弐
「酒だ」
男が叫んでいた。
「おまいさん、もうこの家には酒を買う金子もないよ」
「なら、こいつを売っぱらえばいい」
男は幼子の腕を掴んだ。
「母上!」
幼子は母に向かって手を伸ばし、泣きじゃくっていた。
「おまいさん! この子だけは、この子だけは」
「うるせぇぇぇ!」
男は女を蹴飛ばすと、鯉口を切った。
「邪魔だ」
男が抜刀したした刹那、白刃が女の胸を裂いた。
「母上!?」
幼子の顔に点々と鮮血がかかった。
流れ落ちる涙が血の朱と交わり、頬を伝う。
幼子の内に宿ったのは怒り。
母の命を奪ったその刀で殺してやりたい。
その憎しみのまま、男の額に刻まれた十字傷を睨みつける。
「うあああああ――」
悲しみは消え失せ、喉から振り絞られた絶叫は、燃え盛る憎しみの炎と化していた。
「――ああああぁぁぁ!」
「うわぁ!?」
少女は目を覚ますと、跳ねるように半身を起こした。
夢かといった感じでため息をつき、周囲を見渡す。
自分が寝ていたのは布団ではなく、南蛮のベッド。南蛮の机、部屋隅には黒の四角い箱。
わしの部屋が南蛮の部屋に変わっていると思いながら、視線を動かす。
「ん?」
すると目を剥いて、口を開けた間抜けな男の姿が視界に入った。
「お主、何者だ」
「お前こそ何者だ」
二人は暫し視線を絡める。
「人の家で名を名乗らぬとは無礼な」
「ていうか、ここ俺ん家だし」
間抜け面の男の頭には髷がなく、薄い衣のようなものを纏っていることに、少女は小首を傾げた。
「髷がないとはお主、浪人か」
「誰が浪人だ! 俺は今の学校に一発合格だ!」
間抜け面の男――祐二の言葉に少女は目をぱちくりとさせる。
「すまぬが南蛮の言葉ではなく、日本の言葉で話してくれぬか?」
「はぁ?」
ふざけてんのかこいつと、祐二は内心で毒づくが、真顔で言っているところをみると、いささか心配になる。
「やっぱり病院に連れていくべきだったか」
そういいながら額を押さえ、首をうなだれる。
「黄泉――わしの名だ」
はっとして祐二は顔を上げる。
「俺は関川 祐二だ」
「ゆうじ――変わった名だ」
普通女の名前は「みよ」とかだろ! お前の名前のほうが変わってるわぁぁ! と、突っ込みたくなる衝動を必死に押さえる。
「クールだ、クールにいこうぜ、祐二」
そう呪文のように呟き、大きく深呼吸をする。
気持ちが納まったところで、よく我慢したと、自分を誉め、祐二は黄泉をみた。
そして、祐二はさっきから会話がかみ合っていないことに気づき、頭の中を整理してみる。
髷とかお主とか歴女であれば普通に使う言葉かもしれないが、南蛮の言葉というところに引っかかる。
祐二は恐る恐る口を開いた。
「あの、拙者がお主、つかぬことをうかがうが、今は何年でござ候か?」
時代劇の言葉を綺麗に真似ながら、祐二は黄泉に尋ねた。
「今は享保十年であろう?」
祐二がちょっと待てと、鞄を開け、教科書を引っ張りだした。
「享保、享保――て、江戸時代!?」
享保ってこんな字かと、ノートに書いて黄泉に見せると、小さく頷いた。
おいおいおいおい、嘘だろと、うろたえる祐二の顔面から血の気が引いていく。
「どうすりゃいい! 迷子ってことで警察に、いや、だめだ、住所が江戸だ。でも、昔ここは江戸だから、とりあえず美容院でハンバーグを配達して――」
「それはエゲレスの言葉か? なにやら楽しそうだが」
「おめぇぇのことでパニクってるんだよぉぉぉ!」
ああ、もうと、怒りのやり場を失い、祐二は頭を抱え込んだ。
黄泉はぱちくりと瞬きをすると、祐二の姿を不思議そうに眺めていた。