窓を閉める
「ソウタ、ソウタ〜。もう休み時間だぞ、起きてるか〜?」
そんな自分を呼ぶ声がして僕は顔を上げた。声の主はクラスメイトで友達のキラだ。彼はいつの間にか僕の机の側まできていた。
「お前が授業中寝るなんて珍しいな。昨日夜寝るの遅かったのか?」
キラはそう聞いてくる。別に僕は寝ていたのではなくて、さっきの授業の先生が比較的生徒の授業態度に無関心なのをいいことに机に突っ伏して少し考え事をしていただけなのだが……まあ、キラから見たらそれは寝ているように見えるだろう。
「うん、まあちょっとね」
僕は曖昧に誤魔化す。ここで実は寝ていたのではなくてちょっと考え事を〜なんて僕が言ったら、寝ていたことを隠すために言い訳をしていると思われるだろうし「じゃあ何を考えていたんだよ?」と聞かれても困る。
「ふ〜ん」
とキラは僕の返答を流し、そのまま別の話を始めた。僕はそれに相槌をうちながら、頭の中でさっき授業中に考えていたことをまた考えだす。
僕がそれに気づいたのは、二週間ほど前のことだった。
僕もキラも帰宅部で、下校する時は途中まで一緒に帰っている。二人ともたまたま徒歩で通学できる距離に住んでおり、いつものように途中で別れて僕は一人で歩いていた。
自分の家へ帰るために無言で歩いていると、ふと僕は後ろから足音がすることに気づいた。キラが何か用事があって追いかけてきたのかと思って振り返ると、そこには一人の女性がいた。
その人は、年齢的には僕よりかなり上……というかはっきり言って僕の親くらいに見える女の人だった。目が合うとどこかぎこちない笑みを浮かべてくる。近所の主婦が買い物帰りか何かで歩いているのかな、と僕はさして気に留めず、そのまま家に帰った。家に入る直前くらいまでその女の人を見かけたけど、偶然方向が同じだったんだとあえて気にしなかった。
ところが僕はその女の人をそれからも毎日、学校のある日の下校時に見かけるようになった。キラと別れる道から、つまり僕が一人になるところから後をついてきて、僕が家に入るまで見ている。流石におかしい。
両親にそれとなく相談してみたけれど気のせいではないかと言われてしまい、僕は余計に悩んでいた。
「ソウタ、ソウタ聞いてるか〜?」
キラの声で我に返る。そうか、今は学校の休み時間だ。
ふと、キラにその女の人のことを相談してみたらどうだろうかという考えが浮かぶ。キラはコミュニケーション能力が高くて友達も多いし、こういう人間関係の悩み……というのとは違うが人間に関する悩みを相談するのにはいい相手かもしれない。
「キラ、あの、全然話違うんだけどさ、後で……というかそうだな、放課後くらいに時間ある? ちょっと相談したいことがあって」
「ん? い〜よ。珍しいな」
キラは驚いたようだったけど、とりあえず割と軽い感じで了承してくれた。
放課後、僕は教室でキラに、最近いつも下校中にキラと別れたあと知らない女性に家まで後をつけられている話をした。僕にとっては真剣に悩みながら話したことだ。
しかしキラは話の途中からなぜかニヤニヤしだし、僕が話し終わるとこういった。
「で、その女の子って何歳くらい? かわいい?」
「……え?」
僕は一瞬キラの質問の意図が分からなくて言葉を失ったけど、いつまでもフリーズしているわけにも言わず目の前の質問に片方だけ答えた。
「僕の親くらいの年の人だと思うけど……」
「は? なにそれ期待して損したわ〜。俺はてっきりソウタに春が来たのかと思ったのに」
「え、ごめんキラどういうこと?」
「え? 今の話ってお前のモテ自慢じゃないの〜?」
キラの思考回路についていけない。僕は自分が相談相手を完全に間違えたことに気づいたけれど、言ってしまった言葉はもう取り消せない。
「ていうか相手オバさんなんだろ? ソウタの勘違いじゃねぇ? 気のせいだって」
「……それは親もそう言ってた、けど……」
「だろ? てかそんなこと親にも話してたのかよ、おもしれーなソウタ」
まるで僕が間違っているかのように進んでいく会話に、どうしたらいいのか分からない。
「あ、そうだ。今の話で思い出したんだけど、俺が中学の時にクラスでっていうか、なんか問題になってその時の担任が怒ってたことがあって」
キラは突然僕の知らない話を始めた。
「これはそーゆーのとかじゃないからマジにとらないでほしいんだけど、なんかクラスの男子の一人が別の男子にキスしたんだって。いたずらっていうか。された奴が驚いて泣いちゃって。それで担任がこれはセイカガイ? セイヒガイ? だって言ってすげー怒って」
それは確かに性的な加害だろう。担任の先生の対応が正しい。でもキラはそう思ってはいないようだ。
「なんかソウタ、あの時の担任みたいだな」
と言ってキラは笑った。明らかに嘲笑が含まれている笑いだった。
その後僕はいつものように、途中までキラと一緒に帰ったけれどその時にキラが何を話して僕が何を答えたのかはあまり覚えていない。キラは僕の相談なんて忘れてしまったかのようにどうでもいい話をしていて、僕はそれに表面上いつも通り答えていたような気がする。僕がそうしてしまったことでキラは、やっぱりオバさんのストーカーの話なんて大したことなかったのだと思ってしまったのかもしれない。
だけどもう、これ以上僕に何ができるというのだろう?
キラと別れ、一人で歩いているとまた後ろから足音が聞こえる。あの女の人だ。僕はもう正直疲れていて、半ば投げやりな気分でその音を無視して歩いていた。
でも、今日はそれでは済まなかった。
「あの、今日、遅かったね」
女の人は、初めて僕に声をかけてきた。
僕は驚いて転びそうになり、慌てて体勢を立て直して振り向いた。そうすると女の人は少しほっとしたような顔をする。
「今日、帰り、遅いなって、心配して」
女の人はゆっくりと喋った。今日の放課後は教室でキラと話していたのだから遅くて当然だ。だがそれを言うわけにもいかず、僕はとりあえず愛想笑いで誤魔化そうとした。
「……あは……」
「ソウタくん」
僕は誤魔化そうとしたのに、女の人はなぜか、知らないはずの僕の名前を呼んだ。
「ソウタくん、仲良く、しよう」
「……え?」
「ソウタくん……」
一歩、女の人が近づいてくる。
僕は全速力で走りだした。自分の家に向かって。家に入ってドアを閉め、鍵をかける。玄関に座り込んでから家の場所なんてとっくに知られていることを思い出す。そして、今家に家族はいない。僕一人だ。
ピンポーン、と音がする。この音が家族が帰ってきた音だったらどんなにいいだろうと思うが、ごめんくださーい、という女の人の声がしてそうではないことを思い知らされる。
ピンポーン
ごめんくださーい
ピンポーン
音と声はずっと続いている。
どうしよう、警察を、呼ばなきゃ。
この状況を見たら流石に親も、キラも、警察の人も僕の気のせいだなんて言わないだろうか。自慢だとか、勘違いだって言わないだろうか。
分からない。あの女の人がしていることが、親やキラが言ったことが間違っているのか。それとも僕が間違っているのか。
一人きりの家の中で、僕は立ち上がる。
窓が全部閉まっているかどうか、今すぐ確認しないといけない。