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 祐二が着替えを終え、旧体育館を出た時だった。

 体育館と校舎を繋ぐ廊下で一人の男が立っていた。

 男は祐二の姿に気づくや、逃げるように踵を返した。

「先輩、田辺先輩か!」

 祐二の声に男は足を止めた。

「――」

 祐二は呼ばれた名を否定しない男。この男は田辺であると確信した。

「俺になにか用か?」

 背中を向けたまま、男――田辺は呟いた。

「みんな心配している。主将が来ないからな」

 祐二の言葉に田辺の口から嘲笑が漏れた。

「心配だと? 信頼というものを失った俺をか?」

 田辺は歩きだした。

「待ってくれ!」

 田辺は足を止めずに言い放つ。

「俺に構うな」

 祐二はなお食い下がり、声を張り上げた。

「俺に剣道を教えてほしい」

 その言葉に田辺はぴたりと足を止めた。

 やがて、クククという声が漏れる。

「ふざけるなぁぁ!」

 田辺は祐二に向き直ると、つかつかと早足で距離を詰めた。

「俺に剣道を教えてほしいだと!? 剣の道から外れたこの俺にか!?」

 田辺は祐二の襟首を掴み、まくし立てた。

 祐二は田辺の目をまっすぐ見据える。

「おれがやりたいのは剣道じゃない。俺は強くなりたいんだ」

 強くなりたいが為に、剣の道から外れた俺に教えを請うとでもいうのか――祐二の真剣さに何かを感じたのか、田辺は右手を離した。

 そして、まっすぐ祐二の眼光を受け止める。

「――俺に構うな」

 田辺は目を逸らし、立ち去っていった。



 釈然としない思いを抱えたまま、祐二はアパートのドアを開けた。

「ただいま」

 瞬間、耳を覆いたくなるような悲鳴がこだました。

 悲鳴は台所から聞こえた。

「どうした!?」

 祐二は靴を脱ぎ捨て、台所に駆け込んだ。

「な!?」

 そこには太刀を構える黄泉の姿があった。

 太刀を構える姿はへっぴり腰で、膝がカクカクと笑っているように見える。

「ゆ、祐二、黒くて大きい不気味な虫がおる」

 祐二が黄泉の足下をみると、髭の長い小判型の黒い虫が床を這っていた。

「ゴキブリじゃねえか」

 殺虫剤でもぶっかけるかと、祐二が身を返そうとした時だった。

「えい!」

 黄泉が太刀を振り降ろした。

「こらこらこら――え!?」

 太刀は刀身の半分くらいまで床にめり込んだ。

 いや、祐二には床をすり抜けたように見えた。

 そのまま白刃が滑り、ゴキブリの体を横断する。

 黄泉が床から太刀を抜いた瞬間、ゴキブリがコテンとひっくり返り、動かなくなった。

 刀身の滑った床には傷一つついていない。

 黄泉が血振りをすると、太刀は弾けるように散って消えていった。

「ふう、危ないところであった」

 黄泉はそう言いながら、冷や汗を腕で拭った。

 なにが危ないのかよくわからないが、祐二は一応聞いてみる。

「何が危ないんだ?」

「聞いてくれるか! 黒い虫がわしに向かって来たと思ったら、空を飛びおった」

 ゴキブリと長時間格闘していたのだろうか、黄泉の着ているTシャツは汗で肌に貼り付いていた。

 祐二は目のやり場に困った。

 これは言うべきなのか、祐二は非常に迷った。

「黄泉――胸」

「ん? は!?」

 汗でTシャツが汗で胸の部分にくっつき、肌が透けている。

 黄泉はノーブラだった。

「助平ええええ!」

 瞬間、黄泉の両手が強烈な光に包まれた。

「馬鹿! やめ! 俺を殺す気か!?」

「助平な魂だけを斬る!」

 男は純度100%エロの魂でできている、っていうか、死ぬじゃんと、祐二は床にひれ伏した。

「どうか黄泉の旦那さま、お静まりくださいませー」

 へへーと、手をつき、頭を垂れる。

「ふむ、なら飯にしよう」

 機嫌がなおったのか、黄泉は部屋に向かう。

 しまうのを忘れた妖術刀は、黄泉の右手にはりついたまま、床を、壁をするするとすり抜けていった。

 祐二は黙って黄泉の後について茶の間兼寝室である部屋に向かう。

 部屋にはちゃぶ台が置かれ、夕飯のおかずが並んでいた。

 黄泉は器用に、太刀を持ったまま、ご飯を茶碗によそっていた。

 妖術刀の事を教えようか迷う祐二だったが、どこで気づくか興味があり、様子をみることにした。

 ちゃぶ台の前に座り、箸を取る。

 献立は焼き魚に、沢庵、味噌汁といたってシンプルである。

 魚はフライパンで焼いたのか、身がボロボロになっていた。

 黄泉はご飯の盛られた茶碗を並べると、箸を取った。

 もちろん太刀を持ったまま。

 器用だなと、祐二は黄泉の右手をよくよく見る。

 太刀の柄が手のひらにぴたっとくっついているようである。

 ご飯を食べ始めた黄泉を見て、さすがに教えてやろうと思った。

「あの、黄泉、刀を出しっぱなしだぞ」

 そう言いながら、祐二は箸で太刀を示した。

 箸はするりと刀身をすり抜ける。

「すげえ。不思議だなこの刀」

 箸で何回か刀身をつっついてみるが、まるで立体映像のように箸がすり抜ける。

「妖術刀は魂しか斬れぬからな。この刀に触れることができるのは魂――すなわち幽霊か悪鬼くらいだ」

 黄泉が血振りをすると、太刀は弾けるようにして消えた。

「ふーん。いつからこんなことができるようになったんだ?」

 黄泉は口の中のご飯を飲み込んだところで、祐二の問いに答える。

「幼い頃。母が殺された時」

 黄泉はうつむき、手にした味噌汁を見つめているようだった。

 事切れるまで自分の名を呼んでいた母の声が頭から離れない。

 ただ泣くことしか出来なかった自分に、憤りがこみ上げる。

 黄泉はお椀の中に映りこんだ自分の顔を睨みつけた。

「殺された――のか」

 祐二の声は迷いを含んでいた。誰に殺されたのかは気になった祐二だったが、それを聞くことに躊躇していたからだ。

 しかし、祐二の心配をよそに、黄泉は小さく頷き、語りだした。

「わしの実の父に斬り殺された」

「――そんな」

 祐二は言葉を失った。

 母が目の前で殺されただけでなく、斬ったのは実の父。

 黄泉の父の仕えていたお家がとり潰しとなり、仕官もままならず、黄泉の父は酒に溺れるようになったという。

「ある日、酒代もないならわしを売るという父に、母上は身をていして庇ってくれた。その母を――奴は」

 黄泉の箸を持つ手は震えていた。

 味噌汁の入ったお椀をちゃぶ台に置くと、黄泉は言葉を継いだ。

「あいつを殺したい、母を斬ったその刀で。そう思った時、手に刀が現れた」

 その光景を見た黄泉の父は驚いたらしい。しかし、これは金になると思ったのか、黄泉の父は我が子を見せ物小屋に売った。

 妖術を使う子供ということで、評判があったのだろう。暫くして見せ物小屋の主人は、黄泉を南蛮の商人に売ってしまったということだった。

 黄泉はそこまで説明すると、祐二に笑顔を向ける。

「南蛮で出会った日本人にわしは引き取られた。その男こそ、わしが父と慕い、唯一惚れた男だ」

 祐二はそうかと、一言漏らし、頷いた。

 ここが南蛮だろうが、地獄だろうが関係ない――黄泉と初めて出会った時、彼女から聞いた言葉の意味を祐二は理解した。

 祐二は見せ物小屋というのはよくわからなかったが、時代劇などで見る情報で想像すると、人をまるで動物のように扱ったりするのだろうと思った。

 しかも言葉の通じない異国の地で、奴隷のように扱われていたのかもと。

 重すぎる――祐二は思った。

 そのような深い傷を背負った黄泉を、自分が支えることができるのかと。

 傷が治るわけじゃないけど、せめて痛みくらいは――気がつけば口を開いていた。

「あ、あのさ、絵里子がさ、携帯アドレスと、番号教えてほしいってさ」

「絵里子が?」

 祐二は頷いてみせる。

「ああ、その、あれだ、俺じゃ女物の下着なんてよくわかんねえし、一緒に買ってきたらどうだ?」

 そういいながら、祐二は箸で黄泉の胸元を示す。

 シャツが乾いたのか、さっきよりは肌が透けていない。

「サラシでも良いのだが、暑いからな――」

 黄泉はふむと頷くと、味噌汁をすすった。

 とくに気落ちした様子もない黄泉に、祐二はほっとした。

 すっかり冷めてしまった魚の身を箸で摘む。

 ほんのりとした塩味がごはんと良く合った。

 美味い――そう思いながら、祐二が箸を進ませていた時だった。

「ところで――」

 ぽつりと黄泉が呟いた。

「――携帯のアドるスというのはなんだ?」

 祐二は思わず口の中にかき込んでいた物を、吹き出した。

「あぁ、そうか、そこから教えないといけないわけね」

 面倒くせぇと、呟きながら祐二は肩を落とした。 



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