中学一年春、夢へと続く道
――中学一年、春。
小学校を卒業して、俺たちは予定通り学区内の公立中学校へと進学する。
「……な、何見てるのよ」
全国大会決勝のマウンドでも平常心に見えた小南は顔を赤くして制服のスカートを隠す様に手で押さえる。中学校の入学式、もしかすると小南がスカートを穿いているのを見るのは初めてかもしれない。
「や、別に」
いつもみたいに『似合わねぇ』とかそんな軽口を叩こうとも思ったけど、鋼の心臓だと思っていた小南が本当に不安そうにしていたし、初めて見るスカート姿ではあったが決して似合わないとは思わなかったのでそんな言葉は飲み込んだ。でも小南はまだ不安そうに、恥ずかしそうに、それを隠すように赤い顔で口を尖らせる。
「嘘。絶対『似合わねぇ』って思ってるでしょ。分かるんだから」
俺はわざとらしく小さな溜め息をつきながら、やれやれと首を横に振る。
「はいはい、じゃあ『似合ってる』とでも言えばいいですかね?小南さん。制服姿、お似合いですぜ」
小南は赤い顔のまま言葉を止めると、何秒かしてからうつむき、チラリと上目に俺を見る。
「……し、翔都も、似合ってるよ」
不覚にも、『え』と一音発して言葉が止まる。
もしかして、小南も俺の事を好きなんじゃないかって、この時初めて思った。
けれど、俺が小南のことを好きで、仮に小南も俺の事を好きだったとしても、あいつからエースナンバーを奪わずして告白なんて考える事も出来ない。コントロールは遥かに劣るかもしれないが、球速は俺の方が速いし、中学野球からは変化球が解禁だ。あいつとの差なんてすぐに埋めてみせる。そして、――。そんな決意を秘め、俺と小南の中学校生活は始まる。
期待と希望に満ちた中学校生活。待ちに待った部活動が始まると、少し暗雲が立ち込める。
「――小から来ました小南陽菜です!ポジションはピッチャーです、よろしくお願いします!」
「立花翔都、ポジションはピッチャーとライトっす。よろしくお願いしやす」
野球部は総勢四十人ほどで、新一年は十二人。その中で全国制覇チームの元エース・小南は当然注目の的だった。女子部員は彼女ひとりで、マネージャーはいない。
チームのレベルはさほど高くなく、小南のグラブ捌きひとつでその差は歴然――俺を除いて、だが。
練習は週四日。一年は実力に関係なく球拾いやグラウンド均しに徹し、専任コーチもいない。監督は体育教師で、曰く「中学に耐える体作りのため」バットを握れるようになったのは五月の半ばだった。
「どんだけ走らせる気だよあのおっさん。今時古いんだよ」
不満を込めて投げた球はスパンと小南のグラブに入る。
「走り込みの有用性についてはプロでも賛否の分かれるところだけどね。でも今まで小学生だった中学一年とこれから高校生になる三年生だと基礎体力が全然違うからって言うのは少し分かるかなぁ」
放課後、部活が終わった後でも近所の公園で軽くキャッチボールを行う。バッティング練習の方は少ない小遣いを用いてのバッティングセンター通いで補っている。
「あの調子じゃ絶対一年坊なんてベンチ入りすら出来ないぜ?ったく、そんなんだから弱小なんだっつの。石とダイヤの違いもわかんねーんだから」
「そんな事言わないの。とにかくちゃんと監督にアピールしながら出来る事をやっていくしかないでしょ。甲子園の道に近道なんてないんだから」
「へいへい、小南さんは人間が出来てますなぁ」
多分、俺一人で入部していたならこの辺りで早々に心が折れてやけっぱちになっていたと思う。俺が愚痴って、小南に諭されると言うキャッチボールがこの頃は毎日の様に行われていた。
「で、中学生になった訳だけど……」
小南はグラブに収まったボールをポンと一度宙に投げて、左手でパシッと掴んで俺の方に向ける。そして自信に満ちた笑みを浮かべる。
「カーブ。投げるから受けてくれる?」
五月の終わり、近所の公園、水銀灯に照らされて小南が差し出した白いボールが白く輝く。
「握り方知ってんの?」
しゃがんで捕球体勢を取りつつ、グラブを右こぶしでパンパンと叩いて気合を入れる。
「うん。練習したからね」
「何!?てめぇ、いつの間に」
「ふふ、ごめんね。わかりやすい解説動画あったから後でアドレス教えてあげるよ」
学校に通い、部活をして、その後俺とキャッチボール。確か塾にも通っているはずだが、どこにそんな秘密特訓の時間があるのだろうと内心感心する。それはさておき、カーブ。以前俺のカーブを鼻で笑った事は忘れていない。
「んじゃ甲子園、決勝。九回裏、同点。ツーアウト満塁、バッターは……」
メジャーの強打者の名前を出そうとしたが、逆に現実味が薄れると思ったので止めておく。
「バッターは?」
「バッターは……、俺!」
俺の言葉に小南はグラブで口元を隠してぷっと笑う。
「何それ。あたしと同じ学校じゃないの?」
「あ、そうか。んじゃ将谷。将谷王平」
小南が野球を始めるきっかけになったメジャーでバリバリ活躍中の生ける伝説。
「あははっ、オッケ~。それは燃えるね」
小南は目を閉じる。多分、その瞼の裏では夏の甲子園決勝のマウンドが描かれているのだろう。焼ける様な日差し、満員のスタンド、轟くような大歓声。大きく息を吸い、吐く。18・44メートル先の左打席でバットを構えるのは日本人離れした体躯の将谷選手。小南の描くその未来予想、俺はどこにいるのだろうか?とふと気になる。やはりライトだろうか?
小南は目を開ける。そして、俺が構えたグラブ位置をもう少し低めにと自身のグラブで指示を出す。何度かの微調整の後で、コクリと満足気に首を縦に振る。
「そこ。グラブ、動かさないでね。絶対」
「お、おう」
ピンと張り詰めた空気に、夕方の公園は不思議なほどの静寂に包まれるがきっと気のせい。辺りは普通に車の音やらが聞こえているに違いない。
ザッ、と砂をにじる音がして小南は足を上げる。セットポジションから放たれる白球。球は明らかに高い。俺の顔の辺りへと向かう。プロテクターも着けていない。避けるか!?いや――。
ボールがグラブに俺へと届くまでのコンマ何秒の間に浮かんでは消える恐怖と葛藤。それらはズバンとグラブの鳴る音できれいに霧散する。小南の投げたボールは、まるで誘導装置でも付いているかのように、大きな放物線を描いて俺の構えた場所へと寸分違わずに収まった。
「……すっげ」
思わずそう呟いてしまい、聞かれていないかとごまかすように慌てて声を上げる。
「って、あぶねぇだろ!当たったらどうすんだよ!」
ボールを投げ返すと小南は嬉しそうに笑う。
「当たらないって。どのくらい曲がるか分かって投げてるもん」
「そう言う問題じゃねぇ!」
一旦キャッチボールは終わり、動画のアドレスを教えて貰いつつストレッチの時間。
「でもねぇ、あたしあんまり手が大きくないからグラブの中で握りもたついちゃうんだよね」
そう言って小南は手のひらを広げる。言われてみれば身長はまだ俺よりわずかに高いにも関わらず小南の手は俺より小さく、指は細い。手のひらにはマメが出来ていて、ぱっと見女子の手とは思えない。
「手ぇ出してみてよ」
ストレッチをしながら言われるままに差し出された左手に自分の左手を重ねる。確かに俺の手より一回り程小さい。でも、そんな事どうでもよくなる位に顔が熱くて胸がドキドキして、小南の顔がまっすぐに見られなかった。
「えいっ」
不意に小南は合わせた手をギュッと握ってくる。
「ちょっ……!?」
反射的に顔を向けると、小南は少し顔を赤くしながら照れくさそうに笑っていた。
「えっ、……えへへ。どうかした?」
「どうかした?じゃねぇよ……」
出来る限り平静を装いながらも顔が熱くて、きっと俺の顔も真っ赤なんじゃないかと思う。
「頑張ろうね」
小南はぎゅっと手に力を入れてそう言った。頑張ろう。素直にそう思った――。