World9-4「探偵の身の上話」
アンリミテッドビショップと遭遇した後、由乃と合流した永久は手短に事情を説明したが、流石に異世界だのアンリミテッドだのと言った話は突拍子もなさ過ぎるせいか中々飲み込んでくれず、おまけに隣にいた由愛がワーワーと騒いだせいもあって由乃に事情を把握してもらうまでに少し労力を要したが、どうにか飲み込んでもらうことが出来た。由乃は由乃で超能力犯罪やら何やらとあまり普通ではない出来事に何度も遭遇してきていたようだったが、この世界の科学では証明されていない異世界に関連する話となるとにわかには信じ難かったようで、話終わった後もまだ少し半信半疑、といった様子である。
その後も少しだけ調査を続けたが有力な情報は手に入らず、玄周を見つけ出すことも出来ないまま三人は事務所へ戻る形になった。
「うぅん、家綱……連絡くれないなぁ」
買ったばかりなのか、新品並に綺麗なスマートフォンをつつきながら、由乃は物憂げに夕暮れに染まった町を窓から眺めている。家綱を心配している、というよりは家綱がいなくて寂しい、と言った感じのその表情は、どこか恋する乙女じみている。
そんな寂しげな由乃とは対照的に永久とアントンは――
「永久サンスゴイデス! ソレデソノ巨大カツ強大ナモンスターハドウナッタノデスカー!?」
「それがねそれがね! 英輔っていう私の友達にはリンカちゃんっていう女の子の友達がいて、その二人が手を繋いでごおーってきてばあああんで雷と炎が巨大かつ強大なモンスターに大きなダメージを与えたんだよ!」
「ファーンタスティック! アンビリーバボー! 生マレテコノ方ソノヨーナ凄マジイオ話ハ聞イタコトガアリマセーン!」
「そこで私がしゅばばってジャンプしてずばーーーっ!! って!」
「オー! カッコイーデス! マルデヒーローデス!」
どうやら気が合ったのかやたらハイだった。
どこか抽象的でイマイチ要領を得ない永久の話を大はしゃぎで聞くアントンのせいで、それに気を良くした永久もまた大はしゃぎで身振り手振りを交えて話すため、事務所の中はやたらと騒がしい。由愛の姿であり得ない程きゃっきゃとはしゃぐアントンと、同じレベルではしゃぎまくる永久に対して由乃も少し呆れ気味でもうツッコミを入れようともしない。
「……もしかしたら私ってすっごいかっこいいのかも知れない!」
「ソウデス! カッコイイデス! クールンアンドビューティフル! 幼女ノ次ニ完璧デス! 幼女ナラ究極ノ生命体デス!」
「惜しいね! 私幼女だったら良かったね……惜しいね!」
「神ハ二物ヲ与エズデース……」
アントンが持ち上げまくるせいで変に調子に乗り始めてしまった永久のポケットの中で、プチ鏡子が頭を抱えていることを、永久は知る由もなかった。
そうして永久とアントンが騒いでいる間に日が落ち、アントンが纏に交代したせいで凄まじい勢いで永久が纏に言い寄られ始めた頃になってようやく、家綱と英輔(葛葉)が事務所へ戻ってくる。
「た、ただいま……」
「ただいまー」
家綱の方はかなりくたびれた様子で、着ているスーツも所々乱れていたが、葛葉の方は特に疲れた様子も見せておらず、何が楽しいのかニコニコと笑みを浮かべている。
「遅い! 何のために携帯買ったと思ってんだよ! 連絡しろよ!」
「あ、あー……そういや持ってたな、ンなモン」
そんな間の抜けたことを言いながら家綱がポケットから取り出したスマートフォンの画面には、メールの通知や電話の不在着信などが表示されており、ここに戻るまでの間に由乃がどれだけ家綱と連絡を取ろうとしていたかが伺える。
「連絡がなかったことと、遅くなったことはとりあえずいいや……。それより――」
ギロリと。由乃の鋭い視線が家綱に向けられた。
「な、なんだよ……」
ゴクリと生唾を飲み込む家綱は、由乃が何に怒っているのか理解していない様子だったが、近くで見ていた永久と纏は既に察しているらしく、纏は呆れ顔、永久は苦笑いを浮かべて家綱から視線を逸らしていた。
「なんだよお前らまで……おい……」
由乃の視線家綱の顔のある一点だけを凝視しており、流石に睨まれ続けて気づいたのか、家綱はそっと頬に手を当てた。と同時に、由乃が何に対して怒っているのかを理解して、途端に焦った顔で後ずさり始める。
「いや、あの……これは、だな……?」
その頬についていたのは、今時珍しい真っ赤なキスマークだった。
「お前な……人が心配して待ってるのに調査もしないで如何わしいお店になんて……」
「いや待て違う! 話を聞け由乃! これには深い事情があってだな!」
「すごいのよ。家綱君もてもてだったんだから!」
全く悪意のなさそうな純粋な表情で葛葉がそう言った瞬間、由乃の蹴りが家綱の脛に直撃する。
「このアホーーーっ!」
「ッてェ! 話せばわかる! 落ち着けよおい! 葛葉は余計なこと言ってんじゃねえ!」
そのまましばらく痴話喧嘩が繰り広げられ、なんとか永久が仲裁して沈静化するまでに大体十分程の時間を要した。
家綱と英輔(葛葉)とて遊んでいたわけではなく、きちんと調査は行っていた。しかし、家綱達も永久達同様一向に手がかりを見つけることが出来ず、ドッペルゲンガー事件については噂話程度しか知ることが出来ない上、高天原玄周についても詳しいことはイマイチわからずじまいのまま、ただ町をうろつくことしか出来ず途方に暮れていた。
「ねぇ家綱君、お腹空いたぁ……」
段々と空が赤らみ始め、そろそろ夕方と言った頃合いになったところで、隣で歩いていた葛葉が甘えるような声でそんなことをのたまう。しかし中身は葛葉と言えど見た目は男子高校生桧山英輔であり、またその声も年頃の男子相応の低音なのだから、家綱や周囲の人間からすればオカマか何かにしか見えないし聞こえないため、家綱としてはもう少し離れて欲しいし出来れば黙っていて欲しかった。
というかそういう趣味のない家綱にとってはちょっと気持ち悪かった。
「わかった、わかったからあんま引っ付くんじゃねぇ!」
「そんな、酷いわ家綱君……! 今日は冷たいのね……」
「『今日は』ってなんだ『今日は』って! ああクソ、今日はもう一旦帰ンぞ!」
「ダメよまだお腹が……」
「帰ったら(由乃が)なんか作ってやるから、とりあえず今は我慢しろ……ったく……」
そもそも葛葉は葛葉の身体で食べるのだから無尽蔵の胃袋足り得るのであって、今英輔の身体でいつもと同じ分だけ食べれば英輔の胃袋がはちきれてしまうのではないかという心配もある。勝手に取り憑いた挙句その身体でバカ食いして元の持ち主の胃がはち切れるようなことになれば、いよいよ葛葉も玄周の言う通り悪霊みたいなものだ。ただでさえ迷惑をかけている状態なのだから、せめて最小限には抑えたい。
「もうおなかすいたおなかすいたおなかすいたーーー!!」
「あーーーーーもううるっせえッ!」
とにかくお腹空いたと騒ぐ葛葉に怒鳴り散らしつつ、繁華街を歩く家綱だったが、突然ピタリと葛葉が足を止めた。
「ねえ家綱君」
「何だ、飯なら家まで待てって――」
「アレ行ってみましょうアレ!」
そう言って目を輝かせている葛葉が指さしていたのは、店の外で客引きをやっている一軒のオカマバーだった。
「だーから帰るっつってンだろ!」
「でもああいうお店って結構お客さんから色んな話聞いてたりして、事件のことまではわかるかどうか怪しいけど、あの変な霊能者のことくらいはわかるんじゃないかしら」
「ま、まあ一理なくもねーけどよ……」
「やだ貴方七重探偵事務所の七重家綱じゃない!? この間テレビ出てたわよねえ!?」
不意にハイなテンションで駆け寄り、すぐさま家綱の手を引いたのは先程まで店の前で客引きをやっていたオカマの一人だった。綺羅びやかな衣装を纏ってはいるが体格は良く、身長も家綱より高い。まるで威圧されているかのような感覚に陥りながらたじろぐ家綱だったが、それにも構わず彼女? は家綱の手を引っ張っていく。
「いや、あの、俺は……」
「もうやだ照れちゃってかわいい!」
勢い良くオカマに肩を叩かれて物理的に揺れる家綱を半ば強引に店の中へ連れ込んでいくオカマの後ろを、葛葉もニコニコと笑みを浮かべながらついていく。結局最後まで振り切るに振り切れなかった家綱は、そのままなし崩し的に葛葉と共にオカマバーで情報収集するはめになったのだった。
「で、そのキスマークはオカマさんにつけられたと」
一しきり怒鳴った後で落ち着いたのか、コーヒーを飲みつつ由乃がそう言うと、家綱はティッシュで必死にキスマークを取りながらおう、と短く答えた。
「……馬鹿が。連絡一つ入れるだけで解決した話だろう」
そんな家綱の隣で苦言を呈しているのは、いつの間にか葛葉と交代していたセドリックだった。
「全くですわ。こんな情けない探偵のお守りだなんて、由乃も大変ですこと」
仏頂面で紅茶を啜りつつそう言うのは先程纏と交代したばかりのロザリーである。
「……うるせえな。別にただ遊んできたわけじゃねーよ」
「じゃあ、何かわかったの!?」
永久の問いに、家綱は静かに頷く。
「まあな。事件のことと、ついでに高天原玄周とかいうインチキ霊能者のこともな」
言いつつ家綱がポケットから取り出したのは、住所と電話番号の書かれた一枚のメモだった。
「これって……」
「高天原玄周の経営する霊能事務所とかいう胡散臭ェのの住所だとよ。元々仕事で霊能者まがいのことやってる奴らしいから、うちに来たのは本当に善意かららしいな……」
やや呆れ顔でそう言った後、家綱は更に言葉を続ける。
「で、事件についてだ。どうも例のドッペルゲンガーは人造人間の類らしい。オカマバーで酔った客の一人が勢いで喋りまくったそうだ。どうにもアホ臭ェが今はこれしか手がかりがねえ」
「それで、その客の名前とかは?」
由乃の問いに、少しだけ間を置いてから家綱はゆっくりと口を開く。
「確か名前は――鯖島間黒」
鯖島間黒、その名前にピクリと反応を示したのは、意外にも永久だった。
「鯖島、間黒って……」
「何だ、知り合いか?」
家綱の問いには首を左右に振ったが、すぐに永久は口を開く。
「あの、鯖なの……? それとも鮪なの……? でもやっぱり鯖だよね? 私鯖の方が好きだし……」
「鯖じゃねえ」
ほんの少しの沈黙の後、容赦無いツッコミと共に永久の頭が家綱によって引っ叩かれた。
当然、鮪でもなかった。
罷波町の端の方に位置する林の奥には、正体不明の建物が建てられていた。元々そこには、研究所が建てられていた場所で、何らかの事故で焼けた後、焼け跡も綺麗に撤去されていたハズだったのだが、どういうわけか数日前から不意にその場所には謎の建物が姿を表していた。何か工事があったわけでもなく、何故か突然そこに姿を現したその建物だったが、人目につかない場所に存在するせいか誰もその存在には気づかないでいた。
そんな研究所の一室には、合計六つのベッドの置かれた部屋があり、そのベッド一つ一つに一人ずつ人間――否、人間らしきものが眠っている。明らかに姿形は人間のソレだったが、人間と違うのはまるでペンキでも塗りたくったかのように真っ白な肌と、髪も顔も存在しない、のっぺらぼうのような顔だった。
「いやあしかし助かったよビショップ君。君のおかげで私の研究は爆段に進歩した、うん、素晴らしい」
「いえいえ、それよりも“爆段”とは? 爆弾ではなく?」
首をかしげるフードの男――ビショップに、男はガハハと豪快に笑ってみせる。
「『爆発的かつ格段に』ということだな」
「それは……それはそれはそれはそれは存じ上げませんでしたな。長く生きたところで物を知らなければ価値はありません。一つ、勉強させていただきましたな」
わざとらしく一礼するビショップに気を良くしたのか、男は更に声高に笑い声を上げる。
「君の用意してくれたこの研究所と“欠片”のおかげで我が人造人間研究は最早成功したと言っても過言ではない。この鯖島間黒が、君に対して心からの感謝を贈ろうじゃあないか!」
「これはこれは光栄な。このビショップ、褒められ慣れておりませぬ故、やや気恥ずかしく思います」
言いつつも、ビショップはフードの奥で嘲るような笑みを浮かべていた。
そもそも、間黒の行った人造人間の生成は成功してなどいない。アレは間黒が寝ている間にビショップが人造人間の失敗作とすり替えておいた魔導人形に過ぎない。ビショップの魔力で動かす簡素なゴーレムに、アンリミテッドクイーンのばら撒いた欠片を埋め込むことで他者へ変化し、他者を学習する能力や、本来のゴーレムより高い身体能力を持っているに過ぎず、間黒自身は何もしていないに等しい。
これらは全て、ビショップがアンリミテッドクイーンを誘き寄せるために用意した餌でしかなかった。
「君程のものが褒められ慣れておらんとはな! 君や私のような優秀な人材に目を向けぬなど、この社会が腐っておる証拠よのぅ……」
――――楽しみにしていますよクイーン……。
そう心の内で呟いて、ビショップは間黒の言葉に対して適当に相槌を打った。
結局あれから由愛と英輔が元に戻ることは一度もなく、二人共別の人格のまま眠り込んでしまっていた。永久達は七重探偵事務所に泊めてもらうことになったが寝るスペースが足りず、家綱は事務所のデスクで、由乃はソファで眠り、上の階にある生活スペースのベッドでは永久と由愛、そして英輔が眠ることになっていたが、どうにも寝付けなかった永久は事務所の外で特に何をするでもなくボンヤリと月を眺めていた。
町の中にはまだ、ビショップの気配が残っている。同時に欠片の気配もいくつか感じられるが、欠片よりもビショップのことが気になって仕方がないというのが正直なところだった。
刹那、ポーンに加えてビショップ。そして正体のわからない“王”と呼ばれる存在。薄々察してはいたものの、やはり裏で刹那が一枚噛んでいるらしく、どうしようもない焦燥感ばかりが募っていく。
「恐らく……他のアンリミテッドの封印を解いて回っているのは――」
「刹那だね」
永久の肩でそう言いかけたプチ鏡子の語を継ぐようにそう言って、永久はプチ鏡子へ視線を向ける。
「私……わからないよ。お姉ちゃんのハズなんだけど、刹那のこと……何もわからない。一体何をするつもりなんだろ……」
アンリミテッドクイーンとして覚醒し、記憶を取り戻しているであろう刹那の目的が、永久には見えない。これまで刹那を止めなければならない、欠片による被害から他の世界を救わなければならない、そんな風に旅を続けていたが、結局刹那の目的は未だに判明しないし、永久の記憶も徐々に戻ってきてはいるものの決定的な部分は思い出すことが出来ないでいる。
――――同じ、『私』なのに。
永久も刹那も、元はアンリミテッドクイーンと呼ばれる一つの存在だ。それが封印の影響で二つに分かれ、バラバラに復活した結果が永久と刹那だというのに、元は自分であったハズの刹那のことが、永久には理解出来ない。
前に戦った時、まるで愉しんでいるかのように目の前で殺戮を繰り返した刹那が、自分と同じ存在だなどとは思いたくなかったし、永久にはあんな真似は出来ない。
「やっぱり怖いよ……。私の過去も、刹那のことも」
そう言って顔を俯かせる永久に、プチ鏡子は何も言葉をかけることが出来なかった。
この純粋で優しい少女に科せられた運命が、どれだけ過酷であるか、想像しただけでも辛くなる。過去からの重責を、同じ自分である刹那という存在を、アンリミテッドクイーンとしての自分を、一遍に背負うにはこの少女の肩はあまりにも華奢で小さかった。
「永久……」
かける言葉が見つからずに戸惑っている間に事務所の方から物音が聞こえ、慌ててプチ鏡子は永久のポケットの中に潜り込む。永久のことはある程度由乃に話してあるものの、プチ鏡子についてまでは説明していない。
「よう」
不意に背後から聞こえた声に振り返ると、そこにいたのはデスクで眠っているハズの家綱だった。トレードマークであるソフト帽は外しているようで、ややはね気味の髪が夜風になびいている。デスクで居眠りしていたり頬にキスマークをつけて帰ってきたりと情けない一面ばかり見てきた永久だったが、こうして見ると端正な顔立ちをした好青年という風にも見える。異様に丈の長いトレンチコートを着込んでおり、まるで父親のコートを着込んだ子供のようだった。
「寝付けねえのか」
「うん、まあ……」
そう答えた永久の隣に、そっと立ち、先程までの永久と同じように家綱も月を見上げる。雲に半分程隠れた三日月を見つめつつ、家綱はポケットからタバコ一箱とライター取り出し、一本口に咥えながら永久へ視線を向ける。
「煙、苦手か?」
「ううん、大丈夫だよ」
「そうかい」
そう答えてタバコに火をつけると、家綱は再び月に視線を戻しつつ一服し……
「ゲホッ……なんッじゃこりゃあッ!」
むせた。
「吸えるかこんなモン!」
逆ギレしながらタバコを地面に叩きつけ、まるで親の仇であるかのように踏み潰して火を消した後、家綱は小さく溜め息を吐いた。
「格好だけ付けようったってそうはいかねえか……」
そう言って、家綱はタバコとライターをコートのポケットの中へ突っ込む。
「なあアンタ、記憶喪失なんだってな。由乃から一通り聞いてるぜ」
「うん、まあ……」
「怖ぇよな、自分が何なのかわかんねえってのは」
まるで何かを懐かしむかのようにそう言って、家綱はどこか遠くを見ているような表情を見せる。
「俺もな、昔そんな時期があった。つっても元々俺には昔の記憶なんざなかった、そもそも人ですらなかった……」
「人ですら、なかった……?」
「ああ。考えても見ろよ、今でこそ俺一人になっちまってるが、一つの身体に七つの人格、おまけに人格ごとに姿が変わるときてんだ、ンな人間がいるわきゃねーわな」
人ではない。それは永久も同じだ、アンリミテッドクイーンと呼ばれる不死の存在が二つに分かれた片割れで、コアと呼ばれる物質によって身体を維持する人ならざる超常の存在。そう考えると、永久と家綱の境遇はどこか似ているように思えた。
「イカレた科学者の作った生体兵器のサンプル。そりゃ過去なんてあるわけがねえ……。そもそも俺には、取り戻せる過去さえ存在しなかった」
取り戻せる過去が存在しない。それは今の自分を形作ってきたものが存在しないということだ。それがどういうことなのか永久にはわからなかったし、取り戻せる過去がある永久にはわかるハズもなかったが、酷く悲しいことだということはなんとなく理解出来た。
「そんな悲しそうな顔すんじゃねえよ。俺は嘆いちゃいねえ」
「でも生体兵器だなんて、悲しすぎない……? そんなこと、知らない方が良かったって、思わない?」
「思うさ。けどな」
そこで一度言葉を切り、少しだけ間を置いてから家綱はまっすぐに永久へ視線を向けた。
「俺には“今”がある。まともな過去はねえが、未来はある。過去はこれから作りゃ良い、そう思わねえか?」
それは真っ直ぐで、どこまでも前向きな言葉だった。過去を嘆くよりも今を、未来を生きようとするそんな言葉だ。この七重家綱という男のこれまでの人生に、何があったかなんて永久にはわからない。だけれども、様々なことを乗り越えて、受け入れて、それでも尚前に進もうとする家綱の意志だけは、永久にだってハッキリと理解出来た。
強いと思う。過去を恐れ、刹那を恐れる永久なんかよりも、ずっと。
「アンタの過去がどんなモンかは知らねえが、今のアンタは今のアンタだ。今のアンタには、今のアンタの“今”と、“未来”がある」
そこまで喋ってから、家綱は不意におっと、と一度口をつぐんでから永久へ背を向けた。
「悪いな、どーもおっさんの身の上話と説教に突き合わせちまったみたいで」
「……ううん、ありがとう」
そう答えた永久の顔は、もう俯いてはいない。どこか先程よりも晴れやかな表情を浮かべている。そんな永久の様子を知ってか知らずか、家綱は背を向けたまま笑みを浮かべた。
「悩んでるように見えたんでな。見当違いのこと言ってたようなら忘れてくれや」
「そんなことないよ。これでもう、眠れるかも知れない」
「そうかい、そいつは良かった」
振り返らないまま手を振って見せた後、家綱はそのまま事務所の中へと帰って行く。その大きな背中をしばらく見つめた後、永久はもう一度月を見上げた。
永久の今、そして未来。わからない過去は、自分の知らない自分のことが怖くてたまらないのは変わらない。けれど、それ以前に今の永久には今があって、そしてこの先がある。あの七重家綱という男のように、とはいかないまでも、もっと前を見た方が気持ちが良いのかも知れない。
過去はいつか受け入れなければならない。それが例えどんなに重かったとしても。だけどその時、今と、未来があることを忘れないでいたい。
「……寝よっか!」
誰に言うでもなくそう言って、事務所の方へと戻っていく永久を、雲の晴れた三日月が照らしていた。