World13-6「流れた先に」
ベッドに横たわるその女性の手を少女は――レイナはずっと握りしめていた。随分と弱々しくなってしまった青白いその手を、温めるように両手で包み込んで、レイナは不安そうに女性を見つめていた。
「心配しないで、きっと大丈夫よ」
もう、何度そんな言葉を聞いただろう。心配ない、大丈夫、どの言葉も嘘だとわかっていたけれど、レイナはいつもその言葉には笑顔を返した。本当は笑ってなんていられないし、彼女が大丈夫だなんて少しも思えない。日に日に顔がやつれていって、どんどん立っていられる時間が短くなって、もう今となってはベッドから出ていることなんて滅多にない程だった。
「ごめんね、ごめんね、私のせいで……」
彼女がこうなったのは自分のせいだ。レイナは常にそう思っていたし、父も言葉にはしなかったけれどそう思っているのは明白だった。父がレイナに向ける視線はいつだって冷たくて、どこか憎悪が込められていた。
「そんなことないわ。あなたのせいじゃない」
「でも、でも……」
「あなたが生まれたせいだなんて、そんなの悲しすぎるでしょう?」
握られていた手をそっと放して、彼女はレイナの頭をなでる。本当は安心したかったけど、こんな弱々しい手でなでられると逆に不安になってしまう。もうほとんど力が入っていないか細いその手は、まるでもう彼女が長くないかのようで。
「綺麗な髪……。伸ばしてるのね」
「うん……お母さんみたいに……」
彼女は、母――マリアの髪は黒く美しかった。そんなマリアに憧れて、レイナは髪を伸ばし続けている。しかしそんなレイナの思いを嘲笑うかのように、マリアの髪は少しずつ艶を失っていき、衰弱し切ったマリアの髪は真っ白になってしまっている。そんなマリアの姿を見る度に、レイナは何だか苦しくて泣き出しそうになってしまう。
「レイナ……レイナ……」
愛おしげに、慈しむように、マリアは繰り返す。とにかく今はそんなマリアに包まれていたくて、レイナは心地良さそうに目を閉じる。ずっとこのまま、抱きしめられるようにして包まれていたい。それが叶わない願いだなんてことは、誰よりもレイナ自身がわかっていた。
「あ、起きた起きた、ほら!」
そんな嬉しそうな声を聞きながら、永久はゆっくりと閉じていた目を開ける。何だか遠い昔の夢を見ていたようで、まだ感覚に現実味がない。少しずつボンヤリとしていた感覚が、痛みを伴ってハッキリしていく。
「うっ……」
身体を起こそうとして、永久は小さくうめき声を上げる。まだ何がどうなっているのかよくわからないが、ひどく痛んで身体をうまく起こせなかった。
「あ、駄目だよ無理して動いちゃ! 傷だらけだったんだから!」
永久を覗きこむような姿勢のままそう言っているのは、褐色の肌の少女だ。まだ幼く、十歳前後に見える。薄汚れた白いワンピースを身に付けており、顔もどこか痩せこけているが表情は明るい。永久が目を覚ましたことが嬉しいのか、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら後ろにいる女性に見て見て、と繰り返している。
後ろの女性は母親だろうか。少女と同じ褐色の肌で、顔立ちもよく似ている。
「あの……私、は……?」
身体を起こすのを諦め、首だけを少女達へ向けて永久が問うと、女性は穏やかに微笑んで見せた。
「近くの川で倒れていたのをこの子が見つけたんです。酷い怪我だったみたいですけど、大丈夫ですか?」
少しずつ気持ちが落ち着いていくに連れて、何がどうなっているのかを永久は理解していく。あの時英輔と戦って、お互いに全力でぶつかり合ってその後……
「私、どれくらい倒れてたの……?」
「三日くらいは寝込んでいたと思います……」
「……三日!?」
驚いて永久は身体を起こそうとしたが、痛む身体はそれを簡単には許してはくれない。ゆっくりと、慣らすように永久は少しずつ身体を起こしていく。
あの後英輔や皆がどうなったのか、刹那やナイトがあの後何をしたのか、それを知る術は今の永久にはない。どうやら本当に弱っているようで、アンリミテッドの気配をうまく感じ取ることさえ出来ない。コアの方は特に変化はないようだが、思った以上に英輔との戦いは永久の身体にダメージを与えているようだった。
そうこう考えている内に、次第に脱力感が押し寄せてくる。これ以上何をどうしたって意味がない気がしてきて、永久は身体から力を抜くようにしてもう一度枕に頭を乗せた。
そもそも何にも意味なんてない。何もしなくて良いなら、その方が良い気さえする。
「ねえ、動けないならしばらくここで休んでてよ!」
不意に、そんなことを言い出したのは少女だった。どうやら彼女は、見慣れない格好をした永久に興味津々なようで、目を輝かせて永久のことを見つめている。この世界にとって永久の姿がどの程度異質かはわからなかったが、このはしゃぎ方から考えるとそもそもこの少女は外の世界のことをあまり知らないのだろう。
「でも、迷惑なんじゃ……」
「いえいえ、少しくらい構いませんよ。むしろきちんとおもてなし出来なくて申し訳ないくらいですから」
女性が柔和な表情でそう言うと、少女は嬉しそうに表情を明るくさせる。
「ほら、決まり決まり! ねえ名前は!?」
「名前……? 永久。私は、坂崎永久だよ」
思わず口にした名は、レイナではなく永久だった。
レイナという名は、辛い記憶ばかりが付随する。ヨハンを、マリアを、過去を思うだけで陰鬱な気分になる。記憶を取り戻した今でも、永久にとって過去が忌むべきものであることに変わりはなかった。
「トワ? 変な名前!」
「こら、失礼でしょう!」
思わず吹き出した少女を、女性は軽く叱りつける。永久という名前は日本であってもそれ程一般的な名前ではない。彼女にとってその名がおかしく聞こえるのは当然のことだろう。
少女と女性のやり取りを眺めながら、永久は思わず目を細める。喉から手が出る程に永久が欲しがった風景が目の前にあって、思わず嫉妬してしまう。けれども、そんなことに感情を強く動かせるような気力は今の永久にはない。ただボンヤリと、まるで夢か何かでも見るかのように永久は二人のやり取りを見つめていた。
「ごめんなさい、娘が……」
「ううん、気にしないで。それより、あなた達は?」
「アンナ! 私はアンナだよ!」
永久の問いに女性が答えるよりも先に、アンナと名乗った少女が元気良くそう答えた。
母親の方はサラと言い、この家はサラとアンナの二人暮らしとのことだった。
最初にこの世界に来て、永久が刹那達と行動していた場所はもう少し栄えた様子だったのだが、永久が流れ着いたここはそういうわけではないらしい。サラの話だと町というよりは集落のような感じで、農業を行いながらひっそりと暮らしているらしいのだ。
あまり金銭的な余裕があるようには見えなかったが、サラとアンナはなるべく永久に不自由がないよう精一杯もてなしていた。しかし永久の方は何も口にする気が起きず、精々時折水を飲む程度で食べ物はほとんど口にしなかった。
物を食べるような精神的な余裕はない。サラやアンナと多少の会話はするものの、どこか上の空と言った様子で、今も永久はボーッと天井を眺めている。
結局どうするべきなのかもわからないまま一日は過ぎていき、眠れないまま永久は真っ暗な部屋で天井を見つめているだけだった。この部屋はサラの夫の部屋らしいが、出稼ぎであまり家に帰って来ないらしい。
刹那のこと、アンリミテッドのこと、鏡子のこと、英輔のこと、由愛のこと、美奈子のこと……色んな顔を思い浮かべて見ても、特に考えはまとまらない。どうするにしたって身体が動きたがらない以上はどうしようも出来なかった。
永久がここまでダメージを受けているということは、きっと英輔のダメージも尋常ではないだろう。そもそも永久は生まれついてのアンリミテッドだが、英輔は違う。力こそアンリミテッドに肉薄したものの、彼の身体は普通の人間だ。その上あんな力を無理矢理行使した以上無事でいられるハズはないだろう。あの場には刹那やナイトもいたし、最悪の場合刹那に殺されていたっておかしくはない。
そんな厭な想像を振り払うようにしてかぶりを振って、そんな自分の思いに自嘲気味に笑みをこぼす。
「意味なんて、ないのに」
世界に、全てに意味がないのなら誰が死んだって生きていたって意味がない。意味のないことに一喜一憂するから辛くて、苦しい。それが嫌で刹那と一緒に何もかも壊したいのではなかったか。
刹那のようになりきれない半端な自分が恨めしい。結局永久はけじめをつけられたわけでもなく、今もこうして何も決められないままでいる。
――――刹那の言葉は刹那の言葉だ! お前は自分で考えるのやめちまって、刹那に寄っかかってんだよ!
英輔の言う通りだ。永久はもう自分では何も決められていないし、あれからずっと刹那に言われるがままに行動し続けていた。
いや、きっと昔からそうだった。永久は自分の意思で歩けてなどいなかったのかも知れない。いつだって誰かのために、父親のために戦って、報われないと知っていながらも傷つき続けていた。そう考えるとやはり、そんなことに意味があっただなんて永久には思えなかった。
ひどく寂しく感じて、永久はベッドの中で両肩を抱く。寄り添ってくれる誰かが欲しかったけれど、父も母も今はもういない。
「刹那……」
呟いて、今までどれだけ自分が刹那に寄りかかっていたのを再認識した。
あの戦いの後、英輔達三人とプチ鏡子は刹那によって囚われていた。どこかの廃屋の一室……というよりは物置きに閉じ込められているようだが、全員一度気を失ってから運び込まれているせいでどこなのかもわからない。当然、空間歪曲システムも、英輔の持っていた宝玉も、そして由愛の持っていた欠片も全て刹那によって奪われてしまっている。美奈子は次元管理局によって永久から奪われていた腕輪も永久へ渡すために隠し持っていたのだが、それも刹那に奪われてしまっていた。
全員両手両足を縛られており身動きが取れない。ご丁寧にプチ鏡子もしっかりと縛られており、閉じ込められている全員が床に転がされた状態のままになっている。その上、全員が刹那との戦闘によって弱っているため、ハッキリ言って外部から何か働きかけられない限り脱出出来る可能性は絶望的だった。
「……刹那は何故、私達を殺さなかったのでしょうか」
「わからないわ。試してみる……とは言っていたけれど」
ポツリと呟くように言う美奈子へ、プチ鏡子はそう答えて静かに息を吐く。
「それよりも英輔……英輔は無事なの……?」
プチ鏡子の問いには、誰も答えない。英輔はあれから気を失ったままで、時折呻き声を上げるものの意識を取り戻す気配はない。永久との戦いのダメージもあるが、鏡子が推測するにあのダメージは龍衣によるものだ。どれだけ魔術が使えようと、どれだけ戦いに慣れていようと英輔の身体は一般的な人間の身体だ。あんな大きな力を突然使ってついていけるハズがなかったのだ。
「英輔っ……!」
嗚咽混じりに英輔を呼ぶプチ鏡子を見つめながら、美奈子は悲しげに目を伏せる。いくら気丈に振る舞ってはいるが彼女とて普通の母親だ。息子がこんな状態になって平常心でいられるハズがない。
「アンリミテッドって……アンリミテッドって、一体何なのよ……」
それから少し間を空けて、そう呟いたのは由愛だ。捕まってからしばらくは泣いていたものの、今はどこか落ち着いた様子に見える。
「アンリミテッドの生まれた世界で言えば百年以上前、その世界に存在した”魔法使い”と呼ばれる存在が生み出したコアによって生まれた超常種……。管理局でもわかっているのはこの程度です。実際にアンリミテッドの存在が観測されたの自体、坂崎永久と坂崎刹那が目覚めた時が初めてでしたので、詳しくはわかりませんが」
「魔法使い? 英輔の魔術とは違うの?」
由愛の問いに、美奈子はいいえ、と短く答えた後言葉を続ける。
「魔力を扱うという意味では源流は同じかも知れませんね。魔力を直接自身の魔術属性として具現化する英輔さん達魔術師と違って、魔法使いは魔力を介して異界の力を借りていると聞きます」
――――それは単なる言葉の違いだ。私が言いたいのは、その魔力の使い方が極めて単純かつ原始的だと言いたい。
そこで、かつてナイトが言っていた言葉を思い出す。魔術師ではない由愛にはよくわからない話だったが、ナイトが言いたかったのは多分そういうことだろう。
「しかし、しかし何故……アンリミテッドは、坂崎永久は世界を壊すなどと……!」
冷静に振る舞ってはいたが、やはり美奈子も動揺は隠せない。そんな美奈子とは対照的に、由愛は落ち着いた状態を保っていた。
「……もうどうしようもないわ。今の私達には……何も出来ない」
何はどうあれ、状況が絶望的なことは変わりない。今の状態では何も出来ないし、ただ静かに待ち続けることしか出来ない。それも絶望をだ。今までの旅の中で、プチ鏡子がここまで諦めたような言葉を吐いたことはない。それが何を意味するのかは、まだ共に旅をし始めたばかりの美奈子にさえ理解出来た。
「とにかく今は様子を見るしか……」
様子を見る。様子を見てどうするのか。このまま待っていれば何か打開策でも見つかるのだろうか。少しだけそう考えて、自分が特に意味のない発言をしたことに気がついて美奈子は嘆息した。
「永久が来るわ」
そんな中、確信を込めた調子で由愛が呟く。
「来る……? 来るって永久が? あの子だって無事じゃないのよ……? それに、それにあの子は英輔と本気で戦ってたのよ!」
そこで語気を荒げたのは、意外にもプチ鏡子だった。息子をここまで傷めつけられたのだ、永久に対して怒りを感じているのは至極当然のことだった。
「英輔だって言ってたじゃない、信じろって」
「だけどっ……!」
――――お前がするべきことは、諦めることなんかじゃないハズだろ。
英輔の言葉が、大きな柱となって由愛の心を支え続けている。本当は由愛だって不安だったし、怖くて仕方がなかった。
あの時永久は、英輔の言葉を拒絶しながらもどこかその表情は悲しげだった。消えたい、壊したい、そんな言葉ばかり口にしながらも永久は一度も笑わなかった。楽しみながら破壊と殺戮を繰り返す刹那と違って、永久はどこか悲しげに、寂しげに、まるで胸を痛めるかのように力を振るっていた。
「刹那の口ぶりからして、永久はきっと生きてる……。だから私、信じたい」
それはまるで、薄暗い闇の中に小さな灯りを灯すかのような言葉だった。由愛は少しも諦めてはいない。きっと誰が何と言おうと、由愛は頑なに永久を信じ続けるのだろう。
「……信じるしか、ありませんね」
美奈子の言葉に頷き、由愛は目を伏せる。今は、信じるしかなかった。