World6-1「訪れた者」
景色は、歪んでいた。
それは比喩でも何でもなければ、陽炎のような自然現象の類ですらなく、そのままの意味でこの森の景色は歪んでいた。
美奈子の率直な感想は「不安定」だった。本来世界と世界の境界が緩むようなことは、誰かの手によるものでなければ起こり得ないことだったし、だからこそ世界間を移動することなど、美奈子の元いた世界で「次元歪曲システム」が開発、完成に至るまでは超常の存在でもなければ出来なかったことだ。それ程までに、世界と世界の境界を越えるのは難しいことだったし、こうして境界が緩んでしまうようなことは本来起こり得ない。
この「歪み」は、恐らく人為的なもの、もしくは超常的な存在によって(意図無意図かは問わず)歪められているか……どちらにせよ、次元調停官である美奈子が見過ごして良い状態ではなかった。
――――アンリミテッドクイーン、彼女の仕業である可能性が高い。
心の内で呟いて、美奈子はよりいっそう気を引き締める。
世界にはキャパシティが存在し、一つの世界の中に存在出来るエネルギーの量が定められている。外の世界からきたエネルギーによる多少のキャパシティオーバーであれば、少しずつ世界の中に許容されていき、数年程度で結果的にキャパシティそのものが大きくなることでその存在が許容される。しかし、キャパシティの絶対数を大幅に越えた量のエネルギーがその世界へ外部から急遽訪れると、このように世界自体に歪みが発生し、他の世界との境界を緩めてしまう。神隠しのような失踪事件は、このような現象によって緩んだ境界から別の世界へ被害者が行ってしまっていることで起こるケースが多く、それらを解決するのもまた次元調停官である美奈子達の役目でもある。
この世界の境界が緩んでいるのは、キャパシティを大幅に越えた量の存在が突如現れてしまった結果である可能性が高い。今のところ、このような現象を起こしかねない存在は、美奈子達次元調停官からすればアンリミテッドクイーンのような現在、力そのものが不安定な超常くらいで、大抵強い力を持つ超常は、その力を抑えることで世界への負荷を可能な限り限界まで減らしてから別世界へ訪れる。アンリミテッド程力のある存在がそれを出来ないとは思えなかったし、そもそも他のアンリミテッドが復活した、という情報は美奈子の元に届いていない。
次元歪曲システムは、世界そのもののキャパシティを確認することも出来る。美奈子がアンリミテッドクイーンを追うことが出来るのは、システムによってキャパシティをオーバーしたエネルギーが内包されている世界を測定し、その中でオーバーした数値の高い世界から順番に訪れているためで、大抵そういう世界にはアンリミテッドクイーンと、その欠片が存在している。
今回美奈子が訪れている世界は、キャパシティのオーバー値が非常に高く、前回クイーンを発見した世界よりも遥かに高いオーバー値を叩き出している。坂崎永久の力が徐々に戻りつつあるとしても、これ程急激に戻るのは不自然極まりないのだが、今のところそれ以外に原因は考えつかない。
ここら一帯は特に不安定な様子で、片時も油断ならない。あの坂崎永久が積極的にこちらへ攻撃を仕掛けてくるとは考えにくかったが、万一に備えるに越したことはない。ハンドガンをコッキングさせた状態のまま、右頬へ添えるようにして構え、周囲を警戒しながら美奈子はアンリミテッドクイーンを捜して森の中を進んで行く。
いるとすれば、最も不安定なこの森の中だ。
「貴女、何人目?」
不意に背後から聞こえた声に素早く反応し、美奈子は銃を構えて背後を振り返る。
「その声……アンリミテッドクイーンですね」
美奈子の言葉に、声の主は答えない。美奈子からはやや離れた位置にある大木によりかかっているそのシルエットに、美奈子は銃口を突きつけたまま言葉を続けた。
「質問の意図がわかりません。何人目、とは?」
美奈子の問いに対して最初に返されたのは、挑発的にこぼされた笑い声だった。
「だから、貴女で何人目なのかって聞いてるのよ。似たようなのに出会い過ぎて、数えるのやめちゃったのよ、私」
「似たようなの……他の、調停官のことですか」
「あら、そう言うの、貴女達って。覚えてなかったわ」
クスリと、笑み。
それに対して、美奈子は表情をピクリとも変えないまま思考を巡らせる。
森の中が暗いせいで顔はハッキリと見えないが、あの声は間違いなく美奈子がこれまで聞いてきたアンリミテッドクイーンの声と同じものだ。あの態度の豹変ぶりは、アンリミテッドクイーンとして記憶が戻ったからなのだろうか。
「貴女に出会った他の調停官は、どうしました……?」
「やだ、それわざわざ聞くの」
不愉快な笑い声には耳を貸さず、静かに銃口を突きつけたまま美奈子は答えを待つ。
「どこかへ行ったんじゃないの? 例えば……あの世とか」
彼女が言葉を言い切ったその時には、既に美奈子は銃を発砲していた。
すぐにシステムを操作し、隔離フィールドを展開しようと右腕に装着された機器へと左手を伸ばすが、その瞬間には既に、背後へ気配が迫っていた。
「――っ!?」
直感的に身を屈めると同時に、美奈子の頭上を刃が通っていく。すぐに美奈子はそこから距離を取り、再び銃を構えた。
「もう少し遅かったら首チョンパよ、貴女」
そのおどけた物言いから察せられる余裕は、まるで美奈子のことを歯牙にもかけていないかのようだったが、それでも美奈子は表情を変えない。
「つまらないのね。よく言われない?」
「つまらないことを言っているのは貴女の方です、アンリミテッドクイーン」
「そう。次に会う時までにもっとギャグの練習をしておくわ」
瞬間、白刃がわずかな月光で煌めく。
「次、会えたらだけど」
夜の冷たさで震えたのか。
気づけば美奈子は、ブルリと身を震わせていた。
「避けられるのね。すごいわ」
まるで子供でも褒めるかのような彼女の口振り。そこから感じられる余裕とは対照的に、美奈子は焦燥感に駆られていた。
彼女を殺さなければならない。そう思っているハズなのに、頭の中で自動的に導き出されるのは逃げのルートばかりだった。
逃げなければ。
逃げなければ。
逃げなければ。
「殺され――っ」
言い切る余裕もなく振られる刃を、美奈子はかわすので精一杯だった。
「ほら」
一振り。
「ほら」
二振り。
「ほら」
三振り。
避ける以外の動作は不可能なのかとさえ思える。必死に彼女の繰り出す刃を回避しながら、美奈子はシステムを操作する隙を探していた。システムさえ操作出来れば、どうにかこの場から逃げ出す手段が得られるハズだ。そのことで頭の中が埋め尽くされながらも、わずかな隙間ではそんな己の情けなさを恥じる自分がいた。
それでも、容赦なく刃は迫る。
「すごいわ、私もう十回も振ったのに。新記録よ貴女」
遊ばれている。不意に足を止めてパチパチと手を叩き始めた彼女の隙を逃さず、美奈子はシステムを操作して背後に空間の裂け目を出現させ、すぐにその中へ手を突っ込み、中から缶状のものを取り出し、その上部へついているピンを一気に引くとすぐに彼女へと放った。
「――っ!」
瞬間、彼女を覆うようにして周囲を煙が包み込む。美奈子の投げたものが発煙手榴弾だったと彼女が気付いた時には既に、彼女の視界は完全に煙に奪われてしまっていた。
「逃げられちゃった……」
煙が晴れる頃には、そこに美奈子の姿はなかった。彼女はペロリと舌を出しておどけて見せると、静かにその場から立ち去って行く。
「まあ、良いか」
ショートボブの黒髪が、闇に溶け込むようにして夜風に揺れた。
「貴女達は完全に包囲されているわっ! 解放されたければ、大人しく我々についてくるか私の原稿と締め切りをどうにかしなさい!」
拡声器から発せられるそんなわけのわからない要求に、永久達はただただ困惑することしか出来なかった。
場所は人気のない神社。その本殿の賽銭箱の前で、永久達三人(とポケットの中のプチ鏡子)は何者かに包囲されている(全くそんな感じではないが)らしく、その場から動けずにいた。
永久達から数メートル程離れているシャギーボブの赤髪の女性はその手に拡声器を持っており、先程からその拡声器で永久達に対して呼びかけている。その隣では一人の平凡な少年が呆れ顔で女性を見つめていた。
「ボス、締め切りと原稿は関係ないんじゃ……」
言いかけた少年に、ボスと呼ばれた女性はそんなことないわ、と答えるとそのまま語を継ぐ。
「あの人達が超常的な存在であるなら、きっと私の原稿もそういう感じの超常的な何かでどうにかしてくれるわ!」
「どうにもなりませんよ! ていうか原稿は自分でやれよ!」
「嫌よ、売れないし」
「アンタもうその仕事やめろ!」
そんな緊張感のない二人の掛け合いに、由愛はやや辟易したような表情で嘆息する。
「あの、一体貴女達は……?」
恐る恐る永久がそう問うと、ボスはよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに笑みを浮かべると、息をいっぱいに吸い込んで拡声器目掛けて言葉を叩き込む。
「私達は超会! 超常現象解決委員会よっ!」
何だかよくわからなかった。