World7-1「Encounter」
意識が朦朧としていて、自分が何者なのかもわからない。
数え切れない程の記憶が頭の中を駆け巡っては消えていき、気がつけば空っぽになってしまっていた。それが良いことなのか良くないことなのか、消えてしまった今では判断など出来ようもなかったが、それは酷く悲しいことのように思えてしまう。きっと消してしまいたかったのは辛い記憶で、ずっと大事にしていたかった記憶はその中にいくつもあったハズだったけれど、それらも含めて全部頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
海に、落としたのかも知れない。
深い深い青の中に沈み込んでしまったのなら、それこそもう取り出しようがないだろう。諦めてしまった方が良いに決まっている。
それでも一つ、引っかかっているものもある。全て海に落としていたとしても、どこかで引っかかったまま落ちずに残っているものがあって、きっとそれは今自分の中にあるたった一つの記憶なのだと思う。
もう誰の声かもわからない。それでも確かに、その声は自分に向けて発せられたものだった。
確かその声は――
チリー。そう呼んでいた気がする。
「非常に申し訳ありませんでした」
砂浜の上で正座し、申し訳なさそうにそう言ったのは英輔だった。
彼の前にはいつもの紺のセーラー服に身を包んだ永久が立っており、苦笑いしたまま英輔を見つめている。数日前の刹那との戦いでそれなりに汚れたり破けたりしていたハズなのだが、永久の着ているセーラー服は新品同然とさえ言える状態で、スカートのプリーツにさえ歪みが見られない。何でも、武器と同時に服装が変わる永久は、元に戻る度に服が最善の状態で再生されるようで、本人も毎回驚いているらしい。鏡子によれば服装の変化自体アンリミテッドクイーンの力によるものであるため、元に戻る際も同様の力を使って服装を再構成しているのではないか、とのことだった。
「貴方はホントにもう……!」
英輔を正座させているのは目の前に立っている永久ではなく、その肩の上で両手を腰に当てているプチ鏡子だった。
事の発端は数十分前に遡る。
路地裏から裂け目を通り、永久達が訪れた世界で最初に視界に入ったのは澄んだ青色の海と、ゴミらしいゴミのほとんど見当たらない綺麗な海岸だった。落ちているものと言えば海藻の類や海生生物の死体、流木や石くらいのもので、他に目を引くものと言えばボロボロになった小舟くらいだろうか。現代の砂浜としてはあまりにも綺麗過ぎる砂浜のすぐ向こうには森が広がっており、一見すると無人島か何かのように思える。
欠片の手がかりを探すため、二手に分かれて散策することを決めた永久達は、永久とプチ鏡子が砂浜周辺を、由愛と英輔が森を調べることになったのだが、問題が起きたのはその後だった。
「あーあ、まさかまたアンタと二人で行動することになるなんてね。馬鹿のお守りなんてもう真っ平よ」
不意に足を止めて呆れ顔でそう言った由愛に、英輔は歩を止めてムッとした表情を見せる。
「そーだな。俺も母さんや永久と行動したかったよ」
「何それ。私だって永久や鏡子の方が良かったわよ。大体アンタムカつくのよいつも」
「ムカつくって何だよ、具体的に言ってみろっつの!」
つい語気を荒げた英輔にチラリと目をやり、心底うんざりしたような表情を見せて由愛は溜息をわざとらしく吐いてみせた。
「あー頭にくる! そういうとこがムカつくって言ってんのよ! 大体何? その歳でかーさんだの親父だの、親離れ出来ないの? まだそういう年頃の子供なの?」
「お前な、言って良いことと悪いことがあんだろ」
眉間にしわを寄せてそう言った英輔に、由愛はフンとそっぽを向いて早足で歩き始める。
「何よ。アンタの言う通り具体的に言ってあげたんでしょ」
「今度は屁理屈かよ。どっちが子供なんだか」
嫌味っぽく溜息を吐いて見せながら英輔が由愛の後を付いて行こうとすると、急に振り向いた由愛の赤い瞳がキッと英輔を睨みつけた。
「ついて来ないでよ馬鹿!」
そう言い放ち、再び由愛は英輔に背を向けて歩き始める。そんな由愛の背中に投げつけるようにして勝手にしろよ、と怒鳴りつけ、英輔は由愛と別の方向へ歩き始めたが、ものの数分で由愛とはぐれてはまずいということに気付き、追いかけようと来た道を戻ったものの既に由愛は森のどこかへと姿を消してしまっていた。
「……っちゃー……」
これはまずいと言わんばかりに引きつった笑いを浮かべた時には、既に遅く、どれだけ見回しても由愛の姿を見つけることは出来なかった。
そして一旦永久達のいる砂浜に戻り、事の次第を説明してプチ鏡子に怒鳴られ、砂浜の上に正座させられて現在に至るのだった。
「うーん、それにしてもどうしよっか。欠片よりも先に由愛を探さないと……」
困り顔で右頬に手を当てる永久の肩では、呆れた顔で英輔を見つめるプチ鏡子の姿があり、英輔は様子を伺うようにそれをチラチラと見ながら、申し訳なさそうに肩を落としていた。
「森の中、ねぇ……どの方向に行ったのかもわからないの?」
「か、皆目検討もつきません……」
小声でそう言って、英輔は溜息を吐いた。
「とりあえずジッとしてないで、森の中に入って由愛を捜した方が良いかもね。由愛だって、私達のこと捜すと思うし……」
「そうね……。ある程度戦えるとは言え、由愛にもしものことがあってもいけないし……」
プチ鏡子がそういうやいなや、足が限界だったのかすぐに英輔は立ち上がるが――
「よし、そうと決まれば森に戻って――」
足が痺れたらしくすぐにその場に膝をついた。
「愛想も小想も尽き果てるわね……」
何度目ともわからない溜息を吐くプチ鏡子をまあまあとなだめつつ、永久は苦笑いしつつ足の痺れに呻く英輔へ視線を向ける。
「と、とりあえず英輔の足の痺れが治ってからってことで……」
「面目ない……」
砂浜を見つめつつ英輔がそう言った、その時だった。
ガサガサと草木を分け入る音が聞こえて、森の中から少年と少女が一人ずつ、砂浜へ出てきてギョッとした目で永久と英輔へ視線を向けた。と、同時に永久は慌てて肩の上にいるプチ鏡子をポケットの中へ突っ込んだ。
少年の方は赤い髪が特徴的で、体格は小柄に見え、隣にいる少女と身長はあまり変わらない。やや遠目ではあるものの恐らく永久より身長は低いだろう。
少女の方は栗色のロングヘアとフリルのついたスカートを風になびかせており、釣り気味の目を大きく見開いて永久達を見つめていた。
「やばいよミラル、なんか変なのいるよ!」
永久達を指さしてそんなことを言ったのは小柄な少年の方で、ミラルと呼ばれた少女はそれに答えもせず呆然と永久達を見つめている。
「へ、変かな私達……」
「とりあえず今俺の態勢は変だわ……」
そう言ってどうにか立ち上がろうと足を動かした英輔だったが、まだ足の痺れは治っていなかったらしく、小さく声を上げてその場へ倒れこんでしまった。
「旅人、ねぇ……。それにしちゃ格好も変だし、大体何で港から来ないんだよ?」
腕を組んで訝しげな表情で永久達を眺めているのは、赤毛の少年の方だった。
「か、格好、変かな……?」
長いプリーツスカートの裾をつまみ上げながら首を傾げる永久に、少年はかなり変だよ、と小さく付け足す。
とりあえず永久達はあるものを探して旅をしている旅人だ、という風に自分達を紹介したのだが、どうも信じてもらえていないようで少年も、ミラルと呼ばれていた少女もどこか警戒した様子のままだった。
「ねぇ、この人達東の人達と似た顔してない?」
ミラルにそう言われ、少年はそうかな、と言いつつ永久達を眺め回した後、そうかも、と小さく呟いて納得したようにうんうんとうなずき始める。
「そ、そうそう私達、東から……」
「東の人達は変な服着てるって聞くしね、これはホントかも。でも何で港から入って来ないのさ? 港に来たならアンタらみたいな変な格好の人のことは島中に話が広まるだろうし、この島には港は一つしかないからね」
「え、えっと……」
困り果てた表情で、助けを求めるように永久は既に立ち上がっている英輔へ視線を送ったが、英輔の方もどう言い訳したものかと困っているらしく、考え込むように手を組んだままうつむいてしまっていた。
「ま、まさか密入国者なんじゃ……」
「あ、じゃあそれ!」
思わずミラルの言葉をそう肯定してしまい、ハッと永久は右手で口をおさえた。
「じゃあって何だよ! ていうか密入国って犯罪じゃないか!」
「ちょっと探しものをしてるんだけど、私達お金がなくって……密入国者っていうのがバレると困るから、秘密にしておいてもらえないかな……」
顔の前で手を合わせて頼み込む永久に、少年は考え込むような表情を見せる。
「ねぇニシル、黙っておいてあげれば良いんじゃない? そんなに考えるようなことないと思うんだけど……」
「いやほら、確か新しい領主は罪人捕まえた人に懸賞金くれるとかそんなこと言ってなかったっけ……?」
「アンタには情ってものがないの……」
呆れて嘆息するミラルを見、ニシルと呼ばれた少年はしょうがないな、と肩をすくめて見せる。
「ミラルに免じて黙っといてやるよ」
ニシルのその言葉に、永久はパッと表情を明るくさせて屈託ない笑顔を向けた。
「ありがとう! それと、私は永久、こっちは英輔」
「うわ、変な名前……ホントに東の人なんだ」
納得したようにそう言って、ニシルがスッと右手を永久へ差し出すと、永久はそれを握り返す。
「僕はニシル。そのまま呼び捨てでニシルで良いよ」
そう言ってニシルはニコリと笑って見せた後、よろしく、と英輔とも握手を交わす。
「私はミラル。私も呼び捨てで良いから」
そう言ってよろしくね、と付け足してミラルも永久と英輔と握手を交わし、互いの自己紹介を終えた。
由愛が道に迷ってから、そろそろ一時間が過ぎようとしていた。
英輔との口喧嘩の後、どこへ行くでもなく足早に歩いていた由愛は、体感時間で五分程たった辺りで自分がどこにいるのかわからなくなってしまっていた。
森の中は由愛が思っていたよりも広く、おまけに似たような景色が続いているため、目印も付けずに歩けば迷うのは当然とも言えた。生い茂る木々が日光を遮っているようで、森の中はどこか薄暗い。段々不安になってきて、由愛は知らず知らずの内に肩を縮こまらせて森の中を歩いていた。
「何なのよ……何なのよもう……」
こんなことになるつもりは毛頭なかったのだが、いつの間にかこんな状況になっていた、というのが由愛の率直な感想で、そもそも英輔とあんな口喧嘩をするつもりなどなかったのだが、売り言葉に買い言葉(とは言っても先に喧嘩を売ったのは由愛だが)、いらない皮肉を言ってしまったばかりにこんなことになってしまい、今更ながら深く反省するが、状況の好転には当然繋がらない。
「大体アイツが悪いのよもう……!」
少し泣きそうな声音でそんなことを呟いていると、ガサガサと草木をかき分ける音が聞こえてくる。
「え、英輔っ!?」
期待に満ちた表情で物音の方向へ視線を向けたが、そこにいたのは英輔などではなく、茶色い毛むくじゃらだった。
「え……?」
ずんぐりした体型に、突き出た鼻と短い尻尾。
猪である。
興奮しているのか、息を荒げながら猪は由愛の方を見つめており、いつ飛びかかられてもおかしくないような状態だった。
「な、何なのよアンタ……!」
小さくブルリと震えた後、能力を使おうとしたのか由愛が右手を猪へ突き出したのと、猪が由愛の方へと駈け出したのはほぼ同時だった――が、猪の動きは風を切る小気味良い音が聞こえると同時に悲鳴と共に止まる。
「――っ!?」
猪に突き刺さっていたのは、一本の矢だった。血を流しながらもがく猪の身体に、追い打ちをかけるようにしてももう一本の矢が突き刺さる。猪がもがくのをやめるまで矢は続き、六本目に到達した辺りで猪は動かなくなってしまった。
「だ、誰……?」
由愛の言葉に答えるようにしてガサガサと物音がして、草陰に隠れていたらしい矢を射た主がゆっくりと立ち上がる。
「テメエこそ誰だよ」
ぶっきらぼうにそう言ったのは、由愛の髪よりややくすんだ白いボサボサの長髪をした、一人の少年だった。