World3-3「現れた父。」
コトン。と音を立てて机の上に置かれたのは、皿へ丁寧に盛られた麻婆豆腐だった。
麻婆豆腐から漂う香りに臭覚を刺激され、永久は突然思い出したかのように空腹を感じ始める。気が付けば、机の上に置かれた麻婆豆腐を凝視してしまっていた。
既に雅は自宅へ戻っており、今桧山家にいるのは英輔と永久達だけである。そのためか、用意された麻婆豆腐は二皿分だけだった。
「二人共晩飯、まだ食べてないだろ?」
「良いの?」
皿の傍に置かれたスプーンを握りしめつつ嬉しそうに永久がそう問うと、英輔はコクリと頷いた。
「一応……その、アレだ……俺が今日晩飯用に作った……やつだ」
恥ずかしげに目を背けつつ英輔が言うと、プチ鏡子はへぇ、と驚嘆の声を上げ、麻婆豆腐へ視線を向ける。
「私のいない間にこんなことが出来るようになっていたのね……。食べられないのが残念だわ」
心底残念そう嘆息しつつ、プチ鏡子は肩をすくめて見せた。
「母さんが帰ってきたら、また作るよ」
「そう、ありがとう」
そう言って微笑むプチ鏡子と、恥ずかしげに頬を人差し指でひっかく英輔。そんな微笑ましい光景を横目に見つつ、永久はいただきます、と握っていたスプーンで麻婆豆腐をすくい、口に運んだ。
「うん、おいしい! すっごくおいしいよこれ!」
感嘆の声を上げつつ、夢中で麻婆豆腐を食べる永久に、英輔は嬉しげにそりゃ良かった、と答えた。
そんな楽しげな様子を、由愛はスプーンさえ手に取らずに不服そうな表情で見つめている。どこか寂しげなその表情は、英輔とプチ鏡子のやり取りを羨んでいるように永久には見えた。
「どうした、嫌なら食わなくて良いぞ」
嘆息しつつ英輔が悪態を吐くと、由愛はハッと我に返ったかのようにスプーンを握りしめる。
「う、うっさいわね! 食べるわよ!」
言いつつ由愛はスプーンで麻婆豆腐をすくい、口に運ぶ。何かを調べるかのような顔でしばらく噛み続けた後、やや意外そうな顔でまあまあじゃない、などとこぼす。
「悪くないだろ?」
ニコリと微笑みながらそう言った英輔に対して、由愛は何も答えなかったが、麻婆豆腐を食べる手は止めていなかった。
「そういえば……」
そんな様子を眺めつつ、不意にプチ鏡子はそう言って話を切り出す。
「あの子はまだ、帰っていないの?」
ピタリと、英輔の表情が停止した。
「あの子……?」
永久がプチ鏡子の言葉を繰り返すが、それには誰も答えない。
しばしの沈黙。
食器の音が小さく響くばかりの静寂の中、最初に口を開いたのは英輔だった。
「リンカは……まだ……」
そう言って口をつぐみ、うつむいてしまった英輔に対して、永久はこれ以上何か聞こうという気にはなれなかった。
町のはずれにある森の中で、一人の少女と一人の男が全速力で走っていた。
少女の方はやや動きにくそうな……フリルや装飾の多いドレスのような服装をしていたが、それを気にするでもなく足を素早く動かしている。長く美しい、ウェーブのかかった金髪を揺らしながら、小学生のようにも見えるその小さな体躯で、少女は隣の男と同じ速度で走っていた。
隣にいる男は少女とは対照的に地味な服装で、ぴっしりとしたスーツ姿だ。少女の倍以上はあるかのような長身で、スラッとし過ぎて逆に食生活が心配になる程に細い。
そんなデコボコな二人は全速力で駆けながら同じ方向を――上を凝視していた。
「お待ちなさいっ!」
二人が見上げていたのは、人だった。
木の枝と枝を交互に飛び移りながら、まるで漫画の中の忍者のように移動するその女を、二人は追いかけているのだ。
お下げに結ってある長い髪を夜風に揺らしつつ、その女は軽快な動きで少女達との距離を離していく。
「待てと言われてはいそーですかと待つ馬鹿がいるとでも思って?」
茶化すような物言い。少女は怒りを露わにして何か言おうと口を開くが、それよりも女がもう一度口を開く方が早かった。
「私は風! 風なのよっ! 風に追いつけるとでも――」
強く、折れんばかりに枝の上で踏み込むと、女はそのまま高く跳躍した。
「思っているのっ!?」
最早それは、飛翔だった。
高く飛んだ女は、段々点のように小さく見え始める。それを見つめ、少女はピタリと足を止めると、舌打ちしつつ右手を空へかざす。
「いい加減にっ――」
「姫様」
少女と同じように足を止めた男は、少女のかざした右手を制止するかのように自分の右手を乗せた。
「恐らく、この距離ではもう届かないかと……」
静かにそう告げた男に、姫様と呼ばれた少女――アクネスはもう一度舌打ちをして見せる。
「お黙りなさいアルビー……正論だけどお黙りなさい」
やや理不尽な理屈ではあったが、それに対して何か言うこともなくアルビーと呼ばれた男は申し訳ございません、と頭を下げた。
「あの女……姫様の元へ送られてきた写真の女と同一人物ですね……」
アルビーのその言葉に、アクネスは小さく頷いた。
「間違いありませんわね」
まとわりつく長い金髪を右手でかきあげつつ、アクネスはそう答えてもう一度空を見上げた。
「あの女が何かしでかす前に、何としてでも止めますわよ」
「はい」
アクネスの言葉に、アルビーは強く頷いた。
目が覚めると同時に、視界に入ってきたのはカーテンの中から差し込む太陽の光だった。
その眩しさに一度目を閉じつつも、英輔はゆっくりと身体を起こしつつもう一度両目をしっかりと開く。
「くそねみぃ」
気だるげにそうは言いつつ、昨日の夜から家に客人がきていることを思い出し、慌てて部屋の時計へ目を向ける。今は春休みで学校はないのだが、どうやら日頃の習慣で身体が早く起きてしまったらしい。まだ時刻は午前七時前だった。
「支度すっか……」
いつも通り自分だけなら朝は適当に済ませるのだが、客人がいる以上はある程度のもてなしはしなければなるまい。そう考えて、英輔は身支度を済ませると朝食を作るためにすぐ部屋を後にした。
自宅からは遠い学校の寮で暮らしている妹の部屋に、客人を泊めている状況は別に初めてではない。少し前までそこには一人の少女が暮らしていたくらいである。
「リンカ……」
階段を降りつつ、少女の顔を思い出しながら英輔は小さく嘆息する。
もう過ぎたことだ。いつまでも引きずるべきではない。
わかってはいても、いつの間にか英輔は彼女を求めていた。いつかどこかで、もう一度会えると、前のように暮らせるかも知れないと、根拠もないのに信じてしまっていた。
馬鹿らしい。
内心で一笑に伏しながら下の階に降りると、ズルズルと麺をすする音が聞こえてきた。
匂いから察するに、カップラーメンか何かだろう。
「永久達……か?」
今家の中にいるのは英輔と永久達だけなので、恐らく永久達なのだろうが……。英輔には、永久達が人の家に来て勝手にカップラーメンを食べるような人達には感じられない。
別に何かしら問題があるわけではないが、マナー違反と言えばマナー違反だろう。
「やれやれ……」
若干の失望を感じつつリビングへ英輔が向かうと、そこにいたのは永久でも由愛でも、プチ鏡子でもなかった。
あの三人の中に、ワイルドな無精髭を蓄えているような奴はいない。
「は……?」
肩まで伸びた長めの黒髪を一つにしばり、170センチを優に越えた長身を丸めてズルズルとカップラーメンを食べているその男は、昨日英輔が泊めた客人の誰とも違っていた。
「な……ッ……なッ……!」
戸惑いを隠せず、思わず声を上げた英輔に気付いたらしく、男は英輔へ視線を向けた。
「お、英輔」
その男を、英輔は知っている。
それも、生まれた時からずっとだ。
「い、いつの間に……?」
男は口元についたカップラーメンの汁を右手で拭うと同時に、英輔へ屈託のない笑みを見せた。
「久しぶりだな、英輔」
「どの面下げて帰ってきやがったんだこの――――」
わなわなと震える拳を握りしめ、英輔は男に対してこう叫んだ。
「クソ親父ッ!」
英輔の怒声が、家中に響き渡った。