侍は、伊織に向かって笑んだ。

「私では不服か?」

 忠相の頼みじゃぁ断ることもできねぇなと、言い訳しながらも伊織は忠相の申し出を渋々承知する構えを見せた。

「いやぁ、びっくりしたが、旦那、何者だ?」

 まったく訳が分からないといった表情で、義助は忠相に問う。

「伊織とは昔からの馴染みだ」

 すまないが茶をくれないかと、厚かましいことを言いながら、忠相は、伊織と黄泉の間に割ってはいるように腰を降ろした。

「こら、忠相!? 俺の茶を!」

「それとも黄泉の茶の方が良かったか?」

「余計だめだぁぁぁ! 黄泉! この腐れ縁の無礼千万の馴染みに茶入れてやれ!」

 黄泉は大きなため息を吐くと、戸棚から新たな湯呑みを取り出し、茶を注いだ。

 忠相は湯呑みを差し出されると、ゆっくりと香りを楽しみ茶をすすった。

「うまい!」

 忠相は黄泉に満面の笑みを向けた。 

 黄泉の顔が一瞬のうちに赤面し、思わず俯いてしまっていた。

 実は男こそ南町奉行大岡忠相であった。

 黄泉は伊織に連れられ何度か忠助と顔を合わす機会があり面識があった。黄泉の生い立ちなど、すべて承知のうえで、密偵として働かないかとも言われたことがあったのだが、伊織が猛然と反対したのだ。

 黄泉も忠相にはそれなりの信頼は寄せているので、忠相の立会人の申し出はありがたいことであった。

「忠相殿、よろしく頼む」

「あい分かった」

 今までの殺伐とした空気は消え失せ、暫し和やかな空気が客間を包み込みこんでいた。


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