World8-1「窓際のローズマリーが揺れる」
不安そうに、少女は長い黒髪をなでる。隣で運転している男は如何にも上機嫌、と言った感じだったが、助手席の少女の表情は男とはうってかわって暗かった。
状況としてはカップルのドライブデート、といった様子なのだが、楽しそうなのはドライバーの男だけで、少女の方は不安そうな表情のまま、癖なのかしきりに髪をなでている。
「ピカピカの新車なんだ。それに僕の運転が良いハズだから、助手席すごく気持ち良いと思うんだけど、どうかな?」
「……あの、新免マーク、どうして外しちゃったんですか……?」
男が気持ち良さそうにハンドルを切る隣で、少女が不安げに顔をうつむかせたままそう問うと、男はムッとした表情を見せる。
あ、まずいな。と少女が気づいた時には既に、男の口が不愉快そうに開かれた。
「どうしてって、僕にあんな恥ずかしいマークは必要なのかな」
「……決まり、です……」
顔をうつむかせたまま少女がそう答えると、男は更に表情をしかめる。心なしかハンドルの切り方も荒くなっており、カーブの曲がり方も雑になっている。男の方は出発前から少しも気にしていない様子だったが、この道は事故の多い峠として有名で、誰も使いたがらない。少女が地図で確認した所、この道をわざわざ使って行かなければならない場所はほとんどなく、そのせいかあまり整備されていないようで、ガードレールは錆びてボロボロに見える。危険なのは明白だったが、あえて男がこの道を選んだのは、自分の運転技術を誇示するためなのだろうか。
場所がこの峠であろうがなかろうが、そもそも少女はこの男に対して好意的な感情を持っていない。気が弱いせいで強引な男の要求を断り切れず、半ば無理矢理に少女はこの助手席に乗せられている。
車体が揺れる度に不安が掻き立てられ、今にも悲鳴を上げそうになる。男の運転は確かに上手い方だと思えたが、少女が口答えしたのが気に入らなかったのか、機嫌を損ねてしまってからの彼の運転はあまりにも雑で、とても教習所を出て数ヶ月経つ者の運転とは思えなかった。
黙っておけば男が気を悪くすることもなかったのだろうが、どうしても規則違反が気になってしまい、ついつい口出ししてしまった結果がこれだった。言うんじゃなかったと後で反省してしまうであろうことは少し考えればわかることだったが、どうしても言わずにいられないくらいには、少女は規則に対して従順だった。
「決まり決まりってね、僕の運転はもうゴールド免許並みだ。何せ僕は今までただの一度も事故を起こしたことはないし、起きそうになったこともない。その上教習所ではどの教官だって僕をべた褒めしたものさ。いるのかな、新免マーク」
「免許を取ってから一年は、つけないと……」
唐突に、クラクションが鳴らされる。
その音に肩をビクつかせる少女に見向きもせず、男はハンドル中央のクラクションの上でブルブルと左手を震わせていた。
「僕の運転は問題ないって言ってるだろ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
竦んで震えた声でそう繰り返す少女だったが、男の方は憤懣やるかたないとでも言わんばかりの表情を浮かべたまま、睨むようにしてフロントガラスを見つめている。
「残念だな、もっと楽しんでもらえると思ってた」
「ごめんなさい……」
「謝れば良いってモンじゃない、折角の休日にこんな気分になった僕の気持ちはどうしてくれる」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
男の視線が、フロントガラスから少女へ瞬時に移る。ハンドルを握らなければなないハズの手が少女の胸ぐらを掴んだ時点で、少女はヤバい、と直感した。
「それしか言えないのか君は! うるさいな!」
「あ、あああ……あのっ前っ!」
少女が前を指差した時には既に、車は勢い良くガードレールに突っ込んでいた。
「え、あの、えっと……その……?」
ただただ困惑を表情に浮かべたまま戸惑う英輔の胸に顔を埋めたまま、少女は小刻みに震えていた。何がどうなって、どうして今こんな状況に陥っているのか、英輔には微塵も理解出来なかったが、とりあえずただ事でないことだけは確かだった。
「ど、どうか……しましたか……?」
どこか上ずった調子で出た言葉はどういうわけか敬語になっており、それだけで英輔の困惑具合は十分に察することが出来る。
「み、み……」
「……み?」
胸に埋もれたまま、くぐもった声で紡がれた彼女の言葉を、英輔は上ずったままの声で繰り返す。
「みつけ……」
不意にガバリと、少女が顔を上げて真っ直ぐに英輔へ視線を向けた。
「見つけてくれて、ありがとうございます!」
英輔の頭上に浮かんでいたクエスチョンマークの数が、今ので大体二倍くらいになった。
英輔が永久達と共にこの世界に到着してから、まだ一時間と経過していない。まずは欠片の手がかりを見つけるため、町の中を二手に分かれて探索することになったのだが、由愛たっての要望で英輔は一人で探索、残りの二人が組んで探索、という形になった、というよりは半ば強引にされた、と言った方が正しい。どうやら前の世界で英輔に放ったらかされたことが原因ではぐれてしまったことを根に持っているらしく、アンタとは絶対組まない、と突っぱねられてしまった英輔は一人で探索する羽目になったのだった。
探索とは言え、頼りになるのは欠片を探知出来る永久だけなのだから、実質英輔が一人で行動する必要はまるでない。もうとにかく由愛が英輔を別行動させたがるのでやや不貞気味にぶらぶらとあてもなく歩き回り、たまたま見つけた図書館で一休みしようとしたところ、現在英輔の目の前ですすり泣いている少女に出会ったのだった。
徐々に日も暮れつつある夕方の図書館は閉館直前で、英輔と少女のいる入り口周辺には誰もいない。
仮に誰かいたところで、恐らく誰もこのすすり泣く少女のことは気に留めないだろう。いや、正確には“気に留めることが出来ない”と言った方が適切だった。
長い黒髪にセーラー服、ちょっと高めの身長など、セーラー服のデザインや色こそ違うものの永久を彷彿とさせる容姿だったが、顔はそれ程似ているわけではない。永久もこの少女も綺麗系の顔立ちだが、この少女の方がやや幼めの顔立ちに見える。美少女の部類に入る彼女ではあるが、比較的「一般的な」少女に見える彼女の異常さに、英輔は一目で気付くことが出来た。
この少女は、既に死んでいる。
「……落ち着いたか?」
すすり泣きが止んだのを見計らって英輔がそう問うと、少女は小さく頷いた。
今この場で“他の人には見えない”彼女と会話をするのはまずいと判断した英輔は、一先ず少女を連れて人気のない場所を探すことを決めた。
「ねえ、やっぱり英輔と合流した方が良いんじゃない?」
苦笑しつつ永久はそう言うが、由愛の方は嫌の一点張りで、英輔と永久達が合流するのはもう少し後のことになりそうだった。
永久のアンリミテッドとしての力は最初の頃に比べるとかなり戻ってきており、前は欠片の力を誰かが使わない限り探知することが出来なかったが、前の世界では欠片を持った人間が近づいただけで、その人間が欠片を持っていることを察知することが出来たし、この世界に来た時点で、はっきりとこの町のどこかに欠片があることを確信出来る辺り、刹那から奪い取った欠片の塊は相当な量だったのだろうことが察せられる。
「別に良いじゃない合流しなくたって。私達だけで見つけちゃえば」
「そうやってすぐ意地張るんだから……」
やや呆れた様子で永久はそう言ったが、由愛の方はまだ英輔と合流するつもりはないらしい。
永久達のいる場所は私立蘿蔔学園という名前の高校の正門の前で、部活帰りの生徒達が見慣れない制服の永久をチラチラと見ながら帰路に着いている。
「で、どうなの永久? 欠片のこと感じる?」
「うーん、この学校からはあんまり……」
「そ。じゃあ別のとこ行きましょ」
そう言ってそっけなく由愛が蘿蔔学園に背を向けると、それにならうようにして永久も蘿蔔学園から背を向け、その場を立ち去ろうとした――その時だった。
「待ってくれ、西原!」
「えっ――」
唐突に後ろからそう声をかけられ、永久が振り向いた先にいたのは、一人の少年だった。
「西……原……?」
少年は既に永久のすぐ傍まで駆け寄ってきており、永久の両肩を両手で掴むと、顔をうつむかせて良かった、と繰り返し始めた。困惑する永久へ周囲の視線は一斉に集まっており、それが更に永久の困惑を加速させた。
「え、あの……えっ……?」
「良かった、目が覚めたんだな……!」
必死に涙をこらえながらそう言った少年の瞳が、真っ直ぐに永久を見据えた。
夕暮れをバックに、開け放たれた窓から吹き込んだ風で窓際のローズマリーが揺れる。その様子をチラリと見た後、風にお下げ髪を揺らしながら少女は、真っ白なベッドで眠る黒髪の少女へ目を向けた。
その安らかな寝顔を、いつからこうして毎日のように見に来るようになったのだろう。
それ程日は経ってないハズなのに、何故だかそれが途方もなく昔のことのように思えてしまう。
「詩帆姉、どんな夢を見てるの……?」
そう言って目を伏せて、少女はそっと詩帆の……西原詩帆の手を握った。