World6-3「ひきこさん(調査編)」
女の中で、強い恨みだけが渦巻いていた。
意識はあまり判然としない、自分が何をしようとしているのかも漠然としていたが、身体の奥底から延々と渦巻いているような憎悪だけはしっかりと感じ取れていた。
辛い記憶ばかりが思い出されて、その度に強い怒りが沸き起こる。それを幾度となく繰り返していく内に、身体は怒りの炎を燃やす暖炉で、記憶はそれにくべる木であるかのようにさえ思えてくる。
誰でも良い、引きずり殺してやりたい。
その「誰でも良い誰か」を探して彷徨い歩くその姿が、他人の目から怪異として映っていることには薄々感づいていたし、それでも良いと思えた。
そんな風にしたのはお前らだ、そう伝えようとしているのかも知れない。
「あーあ、先に見つけちゃった」
不意に聞こえた声に、女はピクリと反応を示す。
俯いたままだった顔を少しだけ上げると、そこには紺のセーラー服に身を包んだ一人の少女が悠然と立っていた。
強く睨みつけると、少女はそれを嘲るようにして笑みをこぼす。
「辛かったのね。わかる、わかるわ私」
クスクスと笑いながらそう言った少女の態度は、女の気持ちをわかっているなどとは到底思えない態度だったのだが、何故だか「わかられてしまっている」という意識が女の中にはあり、それがたまらなく悔しかった。
「助けてあげる」
それが女の思う「助け」とは正反対の「助け」であろうことは、少女がそう口にした瞬間に理解出来た。
永久が弘人によって案内されたその場所は、何の変哲もない住宅街だった。
時刻は既に午後三時を過ぎており、学校や幼稚園の終わった子供が外で遊んでいても不思議ではない時間帯なのだが、そのような姿は見受けられない。それが果たして今にも雨の降り出しそうな天候のせいなのか、「ひきこさん」という危険極まりない怪異の噂のせいなのか、時代の移り変わりによるものなのかは永久には判断しかねるが、曇り空もあいまってどこか寂しい、という印象を受ける。
その寂しさのせいではないのだろうが、この住宅街に入ってからずっと、永久は言いようのない居心地の悪さを感じていた。どこか、最初にいた世界で刹那が事件を起こした時と似ているような、そんな気持ちの悪さが永久の中で粘ついて拭えない。
どうしてもチラついてしまうのは、妹の刹那の顔だった。
「調査って、具体的には何をするの?」
気持ち悪さとチラつく刹那の顔を誤魔化すようにして、永久は弘人へそう声をかける。
「具体的にってもなぁ……目撃証言のあった場所をうろつく、くらいだな……。わりと適当なんだよ、ウチ」
やや呆れ顔で苦笑しつつ、弘人はそう答えた。
超会本部を出発する際、三つの調査場所に合わせて超会のメンバー(と臨時メンバー)は三人ずつで三つのグループに分かれた。最初の内は由愛が少しごねていたのだが、結局永久達三人(プチ鏡子はカウントされていない)はバラバラのグループに割り振られて活動することになった。
永久のチームは弘人とシロだったが、シロは弘人に肩車されたままほとんど口を聞かない。何度か永久はシロに対して話しかけたのだが、首を縦や横に振るばかりでコミュニケーションこそ取れたものの、会話にはならなかった。
「しっかしまた、この町で超常現象が起こるとはな……」
感慨深そうに言う弘人の隣りで、永久はキョトンとした表情を浮かべる。
「しばらく起きなかった時期があったの?」
「ああ。つっても一週間程度だけどな」
一週間程度ならいくら蝶上町が彼らの言うように超常現象の頻繁に起きる町であるとは言え普通にあり得そうなものなのだが、一週間起きなかっただけでも驚く程この町での超常現象発生件数は多かったのだろうか。
「この町の超常現象はな、本当は既に解決してるんだよ」
「この町の超常現象が、既に解決してる?」
小学校の校門の前を歩きながら、英輔が詩安の言葉を繰り返すと、詩安の代わりとでも言わんばかりに鞘子が小さく頷いた。
「元々この町で頻繁に超常現象が起きてたのにはちゃんと理由があるのよ」
そう言って、鞘子はすぐに言葉を続けた。
「花子さんにしろ口裂け女にしろひきこさんにしろ、都市伝説って人の噂で語り継がれてくるものじゃない?」
コクリと頷いて、英輔は小学生時代に学校で花子さんに似た怪談が語り継がれていた時のことを反芻する。もうどんな名前の怪談だったかすら覚えていないが、話を聞く度に尾ヒレがついていき、一々びくついていた記憶がある。結局ただの噂止まりではあったのだが、当時相当恐怖したことだけは今もくっきりと鮮明に英輔の中に残っている。
「そういう……例えば、『花子さんはいるんだ』って思っている人達の強い思いが、都市伝説で語り継がれる怪異の正体だったのよ」
「じゃあ、この町で起きた超常現象ってのは全部そういうものだったのか? だったら、別の町でも同じことが起きてもおかしくないんじゃ……」
英輔の言葉を遮るようにして、今度は詩安が首を左右に振ることで英輔に答える。
「いいえ、この町で超常現象が起きていた理由はそれだけじゃないわ」
「土地神って言うの、聞いたことありません?」
ひきこさんの目撃証言のあった中学校の裏庭を歩きながら、美耶は由愛へそう問うた。
美耶と由愛の首には、学校側から正式に中へ入ることが許可された外来者であることを示す名札が下げられており、そのおかげで関係者でない二人でも堂々と学校の敷地内を歩くことが出来る。理安の通うこの中学校ではどこよりもひきこさんに関する噂が出回っているらしく、学校側もそろそろ何かしら対策を講じなければならないと考えていたようで、ひきこさんに関する調査にきた超会のメンバーが校内へ入るのを、ボスの鞘子がこの学校の卒業生であるのもあって快く許可してくれたのだ。
「土地神ってアレでしょう? 神社とかに祀られたりしてるご当地神様でしょ」
「得意げな由愛ちゃんかわいー!」
当然知ってるわ、とでも言わんばかりに答えた由愛に抱きつく理安を鬱陶しそうに右手でどけながら、由愛は美耶へそれがどうしたの? と視線を向ける。
「この町で超常現象を引き起こしていた……というより、人々の思いを具現化していたのは、この蝶上町の土地神だったんです」
「ここの土地神が?」
由愛が美耶の言葉を繰り返すと、美耶の代わりに理安がそうだよーと由愛に抱きついたまま答える。
「ああもう、鬱陶しいから離れなさいよバカ! ……それで、じゃあどうしてしばらくは超常現象が起きなかったの?」
「土地神が、力を失ったからです」
「俺達を助けるために、自分の権限を越えた力を行使したんだ。この町に訪れた脅威を、強制的に退去させたんだよ、あの土地神は。それが原因で、その土地神は土地神としての力を失ったんだ」
なぁシロ? と肩に乗せたシロに言いつつ、弘人は歩を進める。
「その、脅威って?」
「うーん……何だろうな。俺もハッキリわかってるわけじゃないけど、アレは宇宙人か何かだろーな、やっぱり」
宇宙人、というありふれた言葉で表現することを躊躇ったせいか、弘人は恥ずかしいことでも口にしたかのように永久から一度目を背けた。
「それで事件は一旦解決。一週間事件が起こらなければ超会は一旦解散ってことに決まったんだが……」
「今回の事件が起こっちゃったってわけだね」
弘人の言葉を続けるように永久がそう言うと、弘人はそういうこと、と答えてニッと笑って見せる。
「それでその土地神ってのがコレだ」
そう言って弘人が指差したのは、あろうことか今まで弘人の肩の上で一度も口を開かずにボーっと虚空を見つめていたシロだった。
「こ、コレって……えぇ!?」
シロと弘人を交互に見ながら素っ頓狂な声を上げる永久を眺めつつ、弘人はしてやったり、と言った様子で笑みを浮かべていた。
「あ、貴女が……神様……?」
「そう」
短くそれだけ答えて、シロは初めて永久へと視線を向ける。
「元、だけど」
付け足した後、そのままシロはじっと永久のことを見つめ始めた。
これまで虚空を眺めていたようなボーっとしたような視線ではなく、真剣な、何かを永久へ伝えようとしているかのような、そんな視線だった。
「強い、力」
やや戸惑った様子で永久が自分自身を指差すと、シロは小さく首を縦に振る。
「同じ力、もっと強い力」
そう言ってシロが指差したのは、曲がり角の向こうだった。
「同じ……力……?」
最初は、欠片のことかと思った。しかし、その後に続く「もっと強い力」というシロの言葉がどうにも引っかかる。この住宅街に入った時から感じていた気持ち悪さとソレが、永久の中で否応にも繋がっていく。
額が湿る。気がつけばポツポツと雨が降り出していたが、湿った額の正体は決して雨粒などではなく、永久から滲み出た厭な汗だった。
この気持ち悪さはきっと、直感とそれを認めたくない永久の心の葛藤だ。
この住宅街に来た時から、いや、あの路地裏を通してひび割れたこの世界を見た時から、既にわかっていたことかも知れない。
遅かれ早かれ出会わなければならなかった。それに、それが目的でこの旅を始めたのではなかったか。
二の足を踏む理由などない。シロが指し示した曲がり角の向こうを、永久は見なければならない。否、見る以外に選択肢が存在し得ない。
ゴクリと生唾を飲み込む。
額の汗を拭う。
小刻みに震える身体は、武者震いでも何でもなく、単純にこれから出会うであろう存在に対しての恐怖の震えだった。
その強大さを肌で感じ取ってしまったのか。それとも変わり果てた彼女を見るのが怖かったのか。
どちらとも判別はつかなかったが、きっとその両方だった。
踏み出した先の世界で、紺のロングスカートが揺れる。
濡れた艷やかな黒髪は、永久の髪型と全くと言って良い程同じだったハズがバッサリと切られ、ショートボブ程の長さに変わってしまっている。
彼女は、左手に永久が普段使っているものと全く同じショートソードを持ち、それを雨雲へと掲げていた。その刀身からは血が滴り落ち、アスファルトの上で雨水の中に溶け込んで濁った色を作り出している。
ショートソードに突き刺さったままグッタリと項垂れる、白いズタボロの服を着た、背の高い女性と思しきシルエットが、弘人達超会が今捜している「ひきこさん」だと気がつくのに、さして時間は必要なかった。
「……刹那……っ」
クルリと。ショートボブが振り返る。
同じ顔で、邪悪そのものとさえ呼べる笑みを浮かべた彼女を、もう永久は昔のように妹だと思える自信がない。
「遅かったのね永久……先、越しちゃった」
おどけた様子でそう言って、彼女は――坂崎刹那は、ショートソードに突き刺さったひきこさんを、乱雑にその場へ振り落とす。
「良かったぁ……会えて。私貴女がちゃんと気付けるようにわざわざ世界を歪めてあげてたんだけど、気づいてくれてた?」
恐らくそれが、永久達がこの世界へ来る前に門で見たひび割れの正体だろう。
「……っ!」
既に、胸を貫かれたかのような感触があった。
目を合わせた時点でもう、死ぬことが決まってしまったかのような、そんな錯覚を覚えてしまう。額の汗が、厭な感触で、厭な温度で更に滲んでいく。まるで金縛りにでもあったかのように一歩も動けず、永久はただ目の前の威圧感を、刹那を見つめていた。
「な……んだ……これ……ッ」
突如、永久の隣で弘人が膝から崩れ落ちた。
「何なんだよ……これッ……!」
全身を小刻みに震わせながら竦み上がる弘人を一瞥し、刹那は薄っすらと笑みを浮かべる。
「な、何をしたの……?」
「ねぇ、姉妹の再会よ? もっと気の利いた言葉はないのかしら……永久」
「答えて!」
絞り出すように叫んで、永久はキッと刹那を睨みつける。
「あら怖い。何もしてないわ、私。勝手にその子が竦み上がっただけじゃない」
刹那がそう言っている間に、足元で倒れていた女性――ひきこさんの身体が薄っすらと光を放ち、やがてその身体から小さな欠片が飛び出してくる。刹那はそれを右手でキャッチして握り締めて、見せびらかすように何も握り込まれていない右手を永久の方へ突き出して開いたり閉じたりを繰り返した。
「それ……と」
言いつつチラリと倒れたひきこさんを見――刹那は何の躊躇いもなくそのショートソードでひきこさんの息の根を止めた。
「あ、貴女……っ!」
何てことを、と永久が続きを紡ぐよりも、刹那が遮るようにして喋り出す方が早かった。
「どう永久? 欠片は集まった? ごめんね、この世界の欠片横取りしちゃって」
クスクスと嘲るような笑いをこぼしながら刹那がそう言ったが、永久は何も答えないまま刹那を睨みつけた後、チラリとシロの方へ視線を向ける。
「シロ……さん?」
「……シロで良い」
「弘人君をお願い」
「どこまで私に出来るかわからない、けど……善処する」
シロのその言葉に、永久はありがとう、と微笑んで答えた後、再び刹那へと視線を戻し、身構えた。
「……永久」
不意に、ポケットの中からプチ鏡子が顔を出す。
「最悪だわ……彼女、貴女の倍以上のコアの力を持ってる……!」
どこか震えているような声でプチ鏡子はそう言ったが、それに対して永久は首を小さく左右に振った。
「最悪? 違うよ」
いつの間にか、永久の手にはショートソードが握られていた。永久は強くその柄を握りしめ、真っ直ぐに刹那を見据える。
「やっと刹那に会えたんだ……!」
「やる気?」
身構えた永久とは対照的に、まるで持て余しているかのように右の人差し指で髪をクルクルといじる刹那の様子は、余裕綽々、という言葉がよく似合っている。
「やるよ」
「妹と?」
「やるよ」
「戦うの? これから?」
「……そうだよ」
その言葉を言い切った時には既に、永久の右足は一歩前へ踏み込んでいた。
「そのためにここまで来たんだっ!」
駆け出し、一気に刹那との距離を詰めると永久は素早くショートソードを刹那の頭目掛けて振り下ろす――が、それは刹那のショートソードによって防がれる。
「お疲れ様。じゃあ旅はここで終わりよ」
冷えた瞳。これまでのどこかおどけた様子は、もう刹那にはない。
「貴女は私が止める……止めてみせる、刹那っ!!」
永久の叫びに呼応するかのように、ショートソードに込められた力が強まった。