さくらのふうけい
会社の決算が近づくと大した利益も上がっていなくても余分な仕事が増える。一円の利益にもならない決算書のために残業代まで支払って従業員に頭を下げて働いてもらう季節の到来に私はうんざりしていた。税理士の事務的な対応もこの時ばかりは凄みを増し、日常業務にまで支障をきたす。
「やっぱり法人化しようかなぁ」私はこの時期になると必ずそう思っていた。青色申告の提出期限は三月。誰がこんな制度にしたのだろうと毎年思った。十二月までの帳簿を何度も見なおして分厚い伝票のファイルを引っ繰り返し目の疲れと格闘する。日々の営業を考えたらこんなことに時間は費やせない。結局毎年提出期限間近になるまで放置される決算作業。苦労して仕上げても税務署では本当に真面目に目を通したのかと思うほど短い時間で受理される。後はお決まりの納税だがこれをその場で払えるほど資金繰りは良くないので分納になる。この報われたのかそうでないのか分からない作業で三月上旬は暮れる。梅も桃も咲いているのにそんな風情に心奪われることもないまま桜の季節が訪れる。
桜の花見で時間を割くほど時間的にも精神的にもゆとりのない零細な事業。結局、毎年一人で日曜日に散歩ついでに桜を楽しんでいた。都会が如何に殺風景でも桜だけは目にすること出来る。有料の施設なら一層見事な桜を拝めるだろうと思いながら散歩道に咲く桜を満喫していた。桜の風情を楽しむ時間が制約されるような生活に疑問を抱けるのはこんな時だけだった。その桜を彷彿させる女性に出会ったのはその年の春だった。満開の桜が生活道路をトンネルのように覆い春爛漫だった。
「そこで立って見るよりここから見ればもっと綺麗ですよ」私に声をかけた若い女性は白いブラウスに花柄のフレアスカートで春を装っていた。桜のトンネルから洩れる陽射しがその女性に降りそそぎ揺れるスカートの花柄はその光景に溶け込んでいた。
「ありがとう」私はその女性が立つ歩道の端から桜を眺めた。太陽の光が程良く射し遠景まで見渡せた。風が桜を撫でるように流れていく様が一望できた。
「綺麗ですねぇ。桜は綺麗に咲きたいわけじゃないのに、人に褒められたいわけじゃないのに、不思議ですよねぇ」その女性は桜に話しかけているようだった。
「そうですね。でも自然は皆綺麗ですよ」私は普段感じないことを口にしていた。
「そう、そうなんですよ。桜も綺麗ですけど梅も桃も綺麗でしたねぇ。梅雨の紫陽花も綺麗。でも花は私たちのために咲いているわけじゃないですよね。なんで綺麗だと思うんだろう?」その女性は好奇心に満ちた目で桜を見ていた。
「綺麗だと思うのは愛でる心があるからでしょう」私は自分らしからぬことを言った。
「愛でる心かぁ。それいいですね。それいいです」その女性は手にしていたスケッチブックを開くとその場にしゃがんで桜を描きはじめた。私はその女性が描く桜を見ていた。陽射しも風も匂いさえも描きこむような絵に私は心を奪われた。その女性は描きながら鼻歌を歌いささやかな花見に華やかさを添えてくれた。何気ないはずの日常の中に私はその女性の絵を通して愛しむべき何かを知った。日々の雑事さえ尊いものに思えた。静かに流れる時間の中で私はそれまで感じたことのない優雅な気持ちになった。
「できました」その女性は描いた絵を私に見せた。鉛筆で描かれた風景はその彩りさえも容易に思いえがけるものだった。
「差し上げます。お礼です」
「お礼?」
「愛でる心。とても嬉しい言葉でした。ありがとうございました」その女性は私に絵を手渡して通りの向こうへ走り去って行った。
私は彼女の絵に目を落とした。絵の右端にサインがあった。
『Kyouko・Sakura』
一度しか逢うことのなかった女性の名は私の記憶に深く刻まれた。私が言った愛でる心を私に芽吹かせた女性の名だった。
おしまい