午後の紅茶を貴方と
暖かな春の日差し
子供たちの笑い声
心落ち着く紅茶の香り
――― なんて素敵な春の午後
「いいお天気ですね。フランゲル様」
私はにっこりと微笑んで
「……十秒以内にその分厚い書物からお顔をあげて、紅茶をお召し上がりください。さもなければ、大切な御本にうっかり熱湯を注いでしまうかもしれません」
と低く凄んだ。
九秒目にようやくティータイムを始めた男。彼は、名をニース・フランゲルと言い、王都騎士団学校の薬草学教師をしている。
私、エレノア(平民のため家名はない)がフランゲル様の世話係になって、四度目の春になる。私がこの学校に来た時、ちょうど新入生だった生徒が、この春に卒業していった。歳月がたつのは早いものだ。
世話係に指名された時は耳を疑った。自慢ではないが、私は、出稼ぎで王都に出てきた典型的な田舎娘だ。自信があるのは体力ぐらいで、学はなく、取り立てて美人でもない。運良く王都騎士団学校に使用人として雇われたが、割のいい仕事はまずこないだろうと思っていた。そんな私が教師の世話係。思わず神に感謝した。
が、人生そんなに甘くない。
菓子を頬張るフランゲル様を見やり溜息をついた。本日の茶菓子はイチゴのタルトだ。味覚がお子様で甘いもの大好きな彼の好物。しかし、彼がお子様なのはそこだけではない。
田舎にいた頃、ご近所の双子の子守をしてたことがある。
彼らは私よりも十歳年下であった。
正直言って、彼らよりもフランゲル様は手がかかる。
『エレお姉様、このご本読んで?』
と王国権利章典解説書を可愛らしく差し出した子供より、
『ほら見てエレ姉!』
と仕留めたガル(凶暴肉食狼)を誇らしげに見せてくれた子供より、
フランゲル様は困った人だった。
仕事熱心で家柄もよく性格も穏やかな好青年ではあるが、
その他の条件が酷い。
最初のうちこそ、夢見る若い乙女(玉の輿を狙う獣ともいう)が彼の世話係に立候補していた。しかし、誰一人として一週間続かなかったそうだ。使用人たちはあの手この手で彼の世話係になるのを拒否した。どんなに給料をもらったところで割に合わないからだ。
そこに来たのが、何も知らない田舎娘のこの私。
もちろん、このチャンスを逃すはずもなく、学校長様はフランゲル様の世話係を私に押し付けて下さりやがった。フランゲル様がどれだけ厄介かを理解する頃にはもう後の祭り。今更、別の仕事がいいとは言えない状況になっていた。ええ、もちろん後で、その分の手間賃をきっちりと給料に上乗せしてもらうことにしましたとも。きっちりとね。
さて、彼のどこが乙女や使用人のお気に召さなかったのか?
まず、見た目がひどい。いや、見た目どころか、人間として最低限の身嗜みさえ怪しい。今、フォークを握っている指や長袖の白衣の裾は黒や赤に所々染まっているのは、不潔に見えるが、まぁ仕方ない。薬草学の実験で染まってしまい、落ちないと知っているから許そう。
だが、努力できるところまで放棄しているのはいただけない。ぼさぼさ頭も、不精髭も、分厚い眼鏡も、改善しようと思えばできるはず。なのに、彼は面倒がってしない。おかげで、私はまだ彼の素顔を見たことがない。ああ、タルトのかけらが髭についた。急いでハンカチを出し、口元をぬぐう。お前は何歳児だと叫びたくなるのをぐっとこらえる。
ありがとう、と(おそらく)笑った彼が身にまとうのは、シミと皺だらけの白衣に、擦り切れたシャツとズボン。所々穴まで開いている。いくら新しい衣装を用意しても、彼はいつも同じ服を選ぶ。いつか、風呂に入っている時にでも捨ててやろうかと思っていたりする。
あまりの見目のひどさに、フランゲル様は、今春卒業したヘンリー・エルランゲンと二人、学校のワースト・ドレッサー賞を競い合う仲だった。違いは、ヘンリーは学校一の落ちこぼれであったが、フランゲル様は一応優秀な薬草学教師だということだろうか。
そう、目の前で紅茶を飲む男はこう見えて、教師としても学者としても優秀なのだ。
今日の紅茶はゴウハーティ産のシッギムかな? と聞く彼にいつも通り、はい、と答える。正直にいうと、紅茶の種類は分かっても、どこ産かなんて知らない。だが、およそ植物に関することで彼が間違うはずがない。
王都騎士団学校はエリート校。当然、教師たちもまた生え抜きである。将来国を背負う者たちを育てるのだ。その選考基準は厳しく、なろうと思ってなれる地位ではない。各分野から選りすぐりの学者が招かれ、研究の傍ら、教鞭をとる。彼らは教師となってなお、その分野のトップであり続ける。授業が忙しいからと研究を疎かにするような人間はもともと候補にすらなれない。
そんな選ばれし教師たちの中でもフランゲル様は生徒に人気だ。見た目こそあれだが、丁寧で分かりやすい授業だと定評があった。生徒に分からないところがあれば、彼はどこまでも根気強く指導し、時に特別講習まで行う。伝説の落ちこぼれ、ヘンリーでさえ、彼の薬草学の単位は落とさなかった。
美味しかったよ。エレノアさん。ありがとう、と使用人にまで礼を言う彼は、人間としても尊敬できる人物だ。
が、彼は生活能力がゼロだ。
むしろ、生命維持能力がゼロに近いというべきか。
頼むから、体調管理くらい自分でできるようになってもらえぬものか。
再び仕事机に向かった彼の背に、心の中で呟く。
フランゲル様は、自分の時間のほとんどを仕事に費やしている。放っておけば、教師の仕事か研究しかしない。今も、遠国から取り寄せたという専門書を一心不乱に読んでいる。
彼は一度自分の世界に入ると授業時間になるまで現実に戻ってこない。文字通り寝食を忘れて仕事をする男だ。栄養不足・寝不足・過労のトリプルパンチで授業中に倒れて保健室に運ばれた逸話は、いまだに学校の語り草になっている。おかげで彼の睡眠時間まで私が管理している。何が嬉しくて、大の大人が寝付くまでそばにいなくてはならないのだか。
仕事熱心なのはいいことだ。
だが、限度というものがある。
私(世話係)なしには生きていけない男、フランゲル様。
まったく、どうしようもない人だ。
だが、
一番困ったのは、
一番どうしようもないのは、
そんな彼が愛おしくて仕方がない私だろう。
音を立てないよう気をつけて、茶卓の片づけをはじめる。
退出の挨拶はしない。
彼の仕事の邪魔になるから。
午後のティータイム。
それは、愛しい仕事の虫に栄養を取らせる時間。
私の一番大切な時間。
***
そっと閉じられた扉に、フランゲルは大きく溜息をついた。
「今日もダメだった」
机の上には読み込まれた一冊の本。
エレノアさんには専門書と言ってある。
確かにこれは、専門書だ。ある意味で。
『プロポーズ指南書』を閉じて、フランゲルは頭を抱えた。
彼の机の引き出しの中にある指輪の存在をエレノアが知るのは、きっともうすぐ。