壱
時は江戸(1725)享保十年。
子の刻(午前零時)。
江戸、小石川にある一軒の家屋。
玄関前には、なんでも屋と書かれた看板が掲げられている。
家屋の横には小さな池があり、障子から漏れる行灯の明かりが水面に映り込み、水をより澄み渡らせていた。
家屋の一室でひたすら机に向かう女子。
名を黄泉といった。
長い黒髪は後ろで束ね、袖のない黒の着物を纏い、丈の長さは膝の上。男物の帯。
認める書状は、依頼人の亭主の不義密通を詳細に記しているようだった。
黄泉は筆を止め、天井を仰ぐ。
堅くなった首をほぐしていると、妙な物音が耳に障った。
すると、襖が開いた。
勝手口は開かぬように閉めきったはずだった。
曲者かと黄泉は勘ぐる。
明かりを消そうと、黄泉が行灯に手を掛けるより早く、男が部屋の中に滑り込んだ。
「――待て。僕はあんたを逃しにきた」
声を潜め、男は言った。
明かりに照らされる男の姿は今まで黄泉が目にしたことがない姿だった。
目元を覆い尽くすほど大きく透明な眼鏡。
髷の無い男の髪は、耳に掛かる長さで、色は茶色がかっているようだった。
黒の着物は合わせ目がなく薄い生地。
胸には赤で大きく南蛮かエゲレスかの文字が描かれていた。
下は厚手の黒い股引のように見えた。
そして男の履き物は草鞋ではなく、見たことがないもの。
強いて言えば、南蛮の靴に似ていた。
「お主、忍か?」
「答えている暇はない。僕が合図したら、あの鏡に飛び込め」
「世迷い言を――」
そう黄泉が言いかけた刹那、勝手口の方からわずかに気配を感じた。
次に押し寄せたのは、この世のものとは思えないほどの威圧感だった。
「来た!」
男が行灯を蹴飛ばす。
行灯が倒れ、畳に火の手が広がった。
朝凪のごとき静けさは過ぎ去り、それは暗影へと代わっていった。
ひたり、ひたりという音が近づくに連れ、黄泉の背筋に冷たいものが走り、全身が粟立った。
「なんだ、この感じは」
黄泉が言い終えると、襖をするりとすり抜け、そいつが姿を現した。
「悪鬼だ」
「鬼!?」
男は頷く。
赤い肌。
大人の背丈よりも一回りは大きい体。
頭には二本の突起。
一矢纏わぬ下半身は深い毛に覆われていた。
鬼は全身の筋骨を隆起させ、大きく裂けた口元から、鋭い牙を覗かせた。
確かに鬼と言うにふさわしい姿だった。
黄泉は鬼を睨みつける。
正眼に構える要領で、腕を突き出す。
瞬間、黄泉の手の平から強烈な光が放たれた。
淡い光が白夜のごとく部屋を照らした。
光が納まると、黄泉は太刀を手に、正眼に構えていた。
あれは間違いない、妖術刀――男が叫ぶ。
「気をつけろ! 鬼の攻撃は人の魂を傷つける!」
「なら都合がよい」
黄泉が笑むと同時、鬼が動いた。
野太い腕を振り上げる。
黄泉の足が畳を擦ると同時、鬼の爪が弧を描く。
黄泉が横に退き、爪が空を斬る。
目標を失った鬼の爪が畳をすり抜けた。
やはり体を持たぬ、魂だけの鬼か――黄泉は踏み込み、鬼の懐に入った。
「我が太刀が斬れる物は只一つ――」
太刀の柄は右腰、切っ先は後ろに構えられていた。
脇構えだった。
右下から斬り上げる。
「――魂のみ」
斬撃が走る。
太刀はまるで瓜を切るかのように、鬼のわき腹から胸にかけて斬り裂いた。
切り口から白い煙が立ち上った。
それはまるで切断した魂が空しく散っていくかのごとくに。
鬼の体は力を失い、燃え盛る畳の上に倒れ伏す。
倒れた鬼の体は煙と共に体が透けていき、ついに姿を消した。
「相手に先制させ、転の隙に打ち込む剣術――(柳生)新陰流か」
言い終えるや男は振り向く。
炎の向こうには、赤い影がうごめいていた。
「まだ来るぞ」
男は次に手鏡を見やった。
箪笥の上に立てかけられた手鏡だった。
男の目に映る鏡の周りは、青白い光がうっすらと輝いていた。
もうすぐ道が閉ざされる――そう思うや、男は黄泉に向かって叫んだ。
「今だ! 鏡に飛び込め!」
「お主は一体――」
黄泉がそう言いかけた瞬間、男は黄泉を鏡のある箪笥に向かって突き飛ばす。
「ぐっ!」
男の声に虚をつかれ、黄泉の体は抵抗の余地もなく箪笥に向かっていく。
「話は後だ」
箪笥にぶつかると思われた刹那、黄泉の体が手鏡に吸い込まれるように姿を消した。
天井が焼け、炭と化した柱が倒れる。
「また会える。嫌でも――」
炎は瞬く間に家屋全体を覆い尽くし、立ち上る煙は空の闇をより深くしていった。