World13-8「一切れのパン」
上も下もない、真っ白な空間だった。どこを見回しても白一色のその世界で、永久は呆然とその場に立ち尽くしている。
どうしてこんな場所にいるのかうまく思い出せない。こんな景色を今までの旅の中で見たような気もするが、それとここは恐らく別の場所だろう。
しばらくそのまま立ち尽くして、何をするでもなく白い景色を見つめていると、背後から誰かの視線を感じる。すぐに振り返ると、そこに立っていたのは長い白髪の女性だった。
どこか永久に似た顔立ちの彼女は、どこか悲しげな表情で永久を見つめている。
「お母……さん……」
永久の言葉に、女性は……母マリアは悲しそうな表情のまま笑顔を浮かべた。
どうしてだとか、何でだとか、そんな言葉が浮かぶよりも早く、永久はマリアの身体に飛びついた。抱きしめれば折れてしまいそうな体躯だったが、マリアはそれでも優しく永久を包み込んだ。
「お母さん……お母さんっ……!」
子供のように繰り返して、永久は母の胸の中で泣きじゃくる。もう何もかもぐちゃぐちゃで、きちんとした言葉も紡げないまま永久は――――レイナは涙を流し続けた。
「レイナ、レイナ……」
「お母さん……お母さん、私もうわからない。何にもわからない、何も決められない、どうしたら良い……? ねえ、教えて……」
何もわからない。何もかも委ねてしまいたかったし、もう自分の足で立てる気がしない。今日まで歩いて来れたのは、刹那が支えてくれたからだ。しかしそれももう何だかわからなくなって、もう立てなかった。
「ねえレイナ、生まれたこと、後悔してる?」
そっと長い黒髪をなでながら、マリアはそんなことを問う。
こんなに辛いなら、生まれて来なければ良かった。最初から何もなければ、何の意味もなければ良い。そんな思いを吐き出してしまいたかったが、それを生みの親のマリアに言うことは憚られた。
それを察してか、マリアは辛そうに目を伏せた後もう一度永久をなでる。
「意味がないって、何もかも無駄だって、本当にそう思うの?」
「だって……だってそうでしょ……? 何をしたって、何があったって、意味なんて……」
永久のそんな言葉に、マリアは静かに首を左右に振る。
「レイナ、そんな悲しいこと言わないで。私があなたを産んだこと、意味がなかっただなんて言わないで」
それを聞いて、永久はハッとなって表情を変える。自分を否定することは、産んでくれたマリアを否定することに他ならない。永久は気づかない内に、かつて自分を唯一愛してくれたマリアさえも否定してしまっていた。
「髪、キレイに伸びたわね。本当にキレイな女の子になったわ」
愛おしそうに永久の髪を好きながら、マリアはか細い腕でギュッと永久を抱きしめる。
「……お母さんみたいに、なりたくて」
「ずっとキレイよ、私なんかより」
そんなことない。そう言おうと思ったが、今はただただ嬉しくてその言葉を飲み込む。
「それももう、意味がないって思うの?」
「……わからない。わからないよ……。でも、嬉しい」
「それで、良いの。それで」
不意にマリアは永久を放すと、今度は永久の頬を右手でなでる。
「レイナ……お願いだから、意味がないだなんて悲しいこと、もう言わないで。あなたがしてきたこと、あなたを想ってくれている人のこと、否定しないで。私のことを、否定しないで」
涙の滲んだ目で真っ直ぐに永久を見つめながら、マリアはどこか震えた声でそう言う。
「誰かのためじゃなくて良い。あの人に……お父さんに認められるためじゃなくて良いのよレイナ。あなたにはあなたの今が、未来があるわ。だから――――」
前に誰かが、そんなことを言ったような気がする。すごく最近のようでいて、なんだか遠い記憶だった。
――――アンタの過去がどんなモンかは知らねえが、今のアンタは今のアンタだ。今のアンタには、今のアンタの“今”と、“未来”がある。
過去の記憶に塗り潰されて、いつの間にか押し込められていた記憶が脳裏を過ぎる。大切な言葉を、想いを、沢山忘れていたように思う。
全部全部、なかったことにしたかった。いっそのこと、もう一度全てを忘れてしまいたかった。
「……お母さん?」
少しずつ、マリアの姿が透けていく。だんだん白の中に溶け込んでいるマリアに、永久は必死で手を伸ばした。
「待って……! 待って、まだ話したいことが! お母さん! 行かないで!」
お互いに、流れる涙を隠そうともしない。マリアが穏やかに微笑むと同時に、伸ばした永久の手が空を掴んだ。
気がつけば、ベッドの上で手を伸ばしていた。意識は朦朧としているが、顔が涙で濡れているのがわかる。ナイトと話した後、眠れないままベッドの上にいたハズなのに、いつの間にか永久は眠ってしまっていたらしい。慌てて部屋の時計を確認すると、時刻はもう既に午前十一時だった。
ナイトが、刹那がつけた条件は正午までだ。もうあまり時間は残されていない。焦燥感ばかりが募ったが、永久はまだ動く気になれないでいた。
そんな中、部屋のドアがノックされて、中に入ってきたのはアンナだった。永久の昼食にパンとスープを持ってきてくれているが、その表情はどこか浮かない。
「……どうしたの?」
よく見れば泣いた後のようで、少しだけ涙の跡が残っている。
「パパが、私のこと無視するの。全然お話してくれなくて……それで」
アンナは泣きそうな顔でそう語ったが、やがてかぶりを振ると永久の元へ駆け寄って来る。
「気にしないで! それよりトワ、今日こそ食べてよ!」
強がっているのがわかる。永久に余計な心配をさせたくない、という気持ちが伝わってきて、こんな小さな子にまで気を遣わせてしまっている自分が情けなかった。
「辛いなら、無理しなくて良いよ」
永久はそう告げたが、アンナは少しオーバーな動作で首を振って見せる。
「無理してないよ! 今から楽しくなるから!」
「今から?」
「そうだよ、アンナが今から楽しむから楽しくなるの」
何だか無茶苦茶なことを言っているようにも思えたが、アンナは本当に楽しそうな様子だった。
「……全部投げ出しちゃいたいって思わない? 逃げたいって、思わない?」
永久の問いに、アンナはしばらく逡巡するように黙りこんだが、やがて笑顔で口を開く。
「思うけど、それが全部じゃないと思う! だって、外で遊ぶと楽しいし、お母さんやトワと話すと楽しいよ? それに、それにね……」
話すのが楽しい。遊ぶのが楽しい。それはひどく当たり前のことだったけれど、永久はポカンとした表情でアンナの次の言葉を待った。
「パンを食べると、おいしいよ」
アンナは、永久が目の前で目を丸くしているのもお構いなしにそのまま語を継ぐ。
「それで良いかなって思うよ。パパと仲良く出来ないのは寂しいし、うちは貧乏かも知れないけど、それで全部全部悲しくなっちゃったりはしないよ」
悲しいことが、辛ことが、全部じゃない。どこまでも前向きで、それ故に愚直とさえ思えてしまう。だけど言葉も笑顔も、温かかった。
「もう、トワはお腹が空いてるから元気が出ないんだよ! ほら!」
アンナは更に乗せられているパンを一切れ千切ると、スッと永久に差し出す。永久はしばらく戸惑っていたが、やがてアンナの差し出したパンを受け取った。
「食べて! お腹が空いてると元気がなくなるけど、お腹がいっぱいになったら元気になるよ!」
ゆっくりと、永久はパンを口に運ぶ。かじって口に含むと、パンの香りで口の中が満たされる。柔らかいパンの食感と、噛むほど広がる甘みが永久の全身に少しずつ浸透していく。
こんなに甘いパンなのに、その味はどこかしょっぱかった。
「そう、だね……そうだよね……」
――――それで、良いの。それで。
何も食べていないせいもあるのか、パンがおいしくてたまらない。気がつけば夢中で永久はパンを頬張っている。アンナに渡された一切れを食べ終わると、永久はすぐに残りのパンへ手を伸ばす。
「おい、しい……おいしいよぅ……」
ぐちゃぐちゃの顔をなんとか袖で拭きながら、永久はじっくり味わうようにしてパンを噛みしめる。
パンを食べると、おいしい。それは当たり前だったけれど、確かにそこにある小さな幸福だ。
辛いことも、悲しいこともある。それでも決して世界はそれだけじゃない。悲しいことにばかり目を向けているせいで、そんなことも永久は見落としてしまっていた。
世界は、悲しいだけじゃない。
「パンを食べると……おいしいね……」
泣き腫らした顔でそう言った永久の言葉を、アンナは肯定するかのように微笑んだ。
一欠片も残さずパンを食べて、スープも残らず飲み干して、永久はゆっくりと立ち上がる。まだ万全だなんて思えなかったけれど、力が湧いてくるのがわかった。
「私、行かなきゃ」
「……トワ?」
時刻はまだギリギリ正午にはなっていない。刹那が果たして正午まで皆を生かしているかどうかはわからなかったが、まだ間に合うなら――――
「行っちゃうの?」
寂しそうにそう問うアンナに、永久はコクリと頷く。
「うん。私ずっと逃げてたから、もう行かなきゃ」
自分を想ってくれている人がいる。そんなことからさえ逃げていた。意味がない、無駄だと、そう思えばもう失わないですむ。そう思っていた。けれど、それでは、それこそ何の意味もない。何も見出だせない。逃げているだけでは、何も見えない。
「動くよ、私。もう逃げたりなんかしない」
永久の眼差しから固い決心を感じたのか、アンナはその場で少しだけ無理に笑って見せる。
「ごめんね、何のお礼も出来なくて。パンもスープも、おいしかった。アンナもサラも、とても温かかった。ありがとう、本当に」
「うん、いいよ。きっとお母さんも、そう思ってる」
アンナにもう一度ありがとうと告げて、永久はアンナへ背を向ける。もう、時間はあまりなかった。
「あ、あのね!」
永久の背中を呼び止めるように、アンナがそう言うと、永久は振り向かないままピタリと足を止める。
「私、いつか外の世界を見てみたい! きっと沢山キレイなものがあるよ! もしかしたら嫌なものもあるかも知れないけど、それに負けないくらいキレイなものが沢山あると思う!」
世界は、楽しいだけじゃない、美しいだけじゃない。でも、辛いだけなんかじゃない。
「だから私、いつか行くの! お母さんと……それに、きっとお父さんも一緒に! だか、ら……だから!」
いつの間にか嗚咽混じりになりながら、アンナは必死に言葉を紡ぐ。
「だからその時また……また、会える?」
アンナのその言葉に振り向いて、永久は優しく微笑んで見せた。
「うん、いつか、きっと、どこかで」
屈託なく、弾けるようにしてアンナは笑顔を見せる。それに釣られて、永久も目一杯の笑顔を浮かべた。
どこともわからぬ丘の上で、英輔、由愛、美奈子の三人は十字架に貼り付けられていた。英輔の足元には破壊されたプチ鏡子が無残にも転がっている。恐らく鏡子自身は無事だろうが、強制的に魔力のリンクが切られたことによってかなりの負荷がかかっているだろう。
「さて、来るかしらね。永久は」
三人の前には、悠然と刹那が立っている。その後ろには控えるようにしてナイトと、いつの間にか合流していたビショップが佇んでいた。
刹那の手には、例の腕輪がはめられている。恐らく由愛の持っていた欠片は既に取り込んでしまっているだろう。
「来ると良いわねぇ。私に殺されるより、大事なお友達に殺される方がまだ気持ち良いでしょ?」
煽るようにしてそう言う刹那を、三人はキッと睨みつける。
「永久は来るわ……。そして私達を助けてくれる」
由愛がそう言った途端、刹那は目の前で吹き出すとそのままケタケタと笑い始めた。
「なぁにお姫様気分? おめでたいのね、本当に。状況がまるで飲み込めていないのか、それとも見ないフリでもしてるのかしら?」
「見ないフリしてンのは……テメエだ。何もかもぶっ壊して……逃げようとしてる奴に、由愛を……笑う資格なんて、ねェ」
瞬間、刹那のショートソードの切っ先が英輔の頬をかすめる。
「うるっせえのよクソ虫が。もうまともに戦えないくらいボロボロの癖に粋がってんじゃないわよ」
「どうした……? 余裕がねェな……刹那! お前、不安なんだろ? もしかしたら永久が……お前、よりも……俺達を……選んじまうかも、知れねえのが……怖いんだろ……!」
わざとらしく、英輔は声を上げて笑って見せる。言葉は途切れ途切れで、今意識がはっきりしていること自体不思議なくらいだ。状況は絶望的だったが、せめて虚勢くらいは張っていたかった。永久が来る確証はない。来たとしてもまた刹那側につく可能性だってある。怖いのは英輔も同じだった。
「なめた口をきくのね。自分の立場わかってる?」
「ああ、わかってる……。この後……必ず助かるんだ。笑うに……決まってンだろ、なぁ?」
確認するように英輔がそう言うと、由愛も美奈子も一様に頷いて見せる。
「坂崎刹那。もしあなたが永久を信じているのであれば、英輔さんのように余裕を持てば良いのではないでしょうか。今の様子ではまるで、怯えているようですよ?」
不敵に美奈子が笑みを浮かべると、刹那はギシリと歯を軋ませる。ここまでコケにされるのは始めてだった。
「アンタは永久に裏切られるのが怖いのよ! だからこうして試すようなことをして、安心したいんでしょ!?」
「ほんっとに癇に障る……。もう時間も時間だし、とりあえずアンタから殺してやっても良いのよ」
今度は怒りの矛先を由愛に向けて、刹那は由愛の前まで歩み寄るとショートソードを振り上げる。
「……やってみなさいよ。私は怖くない! 怖くなんかない! 永久は来る! 来て、アンタなんかやっつけちゃうんだから!」
由愛だって怖かった。このまま永久が来なかったらと思うと絶望の中に沈んでしまいそうになる。しかしそれでも永久を、英輔の言葉を信じたかった。
絶望して、全てを投げ捨てようとして、そんなことしたってどうにもならなかった。居場所は見つからなかった。だからもう、同じ轍は踏まない。
「あ、そう。じゃあ真っ先に死になさいよ!」
激昂し、刹那はショートソードを振り下ろし始める。その動作がまるでスローモーションであるかのように、一瞬の内で由愛は走馬灯のように様々な記憶を思い返す。
永久が手を差し伸べてくれた、握りしめてくれた。永久の言葉が、永久が、永久が。鏡子がいた、英輔がいた、美奈子もいた。独りぼっちだった由愛を、沢山の出会いが変えてくれた、救ってくれた。だからこそ、きっかけを作ってくれた永久に何か返したかったけれど、それももう叶わないのだろうか。
意を決して目を閉じると、涙がこぼれた。あんなに消えたいと思っていたのに、今は死ぬのが怖かった。
――――まだ嫌だ、まだいたい、だって、だって……
「だって私はっ!」
次の瞬間、激しい金属音が由愛の耳を劈いた。慌てて目を開けると、紺色の背中が、襟を舞わせていた。
あふれる涙が止まらない。長い黒髪と紺のロングスカートが揺れて、一人の少女がそこに立って刹那のショートソードを防いでいた。
「こっ……のっ……! 何でっ……アンタァッ!」
今まで見たこともないような表情で、刹那は少女を睨みつける。余裕も何もない、怒りが、失望が、困惑が、何の装飾もなく顔へごちゃごちゃに貼り付けられていた。
「ごめん刹那。私、もう逃げないって決めたから」
少女のショートソードが、刹那のショートソードを強く弾く。遠巻きに見ていたナイトとビショップが動揺した様子で少女を見ていた。
「と……わぁ……永久ぁ……っ!」
少女を、坂崎永久を。
「刹那っ!」
刹那のショートソードを弾いた後、永久はたたらを踏んだ刹那の右腕――――正確には腕輪を掴む。すると、腕輪は吸い込まれるようにして消えた後、永久の右腕へとはめられた。まるで腕輪自身が、永久にはめられることを望んでいたかのように。
「こっの……っ!」
そのまま永久は間髪入れずに武器を切り替える。永久の姿が光り輝いて、セーラー服から甲冑姿へと変化する。
「どいて!」
すぐさま永久が大剣を振り下ろすと、真っ白な衝撃波が刹那を吹っ飛ばす。それをチラリとだけ見た後、由愛の方を……皆の方を振り向いた。
「永久の……永久の馬鹿! もう駄目かもって、永久が帰って来ないかもって思っちゃったじゃない!」
「ごめん。ごめんね」
今度はショーテルへ武器を切り替えると、永久は高速で全員を十字架から解放する。地面に降りた瞬間、由愛はセーラー服姿へ戻った永久へ飛びついた。
「私、私ね! 返したいの! 私のこと助けてくれた永久に、独りぼっちだった私の傍にいてくれた永久に!」
「うん……うん」
泣きじゃくる由愛の頭をなでながら、ただただ永久は頷いた。
「もし永久に居場所がないって、そう思うなら……! 私が、皆が居場所になるから……だからっ……!」
涙混じりの細い声。由愛はそっと永久へ手を差し伸べる。あの時、永久がしてくれたように。
「だからもう、消えたいだなんて言わないでよぅ……!」
「うんっ……そうだね、ここなんだね……。ここに、ここにあったんだね、私の居場所が……私の旅の中に……っ!」
旅は無駄なんかじゃなかった。無意味なんかじゃなかった。
永久自身を肯定してくれる居場所は、そこにあったのだから。