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『冬の青、夜の底』  作者: 長月有希


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プロローグ:零下のステージ

 シャンパンゴールドの光が、網膜を灼くように、暴力的なまでに冬の街を彩っていた。

 十二月二十四日、午後十時二十五分。東京・表参道の長く続く欅並木は、数百万個という膨大な数の発光ダイオードによって、夜空そのものを焦がすほどのまばゆい光の海と化していた。頭上の枝葉から降り注ぐ人工の光の束は、冬の澄み切った夜気を生々しい黄色に染め上げ、足元の寒々しいアスファルトを、まるで一枚の上質なビロードの絨毯であるかのように錯覚させていた。

 行き交う無数の人々の群れが吐き出す息の白ささえもが、そのシャンパンカラーの光に幾重にも乱反射し、連れ立つ恋人たちの頬を微かな高揚感とともに照らし出している。すれ違う誰もが、今この瞬間、世界の中心で幸せの絶頂にいるかのように微笑み合い、親密に肩を寄せ合っていた。刃のように冷たい北風に身をすくめながらも、人々はこの街が用意した、煌びやかに装飾された夜の祝祭を、貪欲に、そして余すところなく全身で消費していく。世界中から愛と温もりのすべてがこの一角に掻き集められ、見せびらかされているかのような、息が詰まるほどの眩しさと熱狂が、深夜の街の空気を完全に支配していた。


 その眩い狂騒のまさに中心で、佐倉真奈(さくらまな)は漆黒のインカムのコードに細くかじかんだ指先を這わせながら、切れ目のない冷静な指示を的確に飛ばし続けていた。


「ええ、Bゲートの動線、少し滞っています。スタッフを二名追加して、誘導をそちら側に回してください」


 喧騒の中でも決して埋もれることのない、よく通る澄んだ声だった。視界の隅で群衆の動きの僅かな遅れを察知すると、真奈は瞬時に声のトーンを一段階下げ、滑らかに次の指示を継ぐ。


「それから、メインステージの照明、あとほんのわずかだけ落とせますか。雪の演出がライトに強く反射して、カメラの映像で白飛びしてしまうので」


 大手広告代理店の空間プロデュース事業局の若きチーフとして、彼女が数か月にわたる緻密な準備期間を経て取り仕切ってきたクリスマス・スペシャルライブは、まさにいま、計算し尽くされた理想のフィナーレを迎えようとしていた。

 深いネイビーブルーのタイトなドレスに、身体の線を美しく拾う仕立ての良い黒のチェスターコートを羽織った彼女の姿は、周囲で慌ただしく立ち働くスタッフや、安全な場所から視線を送るクライアントたちから見れば、仕事においても私生活においても何一つ欠落のない、充実した日々を送る女性そのものに映っていたことだろう。どこまでも透明で壊れそうな危うさを秘めながらも、口角を常に適度な角度で引き上げた隙のない微笑み。予期せぬ機材トラブルや観客の動線の乱れを瞬時に鎮める、氷のように冷徹な判断力。そしてどんなに肉体が疲弊し、ヒールの中で足の指が悲鳴を上げていても決して乱れることのない、磨き上げられたガラス玉を転がすような上品な声の響き。

 その一挙手一投足のすべてが、周囲の人間を安心させ、プロジェクトを円滑に回すための『精巧極まりない硝子細工の人形』として、佐倉真奈を機能させていた。


 しかし、真奈の心の内側は、眼前に広がるこの絢爛たる景色とは決定的に断絶していた。光が強ければ強いほど、彼女の足元に伸びる影が濃さを増していくように、彼女の胸の奥底は分厚い永久凍土のような氷に固く閉ざされたまま冷え切っていた。


 人間は、結局のところ、誰もがたった一人でこの世界に産み落とされ、誰とも本当の意味で触れ合うことなどできないまま、一人で死んでゆく生き物なのだ。

 いつからだろうか。そんなどうしようもなく冷たい諦念が、彼女の体を構成する細胞の隅々にまで深く、黒く染み付いてしまったのは。

 物心ついた頃の記憶を遡れば、そこには常に、両親の過剰な期待という名で編み上げられた、美しく磨き上げられた黄金の檻があった。国内有数の巨大企業の経営トップである父の保仁(やすひろ)と、厳格で完璧主義な母の麗子(れいこ)だ。佐倉家の血筋を引く者として、真奈は少しの瑕疵もないお行儀の良い娘でいなければならなかった。常に学年で一番の成績を修め、ピアノやバレエといった教養を身につけ、親戚や父の取引先の重役たちから手放しで愛される、佐倉家の自慢の娘という役割。

 少しでも自分のわがままを口にしたり、あるいは子供らしい無防備な未熟さを見せたりすれば、母の麗子の瞳は瞬時に凍りつき、冷酷な沈黙による罰が与えられた。娘を愛しているはずの父の背中もまた、そんな母の教育方針に異を唱えることはなく、波風を立てることを避けるように遠ざかるばかりである。親の用意した空間の中で、敷かれたレールの上を寸分の狂いもなく歩むことだけが、あの家で呼吸を許されるための唯一の条件だった。


 愛されるためには、他者が望む理想の自分でいなければならない。条件付きの愛しか存在しない世界で生き延びるため、幼い真奈はそう学習するしかなかった。

 だから彼女は、自分の中に生じる本当の感情の揺らぎや、泥臭くみっともない弱さを、心の奥底のさらに深い、誰の目にも触れない澱みの中へと無理やり押し込めた。そして、大人たちが望む理想の人形を演じ切るための、厚く冷たい仮面を顔に貼り付ける術を身につけた。


 やがて大人になり、真奈が大学を卒業して選んだ道は、大手広告代理店の空間プロデュース部門への就職である。

 それは、彼女なりの親への、そして自分の運命に対する最大の抵抗といえた。

 親の用意した息苦しい空間から逃れ、自分の足で立ち、ゼロから自分の手で空間を創り出したかった。だからこそ、コネクションなど一切使わず、身分を隠して一般採用の狭き門を潜り抜けたのだ。

 だが、現実はどこまでも残酷で皮肉だった。彼女が入社した広告代理店は、父の経営する企業を絶対的な最大クライアントとして抱える会社だったのだ。どれほど自分の実力で這い上がろうとも、結局は父の会社の巨大な見えない傘の下で踊らされているに過ぎない。その絶望的な矛盾に気づきながらも、真奈は決して親に泣きつくことはしなかった。

 素性を隠しているからこそ、現場での過酷な労働や、上層部からの理不尽な圧力、同僚たちの嫉妬混じりの陰口が容赦なく彼女に降り注いだ。それでも彼女は、血を吐くような思いでそのすべてを飲み込み、笑顔で耐え抜いた。たとえそれが矛盾に満ちた場所であろうとも、空間をデザインし、創り上げることだけが、彼女にとって唯一の自由であり、佐倉の娘ではなく佐倉真奈という一人の人間として呼吸ができる証だったからだ。


 本当の自分を少しでも晒してしまえば、周囲の人間は潮が引くようにあっさりと離れていくはずだ。これほどまでに不安定で、臆病で、誰の差し出す温もりさえも心の底からは信じることができない欠落した人間なのだと知られれば、誰もが自分に失望して背を向けるに違いない。

 そんな見えない明日への底知れぬ恐怖に怯えながら、彼女は分厚い鎧を幾重にも身に纏い、華やかな光の中心に立ち続けた。一切の狂いのない振る舞いを繰り返せば繰り返すほど、誰にも触れられず、誰にも気付かれない絶対的な孤独の冷たさが、確実に彼女の胸の内側を侵食し、空洞を広げていくのを感じた。


 ステージ上の照明がゆっくりと落とされ、残された余韻とともにイベントの終幕が告げられた。

 張り詰めた空気が一気に弛緩し、現場の熱が少しずつ引き始めた頃、撤収作業の指示を出す真奈の背後に、クライアント企業の重役が満足げな笑みを浮かべて近づいてきた。


「佐倉君、素晴らしい手腕だったよ。おかげで今回のイベントは我が社にとっても最高のクリスマスになった。君はいつも、私の期待の一歩先を行くね」


 恰幅の良い初老の男は、重々しく深く頷きながら彼女を労った。

 並べ立てられるねぎらいの言葉とともに向けられた、ある種の媚びが入り混じった湿度の高い視線を、真奈は寸分の狂いもない洗練された会釈で静かに受け止める。その一連の流麗な動作からは、早朝から働き詰めであるはずの肉体的な疲労の色など微塵も感じられない。


「ありがとうございます。皆様の温かいお力添えがあってこその結果です」


 反射的に作り上げられた微笑みと、滑らかに紡がれる謙遜の返答。

 空気を震わせる自分の発するその声が、まるで遥か遠い暗い水底から響いてくるような、奇妙な他人事のように聞こえてならなかった。

 誰も佐倉真奈という一人の人間のことなど見てはいない。彼らが見ているのは、彼女が貼り付けた完璧な仮面が放つ、まばゆい反射光の残像だけなのだ。この街の夜空を不自然なまでに満たしている人工の光のすべてが、まるで彼女の心に巣食う自己欺瞞や、薄汚い虚栄心を容赦なく暴き立てる拷問のスポットライトのように感じられ、真奈の呼吸は気づかないうちに浅く、不規則なものになっていた。


 すべての残務処理と明日の撤収確認を終え、現場のスタッフや関係各所への形式的な挨拶を済ませたときには、真奈の腕時計の針はすでに深夜十一時四十五分を回っていた。

 クリスマスイブという、人々が特別視してやまない一夜の祝祭はとうにその熱を失い、凍てつく冬の深夜の重たい空気が、容赦なく東京の街を灰色の帳で包み込み始めている。


 鉛のように重くなった足取りで、駅へと続くコンクリートの階段をゆっくりと下りる。

 つい先ほどまで地上をあんなにも激しく包み込んでいた賑やかな狂騒がまるで幻であったかのように、地下鉄の構内は、ひんやりとした無機質で乾いた空気に支配されている。改札口はまだ開いているものの、駅員たちが一日の業務を終えるための清掃や精算の準備をそそくさと始めており、構内には独特のせわしなさと、祭りが終わったあとの抜け殻のような寂寞感が漂っている。

 自動改札機に定期券を触れさせ、深く長いエスカレーターに身を乗せて地下の奥深くへと下っていく。冷陰極管の白い蛍光灯の光が、無機質なタイルの床をどこまでも白々しく、そして冷淡に照らし出す。


 プラットホームには、その日最後の電車に駆け込もうとする人々が、足早にホームへ向かい、列をなしている。

 誰もが家路を急ぎ、自分の帰りを待ってくれているはずの温かい場所へと足を進めている。アルコールの匂いと白い吐息を混ぜ合わせながら手元のスマートフォンで時刻表を確認する初老の男、互いの体温を分け合うように指をきつく絡ませ合いながら、小走りで階段を駆け下りてくる若い恋人たち。

 彼らにはすべて、帰るべき場所があり、彼らの存在を承認してくれる誰かがいる。

 けれど、真奈の足は、吸い込まれるようにホームの最後尾、人影のまばらな薄暗い端のほうへと向かってしまったのだ。

 タクシーを拾うために、再びあの地上の煌びやかな光の海へと戻るだけの気力は、すでに彼女の内に一滴も残されていなかった。かといって、満員の最終電車に揺られて深夜の街を移動し、誰も待つことのない、生活感のない整頓されただけの冷たく暗い自分の部屋へと帰り着くことにも、彼女の心は激しい拒絶反応を示した。

 どこへも行きたくないわけではない。単に部屋へ帰りたくないというだけでもない。帰る場所など、本当は世界のどこにも存在しないのだという事実に向き合うのが恐ろしいのだ。


 やがて、遠くの暗闇から大地の底を這うような重低音が伝わり、最終電車がホームへと滑り込んできた。

 トンネルから押し出された冷たい風の塊が巻き起こり、真奈の着ている黒いチェスターコートの裾を乱暴に煽る。圧縮された空気が抜け落ちる鈍い排気音とともに車体の扉が一斉に開き、ホームに立っていた人々が、明るく照らされた車内へと次々に吸い込まれていく。

 真奈は、タイル張りの柱の陰にある古びたベンチの前に立ち尽くしたまま、その一連の光景をただぼんやりと、まるで映画のスクリーンでも見つめるかのように眺めていた。乗らなければ取り残される。そう頭の片隅で警鐘が鳴っているにもかかわらず、どうしても足が一歩も前へと出なかった。

 やがて発車を知らせる事務的なベルがホームに鳴り響き、非情にも扉が閉まる。

 重たい鉄の車輪がレールを軋ませる鈍い金属音を響かせながら、黄色い帯を巻いた銀色の車体が、ゆっくりと、そして次第に速度を上げて、暗いトンネルの奥の闇へと飲み込まれていった。


 車輪がレールを打つ重厚な響きが、遠くへ、さらに遠くへと離れていく。

 やがてその残響すらもトンネルの闇に溶け込み、プラットホームからすべての喧騒と人の気配が一切消え去った。


 そして、静寂が地下空間に訪れた。

 周囲の音が、まるで分厚い水の中に頭まで沈められた時のように、唐突に消失したのだ。

 人の気配も、足音も、列車の振動も、何一つ残されてはいない。世界から自分以外のすべての人間が一瞬にして蒸発してしまったかのような、静まり返った暴力的なまでの空白がそこに広がった。


 その絶対的な無音の中で、真奈は糸の切れた操り人形のように、古びたベンチへと力なく崩れ落ちた。

 窮屈なピンヒールの中で、一日中硬いコンクリートやアスファルトの地面の上を駆け回り、極限まで痛めつけられていた爪先の激しい痺れと熱を帯びた痛みが、崩壊したダムのように一気に押し寄せてくる。それと同時に、限界を超えて何年も、十何年も張り詰め続けていた精神の糸が、脳の奥深くで音を立てて切断されるのを彼女は確かに感じた。


 息を吸い込もうとした喉の奥から、不意に、ひどく乾いた嗚咽が漏れた。

 慌てて両手で自分の口元を強く覆い隠すが、一度決壊してしまった感情の濁流は、彼女の強固な意志をもってしても、もう二度と堰き止めることはできなかった。有能なチーフとしての強固な仮面が剥がれ落ち、情けなく、泥臭い一人の弱い人間の顔が剥き出しになる。誰もいない、冷たい地下のコンクリートの壁に囲まれた無機質な世界で、たった独りぼっちで宇宙の果てに取り残されているような底知れぬ絶望感が、彼女の肉体と精神を同時に焼き尽くしていく。


 誰かに、本当の私を愛してほしい。この張り付いた仮面を力ずくで剥ぎ取って、血を流して怯えている本当の私を見つけ出してほしい。この震える両手を、誰かに強く、二度と壊れないように握りしめてほしい。

 けれど、そんな痛切でみっともない渇望は、この広く冷たい世界のどこにいる誰にも届くことはない。そんなことは、彼女自身が一番よく理解していた。


 華奢な肩が、仕立ての良い薄手のコートの下で、小刻みに、そしてみじめに震え続けていた。

 深く俯いた目尻から、何年も流すことを禁じてきた大粒の透明な雫が次々と零れ落ちる。それは膝元の上質なネイビーブルーのドレスの生地に染みを作り、みるみるうちに深い黒色へと変えていく。

 声すらかすかにしか漏れない、形を成さない嗚咽。

 その身を丸める姿によって、孤独の切なさと、仮面の下に秘められていたどうしようもない精神の脆さが、冷淡な蛍光灯の下で残酷なまでに浮き彫りになった。


 自分の掠れた呼吸の音と泣き声だけが、無機質なタイルに虚しく反響しては消えていく。

 華やかなドレスも、社会的地位を示す名刺も、今の彼女には風を防ぐ何の盾にもならない。パンプスのヒールが打ち鳴らす、自信に満ちた日常の足音はとうの昔に遠ざかり、ただ熱を奪われた肉体と、剥き出しになったみじめな心だけが、この地下の底にうずくまっていた。


 視界の隅、蛍光灯の白い光すら届かない、古いタイルの柱の深い影に、ひとつの不純物のような黒が沈んでいることに気がついたのは、そんな時だった。


 真奈は、息を呑んで涙で滲む顔をわずかに上げた。

 数十メートル離れた反対側のホームの最奥。非常用の赤いランプのわずかな光だけが届くその暗がりに、一人の男が影のように佇んでいた。


 長身のその体を包む上質な黒のロングコートは、周囲の空気の温度をさらに数度強制的に下げてしまうような、圧倒的なまでの静謐さと、決して他人の領域を荒らさず、また自身の領域への侵入を許さない冷ややかな余裕を漂わせていた。背中を冷たいコンクリートの壁に預け、コートのポケットに両手を深く突っ込んだまま、彼は何もない中空の一点をただじっと見つめている。

 一体いつからそこにいたのか。最終電車に乗り遅れたのか、あるいは最初から乗る気などなく、ただ地下の闇と同化するためにそこにいたのか。

 彼の深い呼吸は微動だにせず、まるで周囲を流れる時間そのものが、彼という特異な存在だけを避けて通り過ぎているかのようだった。その佇まいは、先ほどまで地上に溢れ返っていたクリスマスイブの熱気や、人々の生活の生々しい匂いから遊離しており、冬の夜の冷たい闇がそのまま人間の形をとってそこに立っているかのような、奇妙な錯覚さえ抱かせた。

 この世界がどうなろうと構わないと、すべてを諦めきったような端正な横顔。どこか遠くの世界を見つめているような憂いを帯びた色気を放ちながらも、ほんのわずかでも触れれば、硝子細工のように粉々に崩れ落ちてしまいそうなほど、危うく脆い輪郭。


 静まり返った無音の地下空間に、真奈のしゃくり上げる小さな声が微かに響く。

 その情けない泣き声に反応するように、柱の陰の闇に沈んでいた男が、音もなくゆっくりとこちらへ顔を向けた。

 あらかじめそこに配置されていた景色の一部のごとく微動だにしなかった彼の体が、抗いがたい引力に絡め取られるように、わずかに右へと傾いた。


 導かれるように、真奈の涙に濡れた瞳と、名も知らぬ彼の視線がまっすぐに交差した。


 数十メートルという物理的な距離があり、薄暗いコンクリートのホームの中である。

 それでも、二人は確かに互いの存在の深淵を、魂の輪郭を認識した。無音の世界で、二人の視線が硬質な火花を散らすように激しくぶつかり合う。


 男の瞳は、薄い硝子のように透明で、どこまでも、恐ろしいほどに冷ややかだった。

 長すぎる睫毛が青白い頬に落とす影の底には、分厚い氷に閉じ込められた、深い水底のような静寂が横たわっている。しかし、真奈には瞬時に理解できた。それは思考を介した理解ではない。自らの致命的な傷を隠して生き延びている人間だけが持つ、痛いほどの嗅覚が、彼女の脳髄にそれを直接教えたのだ。

 あの瞳の奥には、彼がかつて失った何かへの、絶対に取り返しのつかない壮絶な喪失感がべったりと張り付いている。もう二度と誰かと深く関わることを恐れ、傷つくことや相手を壊してしまうことを拒絶し、感情の波そのものを自らの人生から永遠に排除しようとする、激しい自己処罰と諦念。

 彼は、かつて愛した誰かの心を壊してしまった過去の記憶に、今もなお一人で囚われ続けているのだ。


 それはまるで、鏡に映った真奈自身の心の奥底の空洞を、まったく別の傷の形として見せられているかのようだった。


 言葉など、何一つ交わしてはいない。お互いの名前はおろか、年齢も、職業も知るはずがない。

 ただの、深夜の地下鉄のプラットホームに偶然居合わせただけの、見ず知らずの他人でしかない。

 それなのに、二人の間に広がる冷たい空間が、一瞬にして別の密度を持ったかのように、とても重く、濃密なものへと変質した。


 真奈の濡れた瞳の奥で叫んでいる、誰にも見せられない凍てついた孤独と、本当の自分を見つけてほしいという切実な渇望。

 そして、見知らぬ男の硝子のような瞳の奥に沈んでいる、すべてを諦めた静寂の底に隠された、触れれば血が噴き出すような過去の痛み。


 その二つの全く異なる絶望が、目に見えない細く強靭な糸で固く結ばれたかのように、激しく、痛切に共鳴し合った。


 真奈はわずかに開いた唇を震わせた。

 もちろん声には出さない。喉の奥が引きつって、声の出し方すら忘れてしまっていた。けれど、お互いの胸の奥底で、途方もなく長い間凍りついていた感情の破片が、微かに、本当に微かに熱を帯びて疼くのを覚えた。

 それは、同じ深さの致命傷を持つ者同士だけが、理性を飛び越えた本能のレベルで感じ取れる、救いがたいまでの引力だった。


 華やかな表舞台で偽りの自分を演じ続けることでしか社会での呼吸を許されない女と、深い影の中に身を潜め、他者との関わりを断絶することでしか生き長らえることのできない男。

 生きる世界はまるで違い、歩んできた道も交わるはずがない。抱えている絶望の形や原因さえ、本来なら共鳴することはないはずだ。それなのに、今この零下の地下空間においてのみ、二人の孤独の輪郭だけが、パズルの最後のピースのように奇妙なほど鮮やかに、隙間なく重なり合っていた。


 どちらが先に動いたわけでもない。

 ただ、お互いの瞳からどうしても視線を外すことができなかった。目を逸らせば、せっかく見つけた自分の存在証明のようなものが、再び永遠の闇に溶けて消えてしまうような気がした。


 もし今ここで声を上げれば、この限界まで張り詰めた見えない糸は、あっけなく切れてしまうかもしれない。

 もし今ここで一歩を踏み出せば、二人がそれぞれ固く閉ざしてきた、もう二度と戻れない過去の扉が同時に開いてしまうかもしれない。


 自己を失うほどの耐えがたい恐怖と、それに相反するような魂の震え。ほんのわずかな沈黙の時間のなかで、真奈は確信する。この瞬間、少なくともこの瞬間だけは、自分は広い世界でたった一人ぼっちではないのだという事実を。


 男は黒いコートのポケットの中で、冷え切った指先を微かに動かすように、ほんの少しだけ肩を強張らせた。

 どれほど長く、互いの魂の底を覗き込むように見つめ合っていただろうか。永遠にも思えるその重たい空白を切り裂いたのは、容赦のない現実の音だった。


「お客さん、もうシャッター閉めますよ」


 遠くの階段の上から、巡回にきた駅職員のざらついた事務的な声が響き渡った。

 その現実の気配に手首を強く引かれたように、男はわずかに長い睫毛を伏せた。固く絡みついていた視線の糸がほどけ、彼は背中をコンクリートの冷たい壁からゆっくりと離した。

 何かを言いかけるように、あるいは真奈のほうへ一歩を踏み出そうとするように、彼の履いている革靴の爪先がわずかに動いた気がした。しかし、彼はそれ以上距離を縮めようとはせず、二人の間に不可視の境界線を引くように、半歩だけ後ろへと下がった。


 真奈もまた、見知らぬ相手に対してこれほど無防備に、心の最も柔らかく醜い部分を晒し切っていたことに遅れて気づき、弾かれたように両手で顔を覆った。乱れた呼吸を必死に押し殺し、ドレスの裾を強く握りしめる。強烈な恥ずかしさと、言いようのない気まずさが胸の奥に込み上げた。

 だが、それ以上に彼女の心を深く驚かせたのは、先ほどまで胸を容赦なく刺し貫いていた、あの底知れぬ孤独の冷たさが、ほんのわずかに、ごく自然に和らいでいるという事実だった。その場に残された確かな温もりの痕跡に気づき、彼女は小さく身震いした。


 強い冬の冷気がホームの通気口から吹き抜け、真奈のコートの裾と、男のロングコートの襟を同時に揺らした。


 時間にして、ほんの数十秒の出来事にすぎなかった。

 しかしそれは、強固に凍りついていたお互いの人生の歯車を動かすには、あまりにも十分すぎる、濃密で運命の歯車を回す時間だった。


 男はもう一度だけ、視線をわずかに真奈のほうへ向けた。

 ベンチで小さく身を縮める彼女の丸まった背中に僅かな一瞥をくれ、彼はゆっくりと反対側の出口、まだ微かに開いている夜間通用口のほうへと歩き出し、靴音を忍ばせるようにして薄暗い地下通路の闇の中へと姿を消していった。


 足音が途絶え、あとに残されたのは、やはり先ほどと同じ自分一人だけの静寂だった。


 真奈は覆っていた両手をゆっくりと顔から離し、彼が消えた暗い通路の奥をじっと見つめた。

 先ほどまでの凍りついた絶望の淵とは、明らかな変化が起きていた。膝を抱える真奈の手のひらに、そして、名も知らぬ彼がほんの数秒前まで立っていた空間の余白に。

 ささやかな、けれど決して消えることのない確かな疼きだけが、熱を帯びて残されていた。


 華やかなイルミネーションが人々の眼球を焦がすクリスマスイブの終わり。

 それは、二人が抱え続けてきた永遠にも似た残酷な冬を終わらせるための、あまりにも静かで、あまりにも劇的な運命の始まりだった。

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