World5-1「美奈子」
その指先は儚くて、どこか消え入りそうに見えた。
決してそんなことはなくて、その指は確かにそこに物理的に存在していて、消え入るなんてことはないハズなのに――その指先が消え入りそうに見えたのは、きっと彼が彼女の終わりを予見していたからなのだろう。
指先にあるのは一冊の本のページで、そこには一枚の写真が掲載されている。
彼の膝の上で、少女はどこかはしゃいだ様子で写真を指さしていた。
「夢!」
「夢?」
彼が聞き返すと、少女は大きく頷いてみせた。
「この『ろんどん』ってところにいって、この『びっぐべん』っていうのを見るのが夢なの!」
イギリスの首都、ロンドン。そこにある国会議事堂には、ビッグベンと呼ばれる時計台がある。彼女がどこでその存在を知ったのか彼にはわからなかったが、きっとアニメか何かで見たのだろう。
写真に映るビッグベンは、幼い彼女の心を惹きつけたようで、何度も写真を指さしては「ビッグベン」と繰り返している。
そんな少女の柔らかい髪をそっとなでながら、彼は優しく笑みを浮かべた。
「そうだね。いつか連れて行ってあげるよ」
嘘吐き。
そう罵る声が聞こえた気がした。
「ほんとに?」
「ほんとさ」
「きっと、見せてくれる?」
逡巡するかのように、彼は口を閉じる。
しかししばしの沈黙の後、少女の小さな両肩をそっと抱きしめ、彼は悲しげに目を伏せた。
「ああ、見せてあげるよ」
――――いつかきっと、あの時計台を見せてあげるよ。
嘘が、刺さった。
状況がまるで飲み込めず、桧山英輔はただただおろおろと辺りを見回していた。
時刻は大体午前半ばくらいだろうか。目の前には神社の境内へと続くのであろう階段があり、セメントで舗装された地面以外は自然のまま、と言った感じで、木々が生い茂り木漏れ日が差し込んでいる。
「どうなってんだよ……おい!」
「わかるわけないでしょ私に! いいからそのキョロキョロすんのやめなさいよ!」
由愛に怒鳴られ、何か言い返そうと英輔は口を開きかけたが、それもそうか、と小さく呟いた後、英輔は短く息を吐いた。
鏡子の管理する路地裏から、英輔達は次の世界へと旅立った。
無事新たな世界に到着した英輔達は、早速欠片の探索を始めるつもりだったのだが、突然英輔達の目の前に現れたのは、ぴっちりとした黒い、ライダースーツのようなものを着込んだポニーテールの女性だった。
彼女は何やらわけのわからないことを永久に対してひとしきり言った後、突如として永久に襲いかかった……ところまではわかるのだが、そこから先が英輔にも由愛にもわからない。
「何だって、あの女も永久も消えてんだよ……」
先程まで永久の立っていた場所に立ち尽くし、英輔は溜息を吐いてみせる。
「一体何者だったのかしら、あの女……」
率直な疑問を口にした後、由愛はていうか、と付け足して睨むような目付きで英輔へ視線を向けた。
「よりにもよって、何でアンタと一緒なのよ」
「悪かったな、永久じゃなくて」
「大いに悪いわ。永久や鏡子と一緒ならともかく、アンタみたいなのと一緒じゃどうにか出来そうなものもどうにも出来ないじゃない」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く由愛にカチンときたらしく、英輔は眉間にしわを寄せて由愛を睨みつけ、今度こそ何か言ってやろうと口を開いたが、それは足音によってかき消された。
「あら、見慣れない霊力……ていうか魔力ね」
見れば、そこにいたのは階段を降りてきた一人の巫女装束を着込んだ女性だった。
長い黒髪をかきあげ、珍しいものでも見るかのように女は英輔達を見つめる。
先程永久と共に消えた女のことを思い出し、英輔は目の前の巫女を睨みつけると素早く身構えた。
英輔の隣では既に由愛が身構えており、二人は臨戦態勢に入っているのだが、目の前の巫女はまるで戦う気などなさそうな様子で英輔達を見つめていた。
「そんなに身構えないでよ、緊張するじゃない」
そう言って巫女が浮かべた笑みには緊張感がまるでなく、英輔は毒気を抜かれたかのように強張らせていた表情を少しだけ緩めた。
「霊滅師と魔術師、別に敵同士ってわけじゃないでしょ? そうね……例えば、漫画家と小説家が別に敵同士じゃないのと同じで」
全然ピンとこなかった。
また、銃口は向けられていた。
無機質にこちらへ向けられている目も、銃口も、一度目ではない。背筋を這うゾクリとした寒気も、二度目だった。
「由愛と英輔をどこにやったの?」
「どこへもやっていません。むしろ移動したのは貴女なのですから」
そう言って女は――下美奈子はアサルトライフルの引き金を何の躊躇いもなく引いた。
「また――っ!」
永久は全速力で駆けてアサルトライフルの銃弾を回避するが、美奈子はフルオートでアサルトライフルから銃弾を放ちながら、素早くその銃口を動く永久へと向ける。
――――このくらいなら、力を使わなくたって……!
前に永久がアサルトライフルを回避した時は、二本のショーテルを扱う、高速移動が可能な姿に変化して回避してそのまま逃走したのだが、このままの姿でも回避は可能なようで、銃口に追いかけられながらもどうにか永久は銃弾に当たらずに走り回ることが出来ている。
美奈子は動きを止めるために足元を狙っているらしく、永久に回避されたアサルトライフルの銃弾は、音を立てて地面にめり込んでいく。
「その異常な身体能力、やはり貴女は普通の人間とは違う」
駆け回る永久へ銃口を向けつつ、淡々と美奈子はそう言った――が、しばらくするとアサルトライフルが銃弾の発射を止め、美奈子は表情を変えずにアサルトライフルに視線を落とす。
「弾切れ……」
すぐに右手に装着された機器を操作しようと左手を装置へ伸ばすが、次の瞬間、辺りは眩い光に包まれた。
「はぁぁぁっ!」
美奈子の耳に届いた掛け声の方向は、上からだった。
「――っ!」
すぐに声の方向へ目をやると、そこにいたのは高く飛び上がって日本刀を振り上げる袴姿の永久だった。
「そこっ!」
永久の狙いは美奈子ではなく、彼女が持つアサルトライフルだったらしく、永久が日本刀を振り下ろし、地面に着地した頃には真っ二つになったアサルトライフルの片割れが地面に転がっていた。
その驚くべき切れ味に永久自身が内心驚きつつも、美奈子から永久はバックステップで後退し、距離を取る。
「ねえ、もうやめて! 少し話し合えば、戦わなくたってすむ方法があるかも知れない!」
刀を降ろし、必死にそう訴える永久に冷たい視線を向けつつ、美奈子は手に持ったままのアサルトライフルの片割れをその場へ投げ捨てた。
「貴女は」
瞬間、人形のような顔にほんの少しだけ感情が宿った。
「貴女は、下切子という名前に覚えがありますか?」
「下……切子……?」
全く聞き覚えのない名前だった。
何とか思い出そうと頭を捻るが、少しも思い出せないその名前に永久は顔をしかめる。しかしそんな永久の様子には構わず、美奈子は言葉を続けた。
「やはり覚えがありませんか。無理もないでしょう、貴女はアンリミテッドクイーンとして完全に覚醒してはいない。記憶が曖昧なのも当然とも考えられます」
それは、憎悪の色。
何の色も映さない、無機質だった彼女の目が、憎悪の色に染まる。
髪が、頬に張り付く。ベタつく汗を袖で拭ったところで、気づけばすぐにソレは滲んでくる。
きっと記憶も、いずれ滲んでくるのだろう。
それが今、永久にはたまらなく恐ろしく感じられた。
「では今から覚えて下さい」
淡々としていた声に、僅かな怒気が含まれる。
「私の名前は下美奈子。アンリミテッドによって家族を殺された、下切子の孫娘です」
耳に届いた言葉が、毒のように全身へと回っていくような気がした。