ロロは借り猫に救われる
ロロ。
そう名付けられたのは、秋の一番寒い日の事だった。
名無しのまま16年間を生きて来て、漸く与えられた名前は、舌の上で転がすと何だか小気味良く響いた。
気に入ったのだと鼻歌交じりに名付け相手に会いに行った翌日、帽子を被った少年は、目を見開いた。
「何だって?もう帰ったって。そんな。嘘だろ。」
「嘘も何もあるか。さぁ俺は暇じゃないんださっさと行った行った!!」
教えてやったんだから満足だろ、とでも言いたげな顔をした船乗りに追い払われて、帽子を落っことさない様に手で押さえながら懸命に走った。
流石に、借りてきた猫も、いつも愛想の良い彼から、剥がれ落ちてしまいそうな位の衝撃を受けていた。
表面上だけの自分ではなくて、ちゃんと中身まで見てくれる人物だと思ったから、名前を考えて貰ったのに。
胸の奥底を綺麗に切り裂かれた様な。それでいて、人を疑い切れないロロらしい、既に治り掛けの様な、ズキズキとした痛みがあった。
ロロにとって、1日と言うものは、いつか死ぬ日までの延長線上に過ぎなかった。
色褪せた目玉も、見慣れた疲れた顔付きも、誰かも知らない人間に似た細やかな性格も。
それら全てが彼にとっての今日を生きる為に必要とするその全てだった。
だからこそ、今直ぐにでも、この顔を焼き払いたくなった。
「こんな顔をしているからっ!俺は、アイツに捨てられたんだ!!」
走り抜けた少年の後に、キラキラとした水が取り残されていった。
餞別紛いの名前なんて要らなかった。
こんな事になるなら、明日も会おうなんて約束をしなければ良かった。
もう何もかもが滅茶苦茶で、何も信じられなくなってしまう。
どん底に落ちた気分でいたロロは、走って、走って。何度か転んで、尚も走った。
そうして、最後の方は蹌踉めきながら歩いて、躓いた。
もう一歩も歩けない程に火照った体で、更に、一歩、一歩と進みながら、ぜぇぜえと息をしていた。
今日は星がよく見える日だった。
あの日以来、ぱったりと行かなくなった丘の上は、どんな場所よりも静かで、草木を撫でる風と夜鳥の鳴き声以外の音は見当たらなかった。
「俺なんか……みんな、どうでも良いんだ。どうでも。」
膝を抱えて蹲り、今日が過ぎてくれるのを待った。
誰かは、その日を最高の日だと言い、誰かはいつもの変わらない日だと言うだろう。
もしも、そうだとしたら、ロロの担当する台詞は、今日はなんて最悪の日なんだと言う台詞だろう。
だが、喉元まで出掛かった言葉は、遂には口から出て来なかった。
「キサねえちゃん、どうして俺の大切な人は皆、俺を置いてっちまうんだよ。ねえちゃん、どうして病気になんか負けたんだよ。ねえちゃんが本当なら、っ、俺の、名前、付けてくれる筈だったろ?」
最後の方は、嗚咽混じりの鼻声になりながらも、それでも、ロロは今日と言う日を呪わなかった。
だって、今日は、ロロの生まれた日だったから。
前日に最高のプレゼントをされて、当日に別れを告げられた誕生日を迎えた本人の気持ちとしては、今日1日の感想なんて出て来る言葉も浮かばなかった。
ーーロロ、笑って。
一文字だって今日と言う日に名前を付けたくなかった。
ーー笑っていたら、いつかきっと、本当に出会いたい人に出会えるから。ね?
祝われるべきだと誰かが言ったのだ。
祝ってくれる人が居なくても、自分だけでも自分を祝う日。それが、今日なのだと。
そして、いつも被っている猫の成果が明確に出る日でもあった。
因みに、猫とは、ロロの頭の上に乗っている大きな猫、詰まる所、被った愛想の事である。
家に帰ったら大小様々な大量のプレゼントが、皆こぞって匿名で家の前に積まれている日でもあったのだ。
しかし、足は一向に動かない。心が、あの家に帰りたがろうとはしていなかったからだ。
兎に角、そんな訳で、ロロにとっての今日は、ただ全てを忘れて、笑いながら眠れる日でもあった。
逆に言えば、そんな日でも無ければ、今頃、ロロはとっくに何もかもを放り出して、思い立った通りに顔を焼いてしまっていたかもしれなかった。
運が良いのか悪いのか。それとも、船旅に出た名付けたその人が策士だったのか。はたまた、全てが予定調和のもとに為されたものなのかは誰にも分からなかった。
ロロは、赤い目元のまま、星空を見上げていた。
今生の別れを手紙越しに告げた彼女から借りた猫なんて、本当はロロのものじゃなかった。
でも、もう今となっては、ロロを形作る一部にもなっていた。
それは最早、借りた猫ではなくて、借りっぱなしの猫なのかもしれなかった。
「……ずびっ。」
寒さとは違う別の意味で鼻が鳴った。
悲しくても苦しくても、この丘に来たなら、ただ星に魅入るだけ。たったのそれだけで、ロロは幸せになれるのだ。
あれがどんな星で、あっちがどんな名前の星なのか。ロロがねえちゃん、と呼んでいた人物が丁寧に教えてくれた。
余命が短かった割にはパワフルな笑顔をよく浮かべていた人だった。
最後には、痩せ細った姿を見られたくないからと、ぱったりと丘に来なくなってしまった。
彼女が亡くなってから、知らせを持った老人がやって来て、生前の彼女が用意していたまだ名も無きロロ宛の手紙を渡されて知った。
「……ピッタリな名前が思い浮かばないから、一番似合う名前をプレゼントしてくれる人に出会えます様にって私に祈ってもらえた人へ。って、どんな宛名なんだよちくしょう。」
またもや、ずびずびとロロの鼻が鳴った。
だが、一つ言える事は、この丘に来た時よりも、幾分か幸せそうな眼差しを少年がしていたと言う事だった。
辛い事も悲しい事もこれから先、生きている以上は何度だってあるだろう。
けれども、今まで積み重ねてきたロロにとっての宝物でもある大切な思い出達が、少年が大人になったその時も、そして、その先もロロを支えてくれるだろう。
「あーあ。今年も一人で迎えちまった。来年くらいは、友達の一人でも姉ちゃんに会わせに行きたいな。」
そう笑いながら立ち上がったロロは、寝床を目指して丘に背を向けた。
ふと、誰も居なくなったその場所に一陣の温かい風が吹いた。季節外れのぬくい風は、微笑む様に、一輪の花を翌日に咲かせていた。
それから少しして、早々に船旅から帰って来た名付け相手に、ロロは泣き付かれていた。
なんでも、誕生日の日付を間違えて覚えていた。と言うのが言い訳だった。
右から左へと言い訳を聞き流していたロロは、ハイハイ、とおざなりな返事を返しながら、仕事をこなしていた。
仕事の邪魔になりかねない良い年をした大人に纏わり付かれながらも、軽くスルーして、与えられた仕事をこなす姿は、もう慣れたものだった。
彼は、ロロ。
後に、伝説にも英雄記にも異伝にも名を残さない、ただの世界に一人しか居ない幸せ者だった。
彼にとって、大切なものは、ずっと変わらずに傍にあった。
それは、自分がどんな時にも自分らしくある事であり、そうなれた自分に行き着くまでに出会った沢山の人との出会いに恵まれた事であり、ロロと言う名前を得た事だった。
「ロロ!娘さんが来てるぞ。」
「はいよ。」
今し方座ったばかりの席で、机から顔を上げた男は、にっこりと笑う。
「とーしゃ!!」
「おぅおうよく来たな。」
「ごめんなさいね、お邪魔しちゃって。どうしても会いたいと愚図るものだから……。」
「良いって事さ。いつもありがとう。」
平和そのものな光景を作り出す3人の姿は、嘗ての名無しの少年を知る者にとっても、そうでない者にとっても、ただこの世界の昔も今も続く幸せをその姿で語っているみたいだった。
ただ一人が欠けても得られない日常が、そこにはあった。




