World2-1「胎動」
それはいつのことだったか。
もしかしたらもう何十年も前のことかも知れないし、もしかしたらほんの四、五年前のことかも知れない。
ここ最近のことでないことだけは確かだけど、もういつのことだったか思い出せない。
でも、色濃く残る。
まるで絵画のように鮮明に思い出せる夕焼けと、その顔。何色使えばその色を出せるのかなんて、画家でないどころか授業以外でまともに絵を描いたことすらない自分にはわからないけど、ただ、とても鮮やかで綺麗な風景だったことだけは覚えている。
美化、されているだけかも知れない。
それでも良かった。
「俺がずっと、一緒にいるよ」
すぐにでも嘘になりそうな言葉を、愚直なまでに信じ続ける。いや、もう嘘になっているのは明確だというのに、そこから目を背けてまで信じ続けている。
「大好きだよ」
ウソツキ。じゃあ助けてよ。
「アンタさぁ、いつまで学校来んの?」
おかしな質問だった。そのハズなのに、それを言ったショートパーマの少女はまるでそんな問いかけが当然であるかのような態度である。
彼女のその表情に塗りたくられた侮蔑は、少女の視線を壁のタイルへと向けさせた。
タイルと少女が見つめ合うこと数秒。やがてすぐに、別の……ウェーブのかかったロングへアの少女が少女の顔を覗き込む。
「あれぇ、シカトする気ぃ?」
顔を覗き込まれた少女がすぐに顔を背けると、ロングヘアの少女は少女の長いツインテールの片方を右手で乱暴に掴み上げた。
「痛っ」
小さく声が聞こえて、パーマヘアとロングヘアの二人は嗜虐的な笑みを浮かべた。
「大っ体何なのこの髪型……小学生じゃないんだからさぁ」
「や、やめ……」
少女がそう言いかけるやいなや、ロングヘアは手綱でも引くかのようにツインテールを引っ張る。と、同時に少女のか細い悲鳴が申し訳程度に響いた。
「ダッセーガキかよ! マジウケル」
パーマヘアが品のない笑い声を上げると、それに釣られるようにして、ロングヘアはクスリと笑みをこぼした。
南白高校、朝の女子トイレの風景だった。
「その辺にしときなさい」
不意に、そんな声が女子トイレの入り口から響いた。
「優……」
優、と呼ばれた少女……浅木優は、黒いショートヘアを揺らしながらパーマヘアとロングヘアの二人へ歩み寄ると、その切れ長の目に黒縁眼鏡のレンズを合わせた。
「ジュンもユッカも、そろそろ教室戻んないとHR始まっちゃうよ?」
パーマヘアのジュン、こと小坂淳子とロングヘアのユッカ、こと園部佑香はツインテールの少女から優へと視線を移した。
「もうそんな時間?」
ツインテールから手を離しつつ佑香がそう問うと、優は首肯する。
「ヤッベ、急がなきゃ」
淳子がそう言って女子トイレを出て行くと、それについて佑香も女子トイレから駆け出していく。
それを横目で見送った後、優はチラリと残った少女へと視線を向けた後、拒絶するかのように背を向け、山本さんも遅れるわよ、と冷淡に言い残して女子トイレを去って行った。
その背中を見つめながら、山本さん……山本李那は、先程まで掴まれていたツインテールを片手で撫でつつ、滲んだ景色を右手で拭った。
「学校だーっ!」
南白高校の校舎の前、別の高校のものと思しき制服を着た女子生徒が両手をいっぱいに広げて大声を上げていた。
校門の外から、道を通る人々が訝しげな視線を向けているが彼女はそれを気にする様子もない。
黒く長いストレートロングに白いカチューシャ、紺のセーラー服――坂崎永久である。
「まさかまた学校に来られるなんて……」
感慨深げに校舎を眺める永久のポケットから、ひょこりと小さな人形――プチ鏡子が顔を出すと、やや呆れ気味に笑みをこぼしながら嘆息した。
「もう編入手続きは済ませてあるハズだから、職員室に行って挨拶してくると良いわ」
「そだね。私……転校生かぁ……」
心底嬉しそうに微笑みつつ、永久は下駄箱へと歩いていく。
「もうこんな『普通』のこと、出来ないと思ってた」
「そうね……でもやらなきゃいけないのは勉強じゃなくて――」
わかってる、と、プチ鏡子が言葉を言い切るよりも先に永久はそう言って、そのまま語を継いだ。
「欠片探し、でしょ」
ツインテールの少女、山本李那が教室に入るなり自分の席で突っ伏すのを、そこからやや離れた席から座って見ていた。
目にかかる程度に長くなった前髪を右手でいじりつつ、男子生徒――山木真はややなで気味のその肩をすくめた。
「気になるか?」
不意に上から聞こえた渋めの声に、真は別に、と素っ気なく返した。
見れば、薄らと髭の生えた男子生徒が真を見下ろすようにして隣に立っていた。
「何だ陽か」
何だとはご挨拶だな、と苦笑いする男子生徒――真桜陽から視線を外し、真はめんどくさそうに再び前髪をいじり始めた。
――そろそろ切り時か。
本当にその話題がどうでも良かったのか、それともその話題から目をそらしたかったのか、真はそんなことをふと考えた。
「また女子共がなんかやったんだろ」
「興味ない」
「陰湿なモンだよなぁ……トレイに連れ込んで~なんて天ぷらなこと……いや、てんぷれだったか?」
「うるさいな、興味ないって言ってるだろ!」
しつこく話しかける陽に、真が突如声を荒げると、陽は驚いたように肩をびくつかせた。
「カリカリすんなよ。気になってる証拠だぜ?」
ややにやけつつ言う陽に、真は短くうっせ、と答えた後少しだけ間を開けて口を再び開いた。
「んなこと気にしてる暇があったら、次の中間で点数取る方法でも考えろっつーの」
「あひっで、そういうこと言うのなお前」
そんな言い合いをしながらも、二人の表情には薄らと笑みが浮かべられていた。
「ってかお前も点数どっこい――」
どっこい、と言葉を続けようとした陽の口が止まったのは、教室の中に担当教員が入ってきたのがチラリと見えたからだった。
「げ、席帰るわ」
「おう、後でな」
慌てて自分の席へ戻る陽へ右手を上げて短く別れを告げると、チラリとだけ真は李那の方を見たが、すぐにその視線は教卓へ立った教員の方へ向けられる。
「よーしじゃあ席についてくれ」
首から提げられている榊孝太郎、と書かれたネームプレートを揺らしながら、このクラスの担当教員である榊は教卓へ両手をついた。
「センセー、愛しの玲奈は一緒じゃないんですかー」
「はいそこ、うちの保険医を呼び捨てにするんじゃないー」
女子生徒による茶化したようなその言葉に、榊は苦笑しつつそう答える。
ちなみに「愛しの玲奈」とは、南白高校で保険医をしている女性、津村玲奈のことである。榊と津村の二人が付き合っていることはどういうわけか生徒の間に知れ渡っており、本人達がそれを全く否定しないためか公認の「ネタ」となっている。「愛しの玲奈」というのは、どこかで榊本人が津村に言っていたのを生徒の誰かが聞いてネタにしたとかそうでないとか。
「よしまあ玲奈はさておき、HRの前に転校生の紹介するぞー」
さらりとうちの保険医を呼び捨てにしつつ、榊は教室全体に聴こえる声でそう言った。
どうやら転校生については既に少し噂になっていたようで、生徒達からの反響は「やっぱりか」だとか「男子ですか女子ですかー」だとかそう言ったものだった。
やれやれどこから漏れるのやら、などとぼやきつつ、榊は教室のドアを開けると、外で待っている「転校生」に入ってくれ、と声をかける。
「「おおー!」」
同時に、教室中から声が上がる。
中に入ってきたのは、長い黒髪の女子生徒だった。
南白高校の制服であるブレザーとは違う、やや古めかしく感じる紺のセーラー服を着た少女で、スカート丈の長さが余計に古めかしさを際立たせる。
少女は榊に渡された白いチョークでサラサラとその名前を黒板に刻むと、黒髪を舞わせながら生徒達の方へ振り向いた。
「坂崎永久です。よろしくお願いします」
ペコリと。丁寧にお辞儀をするその少女を、真は相変わらず前髪をいじりながら見つめていた。