World8-3「昔もきっと、そんな風に生きていた」
気だるげに欠伸などしつつ、英輔は図書館の入り口に立っていた。時刻は既に午前十時を過ぎており、九時に開館する図書館の中にはちらほらと人の姿が見受けられる。
容赦なく照りつけてくる太陽を入り口の屋根で避けながら、この世界は夏が近いのか、などとどうでも良いことをぼんやりと考える。こうして暑さを感じる分には鬱陶しいことこの上ないが、感じない、ということはどうなのだろうと時々思う。先日出会った少女に関してもそうだし、体質上英輔は今まで幾度か実体を持たない霊の類に遭遇している。肉体が滅び、実体を失った彼らにとってきっと暑さや寒さはもう関係のないものなのだろうから、長くそのままでい続けると暑さや寒さですら恋しくなるのだろうか。感じないということは、寂しいことだ。それまで感じることが出来ていて、その感覚を覚えているのであれば尚更、それは寂しいことであるように思う。感じなくなった経験なんて英輔にはなかったけれど、感じなくなるとしたら? そう考えるだけで何かもの寂しい。
感じなくなるだとか、忘れられてしまうだとか、そんな何かが消えてしまうようなことは、悲しい。もし永久達の言う通り、英輔の出会った少女が西原詩帆であって、今尚肉体が眠り続けているのなら、早く何とかしてやりたかった。眠り続けて、いつか誰もが彼女のことを忘れてしまったり、彼女が肉体の感覚を忘れてしまって、暑いのも、寒いのも忘れてしまったり、そんな風になってしまうのは嫌だった。
忘れられてしまう寂しさを、英輔はよく知っている。まるで父親に忘れ去られていたかのような感覚を、勘違いではあったけれどついこの間まで感じていたのだから。
彼女を、西原詩帆を、誰からも忘れさせはしない。まだ一度しか出会ったことのない少女だったが、あの時の、目に涙をためていた彼女の顔は忘れない。
きっと彼女は、世界から忘れ去られたかのような感覚を、ずっと一人で感じ続けていたのだろう。
「……あっ……」
取り留めのない独房的な思考の中に、少女の存在が差し込んだ。
この照りつける太陽の中、採れたての果実でも思わせるかのような爽やかな様子で、少女は英輔の数メートル先から英輔を見つめていた。
彼女が採れたてなら、英輔はシュガースポットの増えたバナナみたいなものだろうか。ジワリと汗をかいている英輔とは対照的に、前に見た時と寸分違わぬ姿で現れた彼女からは時間の経過が感じられなかった。
「ここにいれば、会えるかと思って」
小さく微笑んだ英輔に、少女は――詩帆は恥ずかしそうに顔をうつむかせながらアスファルトに向かって口を開く。
「その、危ないです……私の、傍にいると……」
「君のせいって証拠はまだないんだし、俺は俺の意志で君に会いに来たんだから、何かあったとしても俺の責任だろ?」
茶化すように笑みをこぼして、英輔は詩帆の方へゆっくりと歩み寄った。
「俺は桧山英輔。まだ名前言ってなかったよな?」
「あ、はい……。その、私は……西原です、西原詩帆……」
やっぱりな、と言いかけた口をつぐむ。
「本、好きなのか? 昨日もこの辺りにいたけど……」
「すごく好きなんですけど、ほら、今私ページもめくれないし……中にいても人の読んでるもの盗み見るくらいしか出来ないんです……。なのにどうしても来てしまって……」
誤魔化すように詩帆は笑ったが、誤魔化し切れなかったものが彼女の瞳を翳らせる。
「何かどうしても読みたい本とかあるのか?」
「はい、その、『忘却のローズマリー』っていう小説なんですけど、それが昔からとても好きなんです。記憶障害で新しいことを覚えることの出来ない少女の恋の話なんですけど――」
急に歯切れ良く喋り始めた後、詩帆はあ、と小さく声を上げて右手で口元を抑えた。
「えっと、その、ごめんなさい……つい……」
「行こうぜ」
「えっ?」
不意にそう言って、図書館の中へ入ろうとする英輔に、詩帆は戸惑いの声を上げる。
「借りに。ページは俺がめくれば良いんじゃねえの? 俺も読んでみたいしさ」
振り向いて英輔がそう言うと、翳っていた詩帆の瞳が、少しだけ明るくなったような気がした。
「へー、なんか良い雰囲気だねー」
「そう? 単に英輔のバカがいつもよりスカしてるだけだと思うんけど」
英輔と詩帆のやり取りを物陰がら見守る――というより覗き見していたのは永久と由愛の二人だった。どこか楽しそうに二人を見つめていた永久とは対照的に、由愛の方は大して面白くなさそうな表情を浮かべていた。
「そうかな、ちょっとかっこ良かったと思うけど」
「あら惚れた?」
「うーん……あんまり興味ないかも」
唇に指を当て、少しだけ考えるような素振りを見せたが、永久は冗談っぽくそう言って笑みをこぼした。
「英輔に?」
「英輔にっていうよりは……好きとか、そういうのに」
そもそも、そんなことは一度も考えたことがなかった。アンリミテッドクイーンとして生きていた頃の記憶はまだ戻っていないため、その時どうだったかはわからないが、少なくとも坂崎神社で坂崎永久として生活し始めてから今日に至るまでの間、恋愛事に対して何かしら興味を示した覚えがない。刹那の方はどうだか知らないが、永久も刹那も告白こそされるものの、それらすべてを何らかの方法で避けていた。
どうにも恋人だとかそう言ったものをイメージし辛い。たまに想像しようとすることはあっても、うまく誰かと恋人になっている自分を想像出来なかった。
そんなことをしている場合ではない、そう思う。
誰それが好きだとか、誰かと一緒にいたいだとか、そんなことを考えている場合ではない、そう思ったところでいつもイメージはかき消される。自分にはなすべきことがあり、その為に戦わねばならない、その為に生きねばならない。欠片を集めるために、刹那を止めるために、そのために歩き続けなければならない。恋人だとか、そう言ったものにうつつを抜かして足を止めている余裕は、ない。
昔もきっと、そんな風に生きていた。
「……永久?」
赤い瞳が、下から永久の顔を覗き込んでいた。
「え、何?」
「何? じゃないわよ、ボーっとして……。どう? あの詩帆って子から欠片の力は感じた?」
「薄っすらとは感じるんだけど、あの子が使ってるって感じはやっぱりしないかなぁ……」
英輔の話を聞く感じでは、詩帆が欠片の力を使って何かしようとしているようには感じなかったし、実際こうして近づいてみれば詩帆が欠片を持っているという感覚はない。となると、詩帆以外の何かが欠片の力を使って詩帆を昏睡状態にしている、と推測出来るが今のところその何かが尻尾を出す気配はなかった。
「英輔の話だと、昨日はポルターガイストみたいに自転車とか飛んできたらしいし、英輔とあの子がずっと接触してればまた何かあると思うんだけど……」
言葉を言い切らない内に、永久は不意に突き刺されるような殺気を感じて後ろを振り返った。
「――っ!」
「ご無沙汰だなァ! えェ……おいッ!」
永久の背後にいたのは、一人の男だった。永久が振り向いた瞬間には何も持っていなかったハズだったが、いつの間にかその細い両手には短剣が一本ずつ逆手に握られていた。
閃光のような一閃が永久に襲いかかるが、すかさずショートソードを出現させた永久は間一髪でその短剣を防ぎ、押し返すようにショートソードを振り抜いた。
男はショートソードの力に逆らおうとせず、弾かれるままに短剣を引いてそのままバックステップで永久と距離を取り、ニヤリと笑みを浮かべた。
「ご無沙汰……?」
「腕は鈍ってねェようだな……アンリミテッドクイーン……ッ」
そのアンリミテッドクイーンという単語に、その場にいた全員が反応を示す。永久の制服のポケットの中に身を潜めていたプチ鏡子も思わず顔を出し、永久の目の前で短剣を構えている男を凝視する。
「おいおいまさかホントに忘れちまったてェーのかよォ~~ッ!? 寂しいぜェ~~ッ」
ぶち壊しだぜェ~などと呟きながら、男はゆっくりと永久へと歩み寄ってくる。その手には既に短剣は握られておらず、先程まで永久へ向けられていた殺意も今はあまり感じられない。
「なァ、頼むわ。ホンットテンション下がっから、きちっと思い出してくんね?」
ポン、と永久の肩に手が置かれる。そのあまりにも馴れ馴れしい態度に不快感を覚えなくもなかったが、今はそれよりも、体内で下から虫が這い上がってくるかのような気持ち悪さをどうにか拭おうとすることに必死だった。
「ホント勘弁してくれよ……」
「――永久っ!」
気づいた由愛が声を上げた頃には既に、永久の腹部には短剣が突き立てられていた。
「えっ……は……っ……?」
血と共に流れ落ちた困惑が、ピチャリと音を立ててアスファルトへ滴った。
「その油断しまくりな所もよォ~~~~ッ! 全ッ然変わらねェよなァァ~~~~ッ! アンリミテッドクッイィィィィィンッ」
下卑た笑いを高らかに上げるその男の顔を、永久は苦痛と困惑で彩られた瞳で見つめることしか出来ずにいた。
「こっ……のっ!」
すかさず、由愛は右手をかざして男に対して黒弾を飛ばしたが、男は後ろへ飛び跳ねながら短剣でそれを弾き、ニヤリと笑みを浮かべる。
「おう小娘、今の顔は良い、中々良い! イイネ!」
「馬鹿にしてっ!」
再び黒弾を飛ばそうと由愛は男を強く睨みつけたが、永久の右手がそれを制止した。
「あな……たは……アンリミテッド……?」
「そうだと言ったらァ?」
嘲るような調子で放たれた男の言葉。その瞬間、永久は男へ鋭い視線を向けた。
ゾクリと。怖気。それを感じたのは男ではなく、隣にいた由愛だった。
まるで別人のような雰囲気を醸し出し始めた永久に、由愛は恐怖を感じずにはいられない。姿形はいつもの永久と変わりないハズなのに、中身だけがそっくりそのまま別の人物に変わってしまったのではないかと考えてしまうくらい、今の永久は違っていた。
「だったら貴方は、殺さないといけない」
「思い出してくれたかい?」
男の問いに、永久は答えない。その変わりとでも言わんばかりに永久の身体は眩い光を発し始め、次の瞬間には男の目の前まで肉薄していた。
「超イイネッ!」
瞬間、二本のショーテルがほぼ同時とでも言わんばかりの速度で男へと叩き込まれたが、男は素早く二本の短剣でそれを防ぐ。そしてその次の瞬間には、高速で動き始めた二人の姿は由愛の視界からほとんど消えてしまっていた。
「何……あれ……」
何か得体の知れないものに対する恐ろしさ。それはあの謎の男からも感じられるのだが、由愛にとって何より恐ろしかったのは、今まで一緒に他愛のない話をしていたあの永久が、あの男に勝るとも劣らない「得体の知れなさ」を由愛に感じさせたことだった。
「最ッッッ高ォだぜェ~~~ッ!」
凄まじい勢いでぶつかり合う二つの影の中から、男の悦に浸った声が響き渡る。続いて聞こえる狂ったような笑い声は、ただでさえ怯えていた由愛を更に怯えさせた。
「一体……何が……」
由愛が呟いた――その時だった。
「そこまでです」
落ち着いた調子の言葉と共に、由愛のすぐ傍に裂け目が出現し、中からゆっくりと一人の女性――下美奈子が姿を現し、静かに銃を構えた。
「美奈子さん……っ!?」
切り合いをやめ、通常の速度に戻った永久は男から距離を取ると美奈子へ視線を向ける。
「調停官か」
大して面白くもなさそうな男の言葉に、美奈子は答えない。ただただ冷えた視線と重厚を向けているだけだった。
「動かないで下さいアンリミテッド。一歩でも動けば魔弾を撃ち込みます」
「萎えるんだよなぁ……そういうのよォ~~~~ッ! 『私達が正義です』みてェな面してよォ~~~~~ッ! ムカつくぜッ! クソッ!」
そう言って気に入らなさそうに右足を地面に叩きつけた瞬間、男の姿はその場から掻き消えた。
「――っ!」
すかさず永久もその場から姿を消し、次の瞬間には美奈子の目の前で男の短剣をショーテルで防ぐ永久の姿があった。
「速過ぎる……っ」
「はァ~~~~~~~……萎えたぜ。やめだやめ」
男はショーテルに弾かれるようにして永久から距離を取ると、その両手から短剣を消し、戦意がないことをアピールするかのように両手を上へ上げた。
「じゃあな、また会おうぜアンリミテッドクイーン」
「――待ちなさいっ!」
美奈子の止める声に答えもせず、男は空間の裂け目を出現させると、すぐにその中へと消えて行ってしまった。