↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『冬の青、夜の底』  作者: 長月有希


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/10

第三話:踏み出す一歩

 二月に入ると、東京の街は底意地の悪いほどの鋭利な冷気を帯びるようになった。

 鉛色の空から真っ逆さまに吹き下ろす乾いたビル風は、厚手のウールコートのわずかな隙間から容赦なく入り込み、人々の体温と体力を暴力的に奪っていく。街路樹の細く枯れた枝が寒々しく揺れ、歩行者たちが肩をすぼめて足早に通り過ぎる中、巨大な商業施設や百貨店のショーウィンドウだけは、外気の厳しさなど存在しないかのように、毒々しいほど鮮やかな赤やピンクの装飾で彩られ始めていた。


 バレンタインデー。

 愛や恋といった、本来は目に見えないはずの形のない曖昧な感情に、甘く滑らかなチョコレートのコーティングを施し、美しいリボンをかけて大量消費させるための華やかな狂騒の季節。

 大手広告代理店のイベントチーフである佐倉真奈にとって、それは一年の中でクリスマス以上に神経をすり減らし、魂を摩耗させる過酷な日々の到来を意味していた。


 都内の大型商業施設の吹き抜け広場で展開される、バレンタイン特設会場。

 その中央にそびえ立つ、数千本の真紅のアーティフィシャルフラワーの薔薇と、シャンパンゴールドのイルミネーションで過剰に飾られた巨大なハート型のモニュメントの前で、真奈は黒いインカムのコードに冷えた指先を這わせながら、淀みなく的確な指示を飛ばし続けていた。


「限定ショコラの待機列が、二階へのエスカレーターの動線を塞ぎかけています。パーティションを至急三つ追加して、最後尾の案内スタッフを増員してください。それから、館内の環境音楽。テンポが少し速すぎて、お客様の歩調まで無意識に急がせてしまっています。ボリュームを一段階落として、もう少しゆったりとしたストリングス中心のプレイリストに切り替えられますか」


 周囲には、美しく着飾って色めき立つ若い恋人たちや、熱を帯びた目で宝石のようなチョコレートが並ぶショーケースを覗き込む女性たちの、凄まじい熱気が渦巻いている。

 誰もが特別な誰かの存在を心に描き、その甘い贈り物がもたらす幸福な結末を信じて疑わない。互いの体温を求め合い、愛されることを疑わない人間たちだけが放つ、眩しすぎて暴力的なほどの熱量。

 その熱狂の中心で空間のすべてを統制しながら、仕立ての良いネイビーのスーツに身を包んだ真奈の心は、この華やかな景色とは断絶し、分厚い氷の底に深く沈められたように冷え切っていた。


 愛とか、永遠とか。そんなものが、本当にこの世界のどこかに存在するのだろうか。

 人間は結局のところ、たった一人でこの無機質な世界に産み落とされ、誰とも本当の意味で心を重ね合わせることなどできないまま、一人で死んでいくしかないのだ。

 その残酷な真理を、幼い頃から厳格な母の冷ややかな視線によって骨の髄まで叩き込まれてきた真奈にとって、目の前で繰り広げられるこの甘やかな消費の景色は、まるで別次元の、手の届かないおとぎ話の出来事のように空々しかった。

 親が敷いた堅牢なレールから逃れるために、自らの出自を隠してこの代理店に入社した。自らの手で空間を創り出すことで、本当の自分の居場所を見つけたかったはずだった。しかし皮肉なことに、この巨大な商業施設もまた、最大クライアントである父の関連企業が運営する箱の一つに過ぎない。

 真奈がどれほど血を吐くような努力をして美しい空間を創り上げようとも、現場を視察に訪れるクライアントの重役たちは、それが自社のトップの娘の仕事だとは夢にも思わず、無神経な要求と理不尽な仕様変更を平然と突きつけてくる。


「佐倉君。このメインモニュメントの薔薇の色だがね、もう少し明るい赤にならないか。これでは少し陰気だ。明日の朝までに、業者を手配して全体のトーンを差し替えてくれたまえ」


 空間デザインの意図も、数千本の造花を一夜で差し替える現場の過酷さも一切理解していない、傲慢な初老の男の言葉。

 真奈は、胃の腑が鉛のように重く沈み込むのを感じながらも、口角を計算し尽くされた角度で引き上げた営業用の微笑みを顔に貼り付け、最も美しい所作で深く頭を下げた。


「承知いたしました。ただちに手配し、明日のオープンまでにはご希望のトーンへと調整させていただきます。貴重なご意見をありがとうございます」


 反論など許されない。ここで親の血筋を明かしてその威光を使えば一瞬で彼らを黙らせることができるが、それをしてしまえば、真奈の魂は佐倉家という檻に二度と出られないよう幽閉され、自分の足で立つことはできなくなる。だからこそ彼女は、胸の奥で密やかに冷たい毒を吐き続けることで、自分自身の尊厳をかろうじて守っていた。

 それは彼女なりの生存戦略であり、これ以上自分が傷つかないための分厚い予防線だった。他人の信じている幸福や愛を斜めから見て、心の中で冷笑することでしか、とっくに空洞になってしまった自分自身の心を守ることができなかったのだ。

 親の関連企業からの理不尽な要求や、同僚たちからの有能で隙のない女性という無責任な期待に消費され続ける日々の中で、真奈の魂の輪郭はとうの昔にひび割れ、干からびてしまっていたのだから。

 愛など信じない。他人の温もりなど期待しない。そうやって息を止めて生きることだけが、佐倉真奈という人間をかろうじて形作っている唯一の背骨だった。


 いや、本当は違う。


 真奈は、インカムを押さえる右手の指先が、微かに、しかし確かに震えるのを感じた。

 本当は分かっている。自分自身がどうしようもないほど、ただ一つの確かな温もりを渇望している、臆病な生き物なのだということを。

 虚飾にまみれた甘いチョコレートと、人々の香水の匂いが入り混じったむせ返るような空気を嗅ぐたびに、真奈の脳裏に鮮烈なフラッシュバックとして蘇ってくるのは、あの薄暗い琥珀色の工房を満たす、古い紙と膠の匂い、そして深く焙煎されたコーヒーの香ばしい香りだった。


 伏せられた、恐ろしいほどに長い睫毛。

 時が止まったような古いオルゴールや、真鍮の懐中時計に触れる、哀しいほどに優しく繊細な手つき。

 そして、自分の存在を、過去も未来も問わずにただ丸ごとそこにあることだけを肯定してくれるような、あの深く温かい無音の時間。


 雨宮蓮。

 その名前を心の中で反芻するだけで、真奈の胸の奥の、最も柔らかく無防備な部分が、甘く、そして息ができないほど痛みを伴って疼き出す。

 あの大雪の夜、寒さと絶望に凍えきって初めてあのアンティーク工房へと逃げ込んでから、真奈が仕事帰りに彼の店を訪れた回数は、今日までに七回を数えていた。


 借りたタオルを返すため、心臓を破裂させそうになりながら扉を叩いた夜。

 理不尽な仕事の重圧にどうしても限界を迎え、引き寄せられるようにあの琥珀色の光を目指した夜。

 彼が不在で、閉ざされた扉の前で世界から見捨てられたような錯覚に陥り、泣き出しそうになって立ち尽くした夜。そして、彼から初めて名前を教えてもらった夜。

 互いの名前以外、意味のある言葉はほとんど交わしていない。休日の昼間に待ち合わせて会うことも、他愛のない連絡を取り合うこともなかった。ただ、日常の重圧によって極限まで摩耗した真奈が、文字通り息継ぎをするためだけにあの空間へ身を潜め、彼が淹れてくれる一杯のコーヒーを飲んで、再び戦場へと帰っていく。

 世間の目から見れば、恋人でも友人でもない、名前のつけられない奇妙でいびつな関係だろう。


 けれど、真奈にとってそのすべての夜は、これまでの二十数年の人生のどの時間よりも色濃く、途方もない質量を持ち、絶対に他人に踏み荒らされたくない、神聖な領域となっていた。

 あの古い時計の秒針の音が響く部屋でだけ、真奈は有能な佐倉家の娘という重い鉄の装甲を外し、傷だらけの惨めな素顔のままで呼吸をすることが許された。

 彼が何も聞いてこないからこそ。他人の人生に土足で踏み込まない、彼のその無骨で冷ややかな、けれど深い優しさがあるからこそ、真奈は明日も生きていこうと思えたのだ。


 しかし、回数を重ねるごとに、真奈の心の中に、ある致命的で恐ろしい感情が、黒い染みのように広がり始めていた。


 今すぐ、彼に会いたい。


 それは、疲れ切った心身を休めるためのただの一時的な避難所としてあの空間を求めているのではなく、雨宮蓮という一人の孤独な男性を、一人の女性として、強烈に、そして明確に求めている自分自身の業だった。

 彼がアンティークの部品を撫でる優しげな指先を見つめながら、その指で自分の冷たい頬を包み込んでほしいと、狂おしいほどに渇望してしまった。彼がコーヒー豆を挽く広い背中を見つめながら、背後からその肩に触れ、彼の体温を感じてみたいと願ってしまった。

 自分はもう、引き返せないほどに彼を深く愛してしまっている。


 その逃れようのない事実をはっきりと自覚した瞬間から、あの心地よかった工房への道のりは、真奈にとって恐怖と葛藤に満ちた茨の道へと変わってしまった。

 これ以上近づけば、この醜い執着や独占欲が、必ず彼の平穏な不可侵の領域を壊してしまう。

 彼は過去に凄惨な絶望を抱え、人との関わりを極端に恐れている。他人の人生に踏み込まず、誰の領域にも立ち入らない。その絶妙な均衡と距離感があったからこそ、あの一時的な避難所は成立し、彼は自分を受け入れてくれていたのだ。

 もし、真奈がただの雨宿りの客ではなく、それ以上の関係を望んでいると知られたら。この重苦しく湿った想いが彼の負担になってしまったら。

 彼は二度と、あの琥珀色の光が漏れる重い木の扉を開けてはくれないだろう。


 すべてを失って、また一人ぼっちになるくらいなら、最初から、これ以上深く踏み込まない方がいい。

 あの安らぎは、所詮、いつかは終わる仮初めのものなのだから。

 そう自らに言い聞かせ、真奈は無意識に強張っていた指先からゆっくりと力を抜いた。インカムからは、次々と現場のスタッフからの報告が入り続けている。自分が今いるべき場所は、あの温かい琥珀色の光の中ではなく、この冷たく虚飾に満ちた現実の戦場なのだと、血を流すような思いで自らを律した。


 壁掛けの巨大な時計の針が午後十時を回り、商業施設のシャッターが下ろされた。

 そこからさらに三時間に及ぶ過酷な夜間作業の末、モニュメントの造花の差し替えという理不尽な要求を完了させ、ようやく明日の段取りを終えた真奈は、従業員用の無機質なバックヤードを通って、凍てつくような冬の深夜の街へと吐き出された。

 冷たい風が、汗ばんだシャツの熱を一瞬で奪っていく。コートの襟を固く合わせ、首元にストールを何重にも巻きつけるが、内側から芯を凍らせるような強烈な寒さはどうにもならない。

 疲労で鉛のように重い足を引きずりながら、真奈は地下鉄の駅へと向かおうとした。

 今日こそは、まっすぐ自分のあの白とグレーの空虚なアパートへ帰らなければ。彼に会いたいというこの身を焦がすような感情を、暖房のあまり効かない冷たい部屋で一人、凍死させなければならない。

 そう固く、痛いほどに決意していたはずなのに。


 気がつけば真奈の足は、まるで自分の意志とは無関係な生き物のように、大通りから外れた、あの薄暗い裏路地の方角へと向かってしまっていた。


 行っては駄目だ。

 頭の中で、理性がけたたましい警鐘を鳴らし続ける。

 今までは、ただの仕事帰りの雨宿りの延長で済まされたかもしれない。自分を誤魔化すことができた。けれど、七回目となる今日、もしあの扉を叩いてしまったら、もう自分の感情の昂ぶりを隠し通す自信が、真奈には一ミリも残されていなかった。有能なチーフとして、隙のない女性として振る舞うことで、佐倉家という檻から逃れ、自分の足で立っているつもりだった。しかしその自負は、彼への断ちがたい依存心という、自らが生み出した新しい鎖によって脆くも崩れ去ろうとしていた。

 彼の顔を見た瞬間、限界を迎えた感情が爆発し、すがりついて、泣きじゃくって、自分の醜い独占欲をすべて彼にぶつけてしまうかもしれない。彼が命よりも大切に守っているあの無音で澄み切ったアンティークの空間を、自分の重苦しく湿った想いでめちゃくちゃに汚し、破壊してしまう。

 それだけは、何としても避けなければならなかった。親が求めた理想通りに生きられなかった自分が、せめて最後に選べる唯一の誠実さが、彼から身を引くことなのだ。


 真奈は、工房へと続く路地の入り口、大通りから一本入った、あと数十メートル歩けば彼の店が見えるという路地の入り口で、硬く凍りついたように足を止めた。

 この角を曲がれば、あのアンティーク調の窓ガラスから漏れる琥珀色の光が見えるはずだ。その温かい光を視界に入れてしまえば、もう二度と引き返すことはできなくなる。あの場所が、自分の魂を唯一救済する場所なのだと認めてしまったことになる。


 足元の、ひび割れた古いアスファルトを見つめたまま、真奈は小刻みに震え始めた。

 寒さのせいだけではない。心臓が痛いほどに激しく脈打ち、呼吸が異常なほど浅くなり、視界の端が明滅する。


 奥歯をきつく噛み締め、真奈は冷たいビル風が吹きすさぶ街角で、身を切られるような思いで、駅の方角へと踵を返した。

 やはり、行けない。彼を壊したくない。自分自身が、彼への依存によって完全に壊れてしまうのも、もうこれ以上は耐えられなかった。

 もう二度と、あの扉を叩くことはできないのだ。

 絶望的な諦念とともに、駅へ向かうための一歩を大きく踏み出そうとした、まさにその時だった。


 ウールコートの右ポケットの奥深くで、無機質な振動が短く、そして執拗に連続した。


 真奈は肩を大きく震わせ、踏み出そうとしていた足を雪の残るアスファルトの上で完全に止めた。

 こんな深夜に連絡してくるのは、イベント会場でトラブルを起こした現場のスタッフか、あるいはクライアントの担当者だろうか。これ以上、自分をすり減らし、魂の致死量に近づくような言葉は聞きたくない。いっそこのまま完全に無視してしまおうかとも思ったが、もし明日のオープンに関わる致命的な連絡であれば、責任者として放置するわけにもいかなかった。真奈は凍えて感覚を失った右手をポケットの奥へとねじ込み、氷のように冷え切ったスマートフォンをゆっくりと取り出した。


 暗い路地裏に、液晶画面の青白い光がぼんやりと浮かび上がる。

 その光の奥に表示された文字を見た瞬間、真奈の肺の中で、呼吸が止まった。


 画面の中央に浮かび上がっていたのは、会社の人間でも、クライアントの担当者でもなかった。

 たった三文字の、見慣れない、けれど網膜に焼き付いて二度と離れない名前。


『雨宮蓮』


 真奈は、自分の目を疑い、凍りついたように画面を見つめ続けた。

 連絡先を交換したのは、四回目にあの工房を訪れた夜のことだった。真奈が念のため、何か緊急のことがあったときのためにと、自分の存在を繋ぎ止めるためのひどく見え透いた口実で、半ば強引に自分の電話番号を渡したのだ。彼はその時、わずかに眉をひそめ、渋々といった様子で自身の古い端末に番号を登録していたが、こちらからかけることはないと思うと、ひどく冷たく言い放っていた。

 実際、その夜から今日に至るまで、彼から連絡が来たことなど一度たりともなかった。互いのプライベートな領域を決して侵さないという、彼が引いた強固な境界線の象徴のようなものだったのだ。


 その彼が、今、自分から電話をかけてきている。


 激しい動悸が、肋骨の裏側を突き破りそうなほどの勢いで胸を打ち鳴らす。

 震える親指の腹で画面をスライドさせ、真奈は重い黒のスマートフォンを、ゆっくりと右耳に押し当てた。


「はい」


 極度の緊張と寒さで喉の奥が完全に張り付き、ひどくかすれた吐息のような声を絞り出すのがやっとだった。

 電話の向こうからは、冬の夜風が拾う微かな雑音に混じって、彼が短く、鋭く息を吸い込む気配が鼓膜を震わせた。


「今、どこにいる」


 ひどく低く、微かな苛立ちと、そして彼には全く似つかわしくない隠しきれない焦燥感が入り混じったような、確かに蓮の声だった。

 予想もしていなかった低い声の響きに、真奈は思わず間の抜けた吐息を漏らした。耳に押し当てたスマートフォンのスピーカーからは、彼が荒い呼吸を整えようとしている気配がひどく生々しく、まるで耳元で直接囁かれているかのように伝わってくる。


「店の近くの交差点にいるだろう。今、どこに向かおうとしている」


 責めるような、それでいてどこか切実な響きを帯びた、逃げ道を塞ぐような声。真奈は弾かれたように肩を跳ねさせ、周囲の暗がりを怯えたように見回した。数十メートル先の路地の奥、アンティーク調の窓ガラスから漏れる琥珀色の光。もしかすると、ガラス越しに、扉の前まで行きながら立ち尽くし、ついに踵を返した自分の情けない姿が、彼には見えていたのだろうか。


「あの、雨宮さん。私、今日は仕事が遅くなってしまったので、このまま帰ろうかと」


 咄嗟に口をついて出たのは、ひどく見え透いた、みっともない言い訳だった。

 これ以上、自分の醜い感情を彼に知られたくない。迷惑をかけて、この関係を壊したくない。親が求めた理想に沿えず、空間デザインの現場でも理不尽に耐えるだけの自分が、彼にすがりついてすべてを汚してしまう前に。必死に心の防波堤を築き直そうとする真奈の言葉を、しかし、電話の向こうの蓮は容赦なく遮った。


「嘘をつくな」

「そんなこと」

「どうして、引き返そうとした」


 静かだが、逃げることを許さない圧倒的な引力を持った言葉だった。これまで真奈が彼に対して必死に引いていた他人の境界線を、彼自身が易々と踏み越えてくるような、強烈な響き。

 心臓が、早鐘のように激しく打ち鳴らされる。どうして、と真っ直ぐに問われても、本当のことなど言えるはずがない。あなたに会いたくてたまらない自分が恐ろしかったからだなんて、口が裂けても言えなかった。

 真奈が言葉に詰まり、ただ震える青白い唇を強く噛み締めていると、受話器の向こうで、彼が深く、途方もなく長く息を吐き出す音が聞こえた。


「そこを動くな」

「雨宮、さん」

「今から、会おう」


 たったそれだけを告げて、通話は唐突に切断された。通話が終了したことを知らせる単調な電子音が、冷たい冬の夜空の底へ虚しく吸い込まれていく。

 真奈は、スマートフォンを耳に当てた姿勢のまま、まるで強力な呪縛をかけられたように、その薄暗い街角に縫い付けられていた。


 今から、会おう。

 そのひどく短い言葉が、頭の中で何度も残響を繰り返す。

 過去の深い傷から、他人と関わることを極端に避け、誰の人生にも踏み込もうとしなかったあの雨宮蓮が、自分から頑なな殻を破って電話をかけてきた。逃げるように引き返そうとした自分を引き留めるために。

 その事実の重さが、凍りついていた真奈の感情を根底から激しく揺さぶる。逃げなければという理性の叫びと、彼に会いたいという狂おしいほどの渇望が混ざり合い、足は鉛のように重く、一歩も動かすことができなかった。


 容赦のない冷たいビル風が、真奈の薄いスーツ姿の身体を乱暴に打ち据える。七センチのピンヒールの中で足先の感覚はとうに失われ、ストールを巻いた首元から逃げていくわずかな体温を、コートをきつく合わせることで必死に繋ぎ止めていた。周囲には誰もいない。深夜の路地裏は、まるで世界から完全に切り離されたように静まり返り、遠くの大通りを走る車のタイヤの摩擦音だけが、くぐもった暗い波の音のように聞こえてくる。

 蓮は、自分の節だった大きな右手で、真奈の凍えきった左手をそっと包み込んだ。真奈の肩が大きく跳ねる。彼の指は外気で少しだけひんやりとしていたが、真奈の小さな手を包み込むその力は、もう絶対に離さないと無言で宣言しているかのように強靭で、そしてどこまでも不器用なほど優しかった。


 男と女としての、明確な意思を持った初めての接触。これまで、ただお互いの傷を舐め合うだけの避難所として、絶妙な距離感で保たれていた二人の均衡が、この指先の接触によって、完全に、そして決定的に書き換えられたのだ。


 蓮は、真奈の手をしっかりと握ったまま、自分の着ている黒いウールコートの、深く大きな右ポケットの中へと、真奈の手を己の手ごと強引に引き入れた。


 ポケットの中は、外の過酷な寒さが嘘のように、彼の体温がこもっていて、信じられないほどに暖かかった。分厚いウールの生地越しに伝わってくる、彼の足の動き。真っ暗なポケットの中で、自分の小さな手が、彼の大きな手にすっぽりと守られているという途方もない事実。

 そのあまりの温かさと、彼が自分を力強く引き寄せてくれたことへの安堵感に、真奈はこれまでずっと限界まで我慢していたものが、一気に決壊するのを感じた。


 視界が、ぐらりと滲んで歪む。彼に泣き顔を見られたくなくて、必死に俯いた真奈の瞳から、堪えきれなかった大粒の涙がとめどなくこぼれ落ち、足元の冷たいアスファルトに黒い染みを作っては消えていった。泣かないと決めていたのに。完璧で有能な自分でいなければ、誰にも愛されないと思っていたのに。親からすら条件付きの愛しか与えられなかった自分が、こんな無条件の熱を受け取っていいはずがないのに。

 彼は、泣きじゃくる真奈の醜さも、逃げ出そうとした弱さも、すべてを分かった上で、こうして無言で手を引き、自分のポケットの中へと匿ってくれたのだ。


「帰ろう」


 頭上から静かに降ってきたのは、ひどく低く、けれどこれまでのどんな響きよりも深い愛情を孕んだ、蓮の声だった。ポケットの暗闇の中で、彼の手が、真奈の震える指先をもう一度、壊れないように強く握りしめる。


 真奈は、涙で濡れた顔のまま、小さく、何度も頷いた。

 もう、後戻りはできない。彼が引いていた境界線を越え、自分自身が長年築き上げていた防波堤も完全に壊れ去ったのだ。二月の凍てつく夜の街角。孤独な二つの魂は、互いの痛みを共有するだけの名前のない関係を完全に終わらせ、ポケットの中で手を繋いだこの瞬間、明確に一人の女と男としての新しい一歩を踏み出した。


 吹きすさぶ冷たいビル風も、誰にも愛されないかもしれないという明日への不安も、今の真奈にはもう恐ろしくなかった。隣を歩く彼の確かな体温と、ポケットの中で繋がれた熱の重みだけが、この残酷で空虚な世界で唯一信じられる、揺るぎない真実だった。


 二人を包み込む琥珀色の明かりが漏れる工房の扉まで、あと少し。その短い数メートルの道のりを、二人は言葉もなく、ただ互いの温度を分け合うようにして、ゆっくりと歩いていった。

 彼の分厚いウールコートのポケットの中で、蓮の大きな右手が、真奈の凍えきった左手をすっぽりと包み込んでいる。長年のアンティークの修復で酷使されている彼の指先には、微かなささくれや、硬く変色した工具だこがあった。その無骨で乾いた皮膚の感触が、彼が一人で生き抜いてきた時間と、過去のトラウマに縛られた孤独の深さを物語っているようで、真奈の胸をたまらなく愛おしく締め付ける。痛いほどに強く握られたその手から、彼がどれほどの恐怖と葛藤を乗り越え、自らが引いていた決して越えてはならない境界線を踏み越えてまで自分を迎えに来てくれたのかが、痛切なまでに伝わってきた。


 やがて、アンティーク調の深い焦げ茶色の木枠で縁取られた扉の前に着く。彼が空いた左手で工房の真鍮の鍵を回すと、重く硬質な金属音が夜気に響く。そして、重い木の扉をゆっくりと手前に引いた。

 外の凍てつく冬の空気と雪の匂いが、工房の中を満たしていた古い紙と木材の温かい空気と一瞬にして激しく入り混じる。

 開かれた扉の向こうからは、古い紙と木と、そして何かが密やかに修復されていく、温かく甘い匂いが漂ってきている。

 真奈は吸い寄せられるように、ひどく重い足を引きずって、彼が招き入れてくれたその琥珀色の光の中へと、恐る恐る足を踏み入れた。


 その瞬間、背後で重い木枠のドアが閉ざされた。

 古い真鍮の錠前が落ちる金属音が響いたとたん、真奈の背中を容赦なく打ち据えていた風の音が、まるで分厚い水底の向こう側へと遠ざかったように遮断された。

 ポケットの中で繋がれていた手が、コートを脱ぐために一度だけ、名残惜しそうに離れる。外の過酷な冷気を塞ぐ扉が閉まった瞬間、真奈はふと、室内の決定的な異変に気がついた。


 温かい。いや、それはいつもの彼が保っていた穏やかで密やかな温度ではなく、少しばかり息苦しさを感じるほどの、強烈な熱気だった。

 視線を向けると、部屋の中央に置かれたアラジンストーブが、いつもよりずっと高い炎を上げて、激しく燃え続けている。その奥、暖色のタングステンランプに照らされた作業台に目をやると、真奈は思わず息を呑んだ。


 いつもなら、塵一つなく、医療器具のように寸分の狂いもない秩序で整頓されているはずの作業台の上が、無惨に乱れていた。

 修復途中だったと思われる古いスイス製の懐中時計。その心臓部である極小の歯車がむき出しのまま放置され、彼がいつも右目に嵌めていたはずの黒いルーペや、繊細な先端を持つピンセットが、柔らかい布の端に無造作に転がっている。まるで、緊急の手術中に執刀医がすべてを投げ出して飛び出していったような、異様な光景だった。


 アンティークの修復という作業に対して、そして何よりも自分自身の無音の聖域に対して、異常なまでの執着と無謬の理想を貫く彼からすれば、絶対にあり得ないことだった。火のついたストーブを放置し、何よりも大切にしているはずの部品や道具を散乱させたまま、彼はこの暗い冬の街へと飛び出していったのだ。

 真奈が来ないかもしれない。このままどこかへ消えてしまうかもしれない。その焦燥に駆られ、持ち前の冷静さも、彼自身が過去の絶望から築き上げた孤独なルールもすべて投げ出して。


 その事実の計り知れない重さに気づいた瞬間、真奈の胸の奥から、熱く重たい塊が激しくせり上がってきた。


 蓮は、己の脱いだウールコートを真鍮のハンガーに掛ける手順すらもどかしげに省略し、近くの革張りのソファへ無造作に放り投げた。そして真っ直ぐに部屋の中央へと向かうと、ストーブのダイヤルを回して、異常なまでの高さを上げていた炎をいつもの密やかな温度へと絞った。

 真奈は、彼が首に巻いてくれた黒いカシミヤのマフラーを両手で強く握りしめたまま、いつものスツールに、へたり込むようにして腰を下ろした。


 絞られたストーブの青い火が、二人の影を古びた漆喰の壁に長く揺らしている。

 蓮は、真奈から距離を置くことはしなかった。真奈のすぐ正面、手を伸ばせば確実に触れられる、かつて決して踏み込もうとはしなかった絶対的なパーソナルスペースの境界線を越えた位置に立った。

 そして、まだ微かに肩を震わせている真奈の顔を、硝子のように透明な瞳で、逃げることを決して許さないような強さでまっすぐに見つめ下ろした。


「どうして、引き返そうとした」


 沈黙が落ちた空間に、彼の低く、かすれた声が響く。

 怒っているわけではない。ただ、彼自身もまた、真奈を失いかけた恐怖の強烈な余韻から未だに抜け出せていないのだということが、その声の微かな震えと、きつく結ばれた口元から痛ましいほどに伝わってきた。


 真奈は、膝の上で両手を白くなるほど強く組み合わせた。

 もう、嘘はつけない。有能なイベントチーフの虚飾も、物分かりの良い大人のふりも、散乱した作業台と目の前に立つ彼の圧倒的な熱量の前では、何の意味も持たなかった。


「怖かったんです」


 真奈の震える唇から、せき止めていた汚濁が溢れ出すように、醜くも切実な本音が零れ落ちた。


「雨宮さんのこの場所が、私にとって、どうしようもなく大切なものになっていくのが、怖くて。これ以上近づいたら、私、きっと雨宮さんに甘えてしまう。自分の醜い執着も、誰かにすがりたいという重たい感情も、全部押し付けて。この綺麗な場所を、いつか私の手で壊してしまうんじゃないかって」


 言葉の形にするほど、自分がどれほど彼を求めていたかが残酷なまでに露わになり、真奈はたまらず深く俯いた。

 限界まで見開いていた瞳から涙が溢れ、膝の上のネイビーのスカートに次々と濃い染みを作っていく。それは、幼い頃から厳格な母の冷酷な視線に晒され、愛されるためには他者の期待に応える盤石な人形でなければならないと信じ込んできた彼女が、生まれて初めて他者に見せた、絶対的な弱音だった。


「私、空っぽなんです。親の用意した檻から逃げ出したくて、出自を隠して今の会社に入ったのに、結局は親の関連企業から理不尽な扱いを受けて、毎日愛想笑いをして頭を下げている。どれだけ社会で有能なふりをして笑っていても、本当の私なんてどこにもいなくて。だから、これ以上近づいて、私の本当の空っぽで嫌なところを知られて、雨宮さんに失望されたら、私、今度こそ本当に息ができなくなってしまう。だったら、嫌われる前に、自分からいなくならなきゃって」


 傷つく前に、自分から手を離す。

 期待して裏切られるくらいなら、最初から孤独を選んだ方がましだ。

 幼い子供のようにしゃくり上げ、見苦しいほどに顔を歪めて告白する真奈の言葉を、蓮は口を挟むことなく、ただ聞き入っていた。


 彼には、その歪んだ心理が痛切なまでに分かっていたはずだ。

 幸福を知ることは、喪失の恐怖を永遠に抱え込むことと同義だ。自分を守るために、一番欲しいものから自ら背を向けようとするその絶望的なまでの臆病さは、他ならぬ彼自身が、過去の凄惨なトラウマから逃れるために長い間ずっと選び続けてきた生き方そのものだったからだ。

 目の前で泣きじゃくるこの小鳥のように脆い女性は、自分自身の合わせ鏡なのだと、彼が気づかないはずはなかった。


 もう、見過ごすことはできない。


 蓮は、ゆっくりと右手を伸ばした。

 それは、以前に彼女の寝顔の前でためらい、空中で引き下ろされた脆弱な手ではなかった。

 長く美しい彼の指先が、俯いて泣きじゃくる真奈の冷たい頬に、確かな意思を持って触れた。


 真奈は弾かれたように顔を上げ、涙に濡れて見開かれた瞳が、ゆっくりと彼を見上げる。

 蓮の親指が、真奈の目の下を伝う涙の痕を、痛々しいほどに優しい手つきで拭った。アンティークの修復で硬く変色したその指先から伝わる微かな体温に、真奈は吸い寄せられるように、自分からその大きな手のひらにすり寄った。


「俺も、怖かった」


 蓮の口から紡がれたのは、彼がこれまで誰にも見せることのなかった、魂の最も奥底にある柔らかく無防備な感情だった。

 真奈の頬を包み込む手とは逆の左手が、作業台の縁を白くなるほど強く握りしめている。


「生身の人間と深く関われば、また必ず相手を壊してしまう。失う痛みに耐えられない。そう思って、誰もこの領域には入れなかった」


 蓮の透明だった瞳の奥に、はっきりと、真奈を求める不器用なほどの熱が灯っていた。


「俺はかつて、共に生きると誓った女性の心を、自分の手で壊した」


 無音の空間に落ちたその重い告白に、真奈は微かに息を呑んだ。

 彼がどれほどの覚悟を持って、自らが最も直視することを恐れていた過去の扉を今ここでこじ開けたのかが、震えるその低い声色から痛いほどに伝わってきた。


「時計の修復において、俺は常に無謬の理想だけを求めた。そしてその異常な理想主義と、言葉を交わさずとも理解し合えるはずだという傲慢な沈黙を、愛する妻にも強要してしまったんだ。俺の無言の期待が彼女を追い詰め、孤独にさせ、精神を破壊してしまった。自分の手で愛する人間の心を粉々にしておきながら、俺はそれを直すことすらできなかった。だからもう二度と、人間の心には触れないと誓った。この工房で、沈黙する古いモノたちだけを直して生きていくことが、俺に課された永遠の罰なのだと」


 蓮は言葉を区切り、真奈の濡れた瞳をまっすぐに見つめ返した。

 彼の眼差しに宿っていたのは、長年彼を縛り付けていた底知れぬ虚無ではなく、今目の前にいる一人の女性を、もう二度と自分の沈黙の犠牲にはしないという強烈な決意だった。


「でも、君が来る時間を過ぎても、あの扉が叩かれないことが、どうしようもなく恐ろしかった。壁の時計の針の音が、耳鳴りのようにうるさく感じた。君が来ないこの空間は、異常なくらい寒くて、息が詰まりそうだった」


 それは、無駄な感情を殺して生きてきた男による、立ち回りを知らない、けれどこれ以上ないほどに純粋な告白だった。

 彼は真奈の頬を包んでいた手を滑らせ、彼女の後頭部へと回すと、そのまま静かに引き寄せ、真奈の額と自分の額を合わせた。


 至近距離で、互いの吐息が激しく混ざり合う。

 深く焙煎されたコーヒーの匂いと、微かな埃の匂い、そして真奈の髪から香る冬の風の匂い。

 彼の不規則な呼吸の音が、真奈の鼓膜を甘く、切なく震わせる。


「もう、これ以上は耐えられない」


 真奈の魂の奥底まで直接響くような声だった。

 そのたった一言には、過去の消えない傷ごと真奈を受け入れ、彼女の抱えるすべての孤独を自分が引き受けるという、男としての強靭な覚悟が宿っていた。

 他者を壊すことを恐れて自分の殻に閉じこもっていた男が、その恐怖を乗り越え、再び誰かを深く愛するという暴力的なまでの感情に身を委ねた瞬間だった。


 真奈は、潤んだ瞳を上げると、彼の胸元に両手を添え、黒いタートルネックの生地をきつく握りしめた。

 もう、強がる必要はない。

 見えない社会の明日に怯える日々も、自分を偽って笑う日々も、親からの歪んだ愛情に応えようともがいた日々も、この抗いがたい温もりの中ではすべてが無意味だった。

 彼は、真奈が空っぽであることも、醜い執着を抱えていることもすべて許容した上で、こうして額を合わせ、自分の震えを曝け出してくれているのだ。


「雨宮さん。私も、会いたかった。ずっと、会いたかった」


 真奈の震える唇から紡がれたその言葉を、蓮は短い吐息とともに受け止め、真奈の細い身体を、壊れないようにそっと、けれどもう二度と離さないというように力強く腕の中に抱きしめた。

 分厚いセーター越しに伝わってくる、彼の早鐘のような心音。

 真奈は彼の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。悲しみからではなく、張り詰めていたすべての糸が解け、本当の自分を見つけてもらえたことへの、とめどない安堵の涙だった。


 真冬の東京。

 世界中がバレンタインという形のない愛の言葉を消費して浮かれている中、この街の片隅の小さな工房で、孤絶した二つの魂は、ようやく互いの本当の輪郭に触れ合った。


 傷を舐め合うだけの名前のない時間は、今夜で終わる。

 互いの手を強く握り、同じ痛みを分け合いながら生きていく、一人の男と女としての新しい時間が、劇的に幕を開けたのだった。


 琥珀色の光に包まれながら、真奈はただ、自分を抱きしめる彼の背中に腕を回し、その確かな体温を、永遠に記憶に刻み込むように強く抱きしめ返していた。

 窓の外では、依然として凍てつくようなビル風が吹き荒れている。

 この閉ざされた無音の聖域を一歩出れば、そこには依然として、真奈を絡め取ろうとする佐倉家という巨大な檻や、抗いようのない社会の理不尽が待ち受けているだろう。

 親の期待という名の政略の影は、彼女が気付かぬうちに、すぐ足元まで忍び寄りつつあった。


 しかし、今の真奈には、その見えない未来への恐怖は不思議と少しも感じられなかった。

 自分を繋ぎ止める確かな重みが、今、この腕の中にある。

 二人を乗せた運命の歯車が、どれほど残酷な音を立てて狂い始めようとも、この琥珀色の空間で交わされた沈黙の誓いだけは、決して壊れることはないと信じることができた。


 壁に掛けられたアンティークの柱時計が、深夜の時間を告げる重厚な音を響かせた。それは、二人の新しい時間が正しく刻み始められたことを祝福するような、深く澄み切った鐘の音だった。


 二人は長い間、互いの体温を手放すことができなかった。

 真奈の頬に触れる厚手の黒いセーターの感触は、これまで彼女が触れてきた世界中のどんなものよりも柔らかく、確かな命の熱を帯びている。背中に回された蓮の大きな両腕は、真奈の華奢な骨格を砕かないよう細心の注意を払いながらも、二度とこの腕の中から逃がさないという強靭な意思を持っていた。


 真奈の乱れた呼吸が平坦なリズムを取り戻すのを待って、蓮は緩やかに腕の力を解いた。

 真奈がわずかに顔を上げると、至近距離に彼の瞳があった。涙で濡れた真奈の顔を見つめるその眼差しには、これまで彼が頑なに保ち続けていた冷ややかな拒絶の壁は欠片も残っていない。そこにあるのは、一人の女性を慈しみ、何があっても守り抜こうとする男の熱を帯びた色気だった。

 蓮の親指が、真奈の頬に張り付いたままの濡れた髪を、壊れ物に触れるような優しい手つきで耳の後ろへと流す。アンティークの修復で硬く変色したその指先が肌に触れるたび、真奈の身体の奥底で、これまで知ることのなかった甘い痺れが波紋のように広がっていく。


「コーヒーが、冷めてしまった」


 低く落ち着いた声が、真奈の耳元を撫でた。

 蓮は名残惜しそうに真奈の肩から手を離すと、作業台の上に放置されたままになっていた二つのマグカップへ視線を向けた。彼が真奈を追いかけて路地裏へと飛び出していった時から、すでにかなりの時間が経過している。

 真奈はスツールへと座り直すと、首に巻かれた彼の黒いマフラーの端を両手で強く握りしめ、その背中を瞬きもせずに見つめていた。


 蓮はマグカップの中身を捨て、再び琺瑯のやかんをストーブの火にかけた。自らの手で散乱させてしまった作業台をいつもの秩序ある状態へと戻し、古いミルで豆を挽き直す。

 芳醇な香りが、再び琥珀色の空間を満たしていく。

 それはこれまで何度も繰り返されてきた光景だったが、今夜の時間は、名もなき雨宿りの客に向けたものではない。互いの孤独を共有し、互いを選び取った、ただ一人の女性のために淹れる一杯だった。


 やがて、新たな湯気を立てる無地のマグカップが真奈の前に置かれた。

 蓮は自分用のマグカップを手に、真奈のすぐ隣に引き寄せた別のスツールへと腰を下ろした。これまで必ず一定の距離を保っていた彼が、初めて真奈と肩が触れ合いそうなほどの至近距離に座ったのだ。

 二人は言葉を交わすことなく、マグカップに口をつけた。

 深い苦みと、その奥に隠された微かな甘み。いつもと同じ味のはずなのに、今の真奈には、世界中のどんなものよりも五感を満たす極上の味わいに感じられた。


「明日は、仕事か」


 不意に、蓮が前を向いたまま尋ねた。

 真奈はマグカップを両手で持ったまま、小さく頷く。


「はい。バレンタインの催事が終わるまでは、休めそうにありません」

「無理はするな。倒れる前に、ここへ来い」


 それは命令でもなく、過剰な心配でもない。ただ、彼女の帰るべき確固たる場所がここにあるのだという、揺るぎない事実の提示だった。

 真奈の目頭が、再び熱く潤む。


「はい。必ず」


 震える声でそう答えながら、真奈は自分の左手を、隣に座る彼の右の太ももの上へとそっと這わせた。

 分厚いデニム生地越しに伝わる、彼の確かな筋肉の硬さと体温。蓮は少しだけ驚いたように身を固くしたが、すぐに自分の右手を真奈の手の上に重ね、その冷え切った指先を自らの温かい掌で包み込んだ。

 指と指が、互いの隙間を埋めるように深く絡み合う。

 ストーブの青い炎が、繋がれた二人の手を柔らかく照らし出している。


 夜の底に沈む琥珀色の工房で、二人の時間が、誰にも邪魔されることなく深く、そして緩やかに溶け合っていく。

 それは、凍てつく冬の街の片隅で起きた、ささやかで、けれど二人の人生を根底から覆す、決定的な救済の夜だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。