World7-5「Fool」
シルフィアが捕まってから、ニシルは必死で森の中を駆けまわった。恐らくあのままだとミラル達も捕まってしまうだろう。しかしチリーが見つかったところで状況が打開出来るわけではない、ミラル達のために領主に捕まれと言いたいわけでもない、ただ、助けが欲しかったのかも知れない。
今からチリーに会って、なんて言えば良いのか、すぐにはわからなかった。助けて欲しかったけど、チリーに助けを頼むということは、チリーに人とは違う大きな力があるということを再認識させることに他ならない。助けてくれ、(お前は人と違う化け物で力があるから)お前の力で僕達を助けてくれと、そう言うのか。
違う、そうじゃない。ニシルがチリーに伝えたいことは、きっとそんなことじゃない。もっと単純で、がむしゃらな、ちょっと口に出すのは恥ずかしい気持ちだ。
助けが欲しい、それは嘘じゃないし今もそう思う。チリーの力があればなんとか出来る、そんな確信があるわけではなかったけれど、この事態はニシル一人で抱え込むにはあまりにも大き過ぎた。
友達だ、だからこそ会いたい。大変な時だからこそ、その顔が見たいし声だって聞きたい。一人じゃどうにも出来ないから、二人の力で何とかしたい。それはチリーに力があるからじゃなくて、ニシルにとってチリーが大切な友達だからこそそう思う。チリーが化け物かどうかなんて最初から関係なくて、ニシルはチリーがチリーだからこそ頼りたかった。
人か否かなんて、チリーがチリーであるかということに比べれば本当に瑣末なことだと思えた。
そうしてがむしゃらに駆けまわったニシルが見つけたのは、一軒の小屋だった。その小屋の中に、チリーが住んでいるという確証はどこにもなく、そもそも人が住んでいるかどうかさえ怪しかった。だけどそれでも、ニシルの直感が告げていた――きっとここにチリーがいる、と。
どうやってここに辿り着いたのかもわからない。ただ取り留めもないことを考えながらがむしゃらに駆け回ってこの小屋を見つけたことを、奇跡以外に何と呼べようか。もしこの世に神様がいるのだとして、本当にこの中にチリーがいるのだとしたら、心から神様に感謝したい、そう思えた。
「ハァ……ハッ……ハァ……見つけ、た……」
しばらく肩で息をして、少し呼吸を整えてから、ニシルは思い切り息を深く吸い込み、一瞬間を置いてから一気に吸った空気と一緒に言葉を吐き出した。
「チリー! ついに見つけたぞ! いるんだろ!? 出てこーいッ!」
しんとした静寂が降り注ぐ。もしかしたらチリーはおろか本当に小屋の中には誰もいないんじゃないかと不安にもなったが、簡単に諦めるわけにはいかなかったし、諦めるつもりなどニシルには最初からなかった。
呼び続けてやる。喉がカラカラになったって、ボロボロになったって呼び続けてやる。お前はお前だから、化け物かなんて関係ないから、一緒にいたいんだって、伝わるまで大声で叫び続けてやる。そう思った頃には、既に次の言葉が喉から出始めていた。
不意に聞こえた大声に、由愛は肩をびくつかせる。その正面では、チリーが目を丸くさせて硬直していた。
「い、今のって……」
「に、ニシル……アイツ何で……」
唐突に聞こえた懐かしい声に戸惑っている間に、小屋の外から再び声が投げ込まれる。
「シルフィアおばさんが大変なんだ! 多分ミラルも捕まってる! チリー!」
声に、チリーは答えない。
まるで聞こえないフリでもするかのように、チリーは入り口のドアへ背を向けていた。
今更どんな顔して会えば良いのか、わからなかった。
「ちょっとアンタ、何で無視してんのよ!」
由愛の言葉にも答えず、ただチリーは目を背けたまま小屋の壁を見つめていた。
「アンタの友達が大変なんでしょ!? ねえってば!」
「うるせぇ!」
机をバンと叩きながら語気を荒げ、チリーは顔をうつむかせる。
「関係、ねェ……。あそこは俺の、居場所じゃねェ……」
くぐもった声が、床に落ちた。
あそこは俺の居場所じゃない。何度もそう言い聞かせた。関係ない、そう思わなければまた傷つくだけだと思えた。ニシルやミラルは、人間だ。そんな二人の中に化け物の自分が入り込むなんて馬鹿げている。化け物である自分は疎まれる存在だから、そんなことに二人を巻き込みたくなかった。けれどそれはきっと建前で、本当は傷つきたくないだけだった。人里に戻れば、またきっとチリーは傷つくだろう。化け物だと疎まれ、恐れられ、もしかしたら島から追い出されるかも知れない。それを考えると身震いする程怖かったし、いずれはニシルやミラルにも恐れられるかも知れない……何よりそれが怖かった。
自分の中にある力が、自分にだってコントロール出来る自信がない。その力がいつか、関係のない誰かを傷つけるかも知れなかった。
怖い、怖いと、恐れるばかりの心がチリーを締め付け続けた。
「顔、あげなさい」
何も答えようとしないチリーに、由愛はいいからあげなさい、と静かに急かす。数瞬間を置いて、チリーが渋々と顔を上げた瞬間、その頬に由愛の平手打ちが飛んだ。
「……ッ……ッッ!?」
パシンと乾いた音がして、しばらくチリーは何をされたのかわからないような顔をしていたが、やがてその目は強く由愛を睨みつける。
「何しやがんだテメエッ!?」
「いい加減にしなさいよこのバカ!」
バカという言葉にカッとなったのか、チリーは机から身を乗り出して由愛の胸ぐらを掴み上げ、ギロリとその赤い瞳を睨みつけた。
「もう一回言ってみやがれッ!」
「何度だって言ってやるわよ! アンタはバカ! それも大バカよ!」
「ンのやろッ……!」
思わず、チリーは拳を振り上げたが、それに対して由愛は怯えるどころか避けたり防いだりしようとする動作すら見せなかった。
振り上げられたのは、化け物の拳だ。これが怖くないとでも言うのか。
「怖くねーのかッ! 俺が! 化け物みたいな力を持った俺の手が、怖くねェってのか、テメエはッ!」
由愛は、震える素振りすら見せない。震えていたのは、チリーの方だった。
「怖くないわ! 一番怖がって、必死で逃げてるアンタなんかより猪の方がよっぽど怖いわよ、バカ言わないで!」
「怖がってる……俺が……?」
やっとのことで、身体の震えに気がついた。いや、気づかないフリをやめたのだ。
怖かった、この力が。誰よりも自分が自分を恐れていた。
「何が……何が居場所がない、よ! ちゃんとあるじゃない! そこにあるじゃない! 見ようとしてないだけじゃない! アンタが、アンタが……」
次第に泣き出しそうな顔になって、言葉は嗚咽混じりになりつつあったが、それでも由愛はもう一度口を開いた。
「アンタが逃げてるだけじゃないの……っ」
その瞬間、怒りで歪んでいたチリーの表情がハッとなる。何かに気付いたかのように口を開けたまま、チリーは振り上げた拳をゆっくりと降ろしていく。
「アンタには、必要としてくれてる人が、捜してくれてる人がいるじゃないの……」
――――あるのよ、あるハズなのよ! 私にも、アンタにも絶対!
由愛の言葉が、チリーの脳裏を過る。
違う、居場所なんてない。自分がいることで誰かが傷つく場所なんて、自分のいるべき場所ではない。そう思っていた、そう思い込んでいた。
化け物の自分といれば、ニシルは、ミラルは、きっと傷つくことになる。今はもういない父代わりの男、あのキリトだって、もしかしたら知らない所で傷ついていたかも知れない。だから人里にいるべきじゃない、誰かと関わりを持つべきじゃない。そう、思っていた。
「俺が、逃げてる……?」
傷つけたくなかったのか。
傷つきたくなかったのか。
傷つけたくなくて遠ざけた? 二人が大切で、自分のせいで傷ついて欲しくなかったから?
逃げていたのは自分で、怖がっていたのは自分で、最初からただの一人相撲だったのかも知れない。
――――本当に傷つけたくなかったのは、俺のことじゃねェか。
「バーカ! アホー! まぬけ! ヘタレ! クソチリ出て来いよこの野郎! いつまでビビってんだ! 僕もミラルも、お前のことなんかこれっぽっちも怖くないっつーのー! ウンコタレのバカチリ! 良いからさっさと出て来いってんだよッ!」
こんなに優しい罵倒はない。投げかけられた言葉はどれも罵倒だったけれど、何よりも暖かくチリーの中を満たしていく。
きっと逃げていたのは、由愛の言う通りチリーの方で。
自分の居場所じゃないと言い聞かせて、自分が一番傷つかなくてすむ場所まで逃げていて。
気がつけばすっかり、一人切りになったつもりでいた。
「何で怖くないかわかるか! わかんないだろお前バカだし! 良いか、お前はお前だから全ッ然怖くないって言ってんだよ! 化け物かどうかなんて、チリーがチリーかどうかには全然関係ないんだよアホ! 仮にお前が人じゃなかったとしても、どうせお前はバカだから怖くないっての!」
バカだから怖くない、変な理屈だ。だが、そんなことは最早どうだって良かった。きっとニシルが伝えたいことは、理屈なんかじゃない。それが、チリーにはわかった。
お前は、お前だから。欲しかった言葉が、自分で締め付けた心を解きほぐしていく。
力が怖いと、自分で思った。化け物である自分が怖いと、そう思ったし、人も怖がると思った。だからきっと居場所なんてそこにはない、そう思い続けていた。だけど違う、チリーはチリーで、化け物である前にチリーだと認めてくれる人がいて、そこにちゃんと、居場所はあった。
「早く行きなさいよバカ……私も行くから」
「どいつもコイツも人のことバカバカとうるせーっつの……」
そう言った由愛の胸ぐらをそっと離すと、チリーはそうぼやきながら入り口のドアへ向かう。ドアの前でやや躊躇ったように静止していたが、やがて勢い良くドアを開けると、すぐにドアの向こうへ怒号を飛ばした。
もうその瞳に陰りは見えない。真っ直ぐな瞳が、前を見据えていた。
「誰がバカでアホでまぬけでヘタレでクソでウンコタレだこのクソボケチビニシルッ!」
二人がニッと笑い合ったのは、その言葉から数秒後だった。
全速力で駆け抜けるチリーの背中を、由愛とニシルは必死で追いかけていた。由愛もニシルも別段足が遅いというわけではなかったが、先頭切って走るチリーの速さは常人のソレとは言い難い。
今まで顔をうつむかせていたのが嘘だったかのように、チリーはまっすぐと前を見つめていた。その瞳は一点の曇りもなく澄み渡っていた。その瞳に、もう迷いはない。
そんな澄み切ったチリーの表情を知ってか知らずか、由愛は肩で息をしながらもどこか嬉しげにチリーの背中を見つめていた。チリーには、居場所がある。必要としてくれる人が、心配してくれる人がいて、それをまたチリーが必要として、心配していて、そこに、彼の居場所があって。
自分を化け物だと言って、だから居場所がないと、そう言っていたチリーにもちゃんと居場所がある。だからきっと自分にも同じように居場所があるハズなんだと、そう思うと喜ばずにはいられなかったし、何より今は、チリーが自分の居場所を見つけることが出来たこと、それが嬉しくてたまらなかった。
言葉は、言えば伝わるわけでもない。だけど言わなければ伝わらない。由愛もニシルも、きちんと言葉で大事なことを伝えられたから、こうして今のチリーがあるのだろう。自分の言葉が、思いが伝わった……もしかしたらそれが、由愛は一番嬉しかったのかも知れない。
「おまッ……えッ……早過ぎッ……!」
後ろで弱音を吐くニシルだったが、それに対してチリーは振り向きもせずにうるせぇ、と答えた。
「止まってる暇も歩いてる暇ももうねェ! 今まで立ち止まってた分、今からでも走ンだよッ!」
そんなチリーの真っ直ぐな言葉に、由愛は微笑む。もう今にでも足を止めてしまいそうな程身体は疲れているように思えたけれど、何の根拠もなくまだまだ走れそうな錯覚を覚えてしまうくらいに、気分は高揚していた。
「さて、いい加減居場所を吐く気になったかね、“悪魔の手先”諸君」
民衆からの心ない罵倒に晒され、既にもうミラルでさえもがヴラドレンに対して何かを言い返したりはしなかった。永久はずっと怯えたような様子を見せているし、シルフィアやザシャも怯えるばかりだ。英輔もどうすれば良いのかわからず、ただ歯噛みしているだけだった。
「……まだ反抗的な目をしているな」
弓兵の隣まで歩み寄り、ヴラドレンはうつむいたミラルの顔を覗き込むようにして顔を上げる。そこには、何も言い返さないものの悔しそうに歯を食い縛って地面を睨みつける、ミラルの顔があった。
「自分の立場がわかっているのか、ん? 私はお前をいつでも殺せるわけだ……早い所白状して楽になった方が良いのではないかな」
ミラルの顔を覗き込んだままヴラドレンがそう言うが、ミラルは地面へ向けていた視線をヴラドレンへ移すだけで何も答えない。
「大体、化け物なんぞ囲ってどうするつもりだ。アレの力を借りて何か策略でも――」
ヴラドレンが言葉を言い終わらない内に、ペチャリと音がしてヴラドレンの足元に吐き捨てられた唾液が落ちる。それをチラと見て、ヴラドレンは強くミラルを睨みつけた。
「……乙女らしからぬ行為だ」
「チリーは、化け物じゃない」
「まるで水掛け論だな」
「化け物じゃない」
頑として態度を変えようとしないミラルに対して、ヴラドレンはフッと表情を冷やした後、ゆっくりと先程歩いてきた道を戻り、椅子の上に座って小さく溜息を吐いて見せる。
「十秒だけやる。その間に化け物の居場所を答えろ。十秒を過ぎれば……わかっているな?」
キリリと。ミラル達の前に立っている弓兵達が弦を鳴らす。それと同時に、ヴラドレンによるカウントが開始された。
「クソ……どうにかなんねェのか……ッ!」
歯噛みするが、英輔を含む全員の前に弓兵が構えており、いつの間にかヴラドレンの手には再びプチ鏡子が握られている。最悪の場合プチ鏡子が破壊されても本体の鏡子は無事だが、射られたミラルやシルフィア、ザシャはそれでもう終わりだ。永久だって、今の状態で自分の身を守れるとはあまり思えない。英輔だけが助かるのではなく、永久やミラル達も同時に救う方法はないものかと思索するが、英輔の頭にはこの状況を打開する方法が思い浮かばない。
何も出来ない自分が一番恨めしい。この世界に来てからというもの、迷惑をかけるばかりで何の役にも立てないままでいるのが英輔は悔しかった。
「八、七、六……」
カウントが零に近づくに連れて焦燥感に駆られるが、だからと言ってどうにもならない。
「五、四、三……ッ!」
――――万事休すか……!
心の内で英輔が思わずそう呟き、諦めかけた――その時だった。
「ッざけたことしてんじゃッねェェェェッッ!!」
雄叫びと共に一人の少年が人集りの上を飛び越えてヴラドレンの目の前に着地する。
「――ッ!?」
そして驚愕するヴラドレンの顔面に容赦なく拳が叩き込まれ、その勢いでヴラドレンは勢い良く吹っ飛び、ミラルの正面にいた弓兵の背中に直撃し、弓兵の矢は明後日の方向へと射られてしまう。
「今だッ!」
その隙を見逃さず、英輔は両手足から魔力を放出し、その電流で縄を焼ききってそのまま落ちるようにして着地すると、目の前で困惑していた弓兵を殴り倒す。それと同時にその場に残っていた弓兵が一斉に英輔目掛けて矢を射たが、それらは全て英輔の発する魔力――魔力障壁によって防がれてしまう。
「汚名返上……させてもらうぜッ!」
そのまま弓兵を一人ずつ殴り倒していく。
「貴様……ッ!」
「――ッ」
最後の一体を殴り倒して油断した英輔の後ろから、最初に殴り倒した弓兵が殴りかかる――が、突如後方から飛来した黒弾が横腹に直撃し、呻き声を上げながら弓兵はその場へ倒れこんでいった。
「今の……まさかッ!」
黒弾の飛んできた方向へ視線を向けると、そこにいたのは、二つに割れた人集りの間で、息を切らせながら右手をこちらへかざす由愛と、その後ろで膝に手をついてぜぇぜぇと荒い息を吐き出すニシルの姿だった。
「ボケっとしてんじゃないわよ!」
「悪い、助かった!」
「アンタには……後でたっぷり、埋め合わせしてもらうから、そのつもりで……いなさいよね……っ」
「は、はい……」
思わず肩を縮こまらせてそう答えた英輔を見、由愛は小さく微笑んだ。
「そうか……自らここへ来たか……ッ!」
ゆっくりと立ち上がったヴラドレンの目の前で、ボサボサの白髪が潮風に揺れる。真っ直ぐな双眸が強くヴラドレンを睨みつけており、年端もいかないその少年の威圧感に、ヴラドレンでさえもが圧迫感を感じていた。
「チリー・クライネルトッ! ゲルビア帝国第一王子様のお出ましかッ!」
ヴラドレンのその言葉に、その場にいた全員が各々驚いた様子を見せたが、当の本人であるチリーはそんなことは毛ほども気にしていないかのように、ただヴラドレンを睨み続けていた。
「俺が誰だとか、ンなモンは関係ねェ……テメエがミラルや皆を傷つけた分の落とし前を、今ここでつけるだけだッ!」
そう言い放つやいなや、チリーはヴラドレンへと右手をかざす。すると、みるみる内にチリーの右手の中に剣の柄のようなものが形成されていく。そこから巨大な刀身が伸びるようにして形成されていき、あっという間にチリーの右手には永久が出現させるものにも引けを取らないサイズの大剣が握られていた。
「覚悟しやがれ……テメエはギッタギタにしてやらねェと腹の虫が収まらねェ! 何が目的かは知らねェが、アイツらを……」
チラリとチリーは、英輔によって地面に切り倒された十字架に縛られているミラル達に視線を向けたが、すぐにヴラドレンを強く睨みつける。
「あんな目に遭わせたツケはたっぷり払ってもらうぜッ!」
もう逃げない。もう失わない。そんな決意の秘められた瞳が、真っ直ぐ射抜くようにしてヴラドレンへ向けられた。