十
一刻は過ぎたであろうか。山ほどあった黄泉の木札はすでに数えるほどしか残ってはいなかった。
やはりか――今までの勝負、黄泉は一度たりとも勝つ事なく負け続けていた。それはまるで黄泉だけを狙っているごとくだった。
「丁!」
「半!」
張り手が次々と木札を張っていく。心なしか、その声には、以前までの気合いは感じられず、勝利を確信しているのか、薄く笑みを漏らす者もいた。
「丁――」
黄泉はそんな周囲に動ずる気配を毛ほども見せず、涼しい顔で木札を横に張った。
「丁、半駒揃いました――勝負!」
周囲の張り手がにやけた顔で壷を凝視する。
壷を勢い良く開いた壷振りの眼が、大きく見開かれ、顔には驚愕の色が現れ醜くひきつっていた。
「ピンゾロの丁! 丁、と、出ました――」
今までの負けは嘘のように、黄泉の目の前には、大量の木札が流れ込んできた。
張り手の男達は、目の前で起きたことが信じられないのか、言葉を失い、まるで石のように固まっていた。
「入ります――」
「半!」
「丁!」
「半――」
再び壷振りの顔が驚愕で歪んだ。
「一六の半、半と出ました――」
再び黄泉の目の前には大量の木札が流れ込んできた。
とその時、周囲に割れんばかりの濁声が響き渡った。
「やいやいやい! ここで八百長しやがるとはいい度胸じゃねぇか!」
声の主は、今まで沈黙を守っていたこの博打場を仕切る親分らしき人物であった。
親分は肩を怒らせ、壷振りの傍らに立つと、右足で白い布の貼られた賭博台に足を乗せ、黄泉を睨みつけた。
「わしが勝つとイカサマか? イカサマをしているのはお主であろう――」
そう親分に言葉を叩きつけると、黄泉は賭博台を持ち上げ、ひっくり返した。
台から木札がバラバラと流れ落ち、床に散乱する。
張り手の男達ははがされた台の下にある光景に、驚きで声を詰まらせた。
「――な!?」
賽子が振られるであろうその真下には、縦に穴が掘られ、そこに隠れるようにうずくまる男の姿があった。
よくよく見ると、黄泉はいつの間にか右手に太刀を持ち、その太刀の切っ先を、穴でうずくまる男の喉元に突きつけていた。
そう、黄泉は台の下に誰かが潜っている事を見抜き、自分が勝てるように刀で男を脅していたのだった。
「てめぇ、生かしちゃおけねぇ!」
イカサマのカラクリを暴かれ、親分の怒りは頂点に達した。
事の次第を理解した張り手達は、巻き込まれるのはごめんだと言わんばかりに、先を争い部屋から逃げ出していった。
代わって目つきの悪いゴロツキ共が、黄泉の周囲を囲み込んだ。
「何の騒ぎだ?」
「先生!?」
親分から先生と呼ばれた人物は、今し方まで親分が座していた場と、札売場の間に掛けられた暖簾から顔だけを出し、何があったのかを見定めるように部屋中を見回した。
「なぁに、うすぎたねぇネズミが部屋を荒らしてまして。先生が出るほどのことはありやせん――」
「ほう、女子だてらに剣術をやるのか」
先生と呼ばれた男は、太刀を軽々と片手で持つ黄泉の姿を興味あり気に見据えながら、暖簾を潜り、浅黒い汚れた着物に擦り切れた茶色の袴姿を周囲に晒した。浪人という言葉が当てはまる出で立ちだ。
間違いない、奴だ――額に刻まれた十字の傷を目にした黄泉の眼光が鋭く変わった。
押さえ切れぬほどのどす黒い闇が、黄泉の内からこみ上げてくる。しかし、今はそれに飲まれるわけにはいかぬ。まずはお菊をここから逃がさねばならない。
黄泉は絶え間無く押し寄せる憎悪の念を必死に押さえ込み、右に持つ太刀の切っ先を浪人に向け、自由な左手を懐に忍ばせた。
そしておもむろに取り出した紙を目の前で広げ、声高に叫んだ。
「ここに義助という大工の女房、お菊はおらぬか! 借金の証文と引き替えに受け渡してもらおう」
「てめぇ、あれだけ博打場を荒らした上、取引しようってのか!」
怒気を含み、親分がわめき散らす。
「そこの浪人。いくらで雇われているかは知らぬが、もっと金のなる木が目の前にいるのだぞ」
「なにぃ?」
浪人が訝しげに眉を寄せた瞬間、黄泉は太刀を振り上げ血振りをする。
太刀は砕けたように弾け、透けるような白い粉雪のように周囲を漂い、そして散っていった。
その場に居合わせた男達は信じがたい光景に言葉を失い、空気が冷たく凍り付いた。
一呼吸の後、その凍った空気を破るように、浪人の高笑いが鳴り響いた
「高値で売り払ったというに、よもや、再び俺の目の前に現れようとはな!」
浪人は笑いが止まらないのか、肩を振るわせながら札売場に向かい、売場席に座る札売りを蹴飛ばした。
「つっ!」
顔面を押さえ、無惨に床に転げ回る札売りには目もくれず、今し方まで札売りが座していた席の後ろ、押入の襖を勢い良く開けた。
「――!?」
押入の中には背中側に両手を縛られ、口には猿ぐつわを施された女人が横たわっていた。
浪人は女人を無造作に掴み起こす。そして女人を半ば引きずるように歩を進め、黄泉の目の前で歩みを止めた。
「ほらよ!」
黄泉に向かって女人を突き飛ばすと、女人はたたらを踏んだ後、勢い余って倒れ込んだ。
「てめぇ! 裏切るつもりか!」
親分は怒りを露わに顔を真っ赤に染め、先ほどまで先生と呼んでいた浪人を睨みつけた。
「はした金なら返してやる」
浪人は一言吐き捨てると、懐から取り出した小判を床に向かって投げ捨てた。
「野郎ぉぉ!」
動いたのはその光景を見ていた若いゴロツキだった。
懐に手を忍ばせたまま、男に向かって走りよった。
浪人は静かに右手を刀の柄に添える。
刹那、浪人の右腕は高く振り上げられ、ゴロツキの動きが止まった。
「ふん!」
間髪入れず浪人の口から気合いが迸り、太刀は上段から斬り降ろされた。
抜刀と同時に斬り上げ、さらに上段から斬り降ろす、抜刀術における基本的な連携である。
「――」
さきほどまで威勢の良かったゴロツキは悲鳴にならない悲鳴をあげながら、膝から崩れ落ちるように倒れ込んだ。
やがて、うつ伏せに横たわるゴロツキから、血の赤がじわじわと広がり、床を染めていった。
いつ鯉口を切ったのかもわからない。あのときと同じだ――昼間見た伊織の抜刀とは比べ物にならない速さであるが、恐怖よりもその刃が母を斬ったという憎悪が黄泉の頭を支配してした。
黄泉は今にも飛びかかりたい衝動を必死に抑えるかのように、血振りをする浪人の姿を睨みつけ、唇を噛んでいた。
「死にたくなければこいつ等に道を開けろ!」
恐ろしいほど低い浪人の声が、部屋中の空気を振るわせた。
黄泉を置いては他に、誰一人として、口を開くどころか、指先一つ動かそうとしない。いや、動かすことができなかった。
「お主、義助の女房、お菊であるな?」
黄泉は、女人の腕に絡みつく縄を解きながら、耳元に優しく囁いた。
下手に声を上げられては面倒だったので、念のため猿ぐつわははずさないようにした。
女人は恐怖から体を振るわせながら、一つ、二つ頷いた。
黄泉は女人に頷き返し、優しく抱き起こした。
「邪魔をしたな」
黄泉は誰に言うでもなく短く告げ、憔悴しきったお菊に肩を貸し踵を返す。
歩み出す黄泉の背中越しに一枚の紙が舞い上がり、暫く宙を漂ったあと紙は、音も無く床に落ちた。
「今晩寅ノ刻(午前四時)隅田川河口の河原だ」
それは去ろうとする黄泉の背中に浪人が投げかけた言葉であった。
黄泉は浪人の言葉に一瞬歩みを止めるが、何事もなかったかのようにお菊を支えつつ再び歩を進めた。
浪人は黄泉が母の敵を討とうとしていることを見透かしているようであった。
必ず来るとの確信からか、浪人の口元が緩み、やがて高笑いへと変わった。
やっと貴様を葬り、母上の無念を晴らせる――気がつくと黄泉もまた、口元にうっすらと笑みを浮かべていた。




