弐
祐二が着替えを終え、旧体育館を出た時だった。
体育館と校舎を繋ぐ廊下で一人の男が立っていた。
男は祐二の姿に気づくや、逃げるように踵を返した。
「先輩、田辺先輩か!」
祐二の声に男は足を止めた。
「――」
祐二は呼ばれた名を否定しない男。この男は田辺であると確信した。
「俺になにか用か?」
背中を向けたまま、男――田辺は呟いた。
「みんな心配している。主将が来ないからな」
祐二の言葉に田辺の口から嘲笑が漏れた。
「心配だと? 信頼というものを失った俺をか?」
田辺は歩きだした。
「待ってくれ!」
田辺は足を止めずに言い放つ。
「俺に構うな」
祐二はなお食い下がり、声を張り上げた。
「俺に剣道を教えてほしい」
その言葉に田辺はぴたりと足を止めた。
やがて、クククという声が漏れる。
「ふざけるなぁぁ!」
田辺は祐二に向き直ると、つかつかと早足で距離を詰めた。
「俺に剣道を教えてほしいだと!? 剣の道から外れたこの俺にか!?」
田辺は祐二の襟首を掴み、まくし立てた。
祐二は田辺の目をまっすぐ見据える。
「おれがやりたいのは剣道じゃない。俺は強くなりたいんだ」
強くなりたいが為に、剣の道から外れた俺に教えを請うとでもいうのか――祐二の真剣さに何かを感じたのか、田辺は右手を離した。
そして、まっすぐ祐二の眼光を受け止める。
「――俺に構うな」
田辺は目を逸らし、立ち去っていった。
釈然としない思いを抱えたまま、祐二はアパートのドアを開けた。
「ただいま」
瞬間、耳を覆いたくなるような悲鳴がこだました。
悲鳴は台所から聞こえた。
「どうした!?」
祐二は靴を脱ぎ捨て、台所に駆け込んだ。
「な!?」
そこには太刀を構える黄泉の姿があった。
太刀を構える姿はへっぴり腰で、膝がカクカクと笑っているように見える。
「ゆ、祐二、黒くて大きい不気味な虫がおる」
祐二が黄泉の足下をみると、髭の長い小判型の黒い虫が床を這っていた。
「ゴキブリじゃねえか」
殺虫剤でもぶっかけるかと、祐二が身を返そうとした時だった。
「えい!」
黄泉が太刀を振り降ろした。
「こらこらこら――え!?」
太刀は刀身の半分くらいまで床にめり込んだ。
いや、祐二には床をすり抜けたように見えた。
そのまま白刃が滑り、ゴキブリの体を横断する。
黄泉が床から太刀を抜いた瞬間、ゴキブリがコテンとひっくり返り、動かなくなった。
刀身の滑った床には傷一つついていない。
黄泉が血振りをすると、太刀は弾けるように散って消えていった。
「ふう、危ないところであった」
黄泉はそう言いながら、冷や汗を腕で拭った。
なにが危ないのかよくわからないが、祐二は一応聞いてみる。
「何が危ないんだ?」
「聞いてくれるか! 黒い虫がわしに向かって来たと思ったら、空を飛びおった」
ゴキブリと長時間格闘していたのだろうか、黄泉の着ているTシャツは汗で肌に貼り付いていた。
祐二は目のやり場に困った。
これは言うべきなのか、祐二は非常に迷った。
「黄泉――胸」
「ん? は!?」
汗でTシャツが汗で胸の部分にくっつき、肌が透けている。
黄泉はノーブラだった。
「助平ええええ!」
瞬間、黄泉の両手が強烈な光に包まれた。
「馬鹿! やめ! 俺を殺す気か!?」
「助平な魂だけを斬る!」
男は純度100%エロの魂でできている、っていうか、死ぬじゃんと、祐二は床にひれ伏した。
「どうか黄泉の旦那さま、お静まりくださいませー」
へへーと、手をつき、頭を垂れる。
「ふむ、なら飯にしよう」
機嫌がなおったのか、黄泉は部屋に向かう。
しまうのを忘れた妖術刀は、黄泉の右手にはりついたまま、床を、壁をするするとすり抜けていった。
祐二は黙って黄泉の後について茶の間兼寝室である部屋に向かう。
部屋にはちゃぶ台が置かれ、夕飯のおかずが並んでいた。
黄泉は器用に、太刀を持ったまま、ご飯を茶碗によそっていた。
妖術刀の事を教えようか迷う祐二だったが、どこで気づくか興味があり、様子をみることにした。
ちゃぶ台の前に座り、箸を取る。
献立は焼き魚に、沢庵、味噌汁といたってシンプルである。
魚はフライパンで焼いたのか、身がボロボロになっていた。
黄泉はご飯の盛られた茶碗を並べると、箸を取った。
もちろん太刀を持ったまま。
器用だなと、祐二は黄泉の右手をよくよく見る。
太刀の柄が手のひらにぴたっとくっついているようである。
ご飯を食べ始めた黄泉を見て、さすがに教えてやろうと思った。
「あの、黄泉、刀を出しっぱなしだぞ」
そう言いながら、祐二は箸で太刀を示した。
箸はするりと刀身をすり抜ける。
「すげえ。不思議だなこの刀」
箸で何回か刀身をつっついてみるが、まるで立体映像のように箸がすり抜ける。
「妖術刀は魂しか斬れぬからな。この刀に触れることができるのは魂――すなわち幽霊か悪鬼くらいだ」
黄泉が血振りをすると、太刀は弾けるようにして消えた。
「ふーん。いつからこんなことができるようになったんだ?」
黄泉は口の中のご飯を飲み込んだところで、祐二の問いに答える。
「幼い頃。母が殺された時」
黄泉は俯き、手にした味噌汁を見つめているようだった。
事切れるまで自分の名を呼んでいた母の声が頭から離れない。
ただ泣くことしか出来なかった自分に、憤りがこみ上げる。
黄泉はお椀の中に映りこんだ自分の顔を睨みつけた。
「殺された――のか」
祐二の声は迷いを含んでいた。誰に殺されたのかは気になった祐二だったが、それを聞くことに躊躇していたからだ。
しかし、祐二の心配をよそに、黄泉は小さく頷き、語りだした。
「わしの実の父に斬り殺された」
「――そんな」
祐二は言葉を失った。
母が目の前で殺されただけでなく、斬ったのは実の父。
黄泉の父の仕えていたお家がとり潰しとなり、仕官もままならず、黄泉の父は酒に溺れるようになったという。
「ある日、酒代もないならわしを売るという父に、母上は身をていして庇ってくれた。その母を――奴は」
黄泉の箸を持つ手は震えていた。
味噌汁の入ったお椀をちゃぶ台に置くと、黄泉は言葉を継いだ。
「あいつを殺したい、母を斬ったその刀で。そう思った時、手に刀が現れた」
その光景を見た黄泉の父は驚いたらしい。しかし、これは金になると思ったのか、黄泉の父は我が子を見せ物小屋に売った。
妖術を使う子供ということで、評判があったのだろう。暫くして見せ物小屋の主人は、黄泉を南蛮の商人に売ってしまったということだった。
黄泉はそこまで説明すると、祐二に笑顔を向ける。
「南蛮で出会った日本人にわしは引き取られた。その男こそ、わしが父と慕い、唯一惚れた男だ」
祐二はそうかと、一言漏らし、頷いた。
ここが南蛮だろうが、地獄だろうが関係ない――黄泉と初めて出会った時、彼女から聞いた言葉の意味を祐二は理解した。
祐二は見せ物小屋というのはよくわからなかったが、時代劇などで見る情報で想像すると、人をまるで動物のように扱ったりするのだろうと思った。
しかも言葉の通じない異国の地で、奴隷のように扱われていたのかもと。
重すぎる――祐二は思った。
そのような深い傷を背負った黄泉を、自分が支えることができるのかと。
傷が治るわけじゃないけど、せめて痛みくらいは――気がつけば口を開いていた。
「あ、あのさ、絵里子がさ、携帯アドレスと、番号教えてほしいってさ」
「絵里子が?」
祐二は頷いてみせる。
「ああ、その、あれだ、俺じゃ女物の下着なんてよくわかんねえし、一緒に買ってきたらどうだ?」
そういいながら、祐二は箸で黄泉の胸元を示す。
シャツが乾いたのか、さっきよりは肌が透けていない。
「サラシでも良いのだが、暑いからな――」
黄泉はふむと頷くと、味噌汁をすすった。
とくに気落ちした様子もない黄泉に、祐二はほっとした。
すっかり冷めてしまった魚の身を箸で摘む。
ほんのりとした塩味がごはんと良く合った。
美味い――そう思いながら、祐二が箸を進ませていた時だった。
「ところで――」
ぽつりと黄泉が呟いた。
「――携帯のアドるスというのはなんだ?」
祐二は思わず口の中にかき込んでいた物を、吹き出した。
「あぁ、そうか、そこから教えないといけないわけね」
面倒くせぇと、呟きながら祐二は肩を落とした。




