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中学二年・冬、行き止まり

◇◇◇


 元々野球が好きなわけではなかった。


 部活に行かなくなっても他にする事もないし、遊ぶ金も無い。俺はただ、走る。そして、未練がましくも思い出す。俺と、小南の小学一年からずっと続いたキャッチボールを。

『立花くん!キャッチボールしよう!』


 家が近かったから毎日の様に学校帰りに小南に誘われた。


『翔都くん!キャッチボールしよ』


 いつしか、呼び名も変わった。もしかすると探せば他に野球をやっているやつはいたかもしれないし、いれば他のそいつでもよかったのかもしれない。


『翔都、キャッチボールやろ』

 

 俺は小南と同じ学校で同じチームに入って家が近いと言う偶然に感謝した。いつからその幸運に慣れてしまったのだろう?


 練習に顔を出さなくなってからひと月経つ。要するに、俺が好きだったのは野球でなく小南陽菜だったと言うだけの話。何とも女々しくて情けない、全国の球児たちに到底顔向けできないような話だ。自分で言うのはなんだけど、もう少し野球が好きだと思っていた。


 冬休みになる。


 もうずいぶんボールも握っていないし、バットも振っていない。当然練習にもずっと出ていない。冬季大会は一回戦負けだったと誰かが話しているのを聞いた。


 ふと、思い立ってグラブとボールをスポーツバッグに入れて家を出る。バッグの中には、未練がましく左利き用のグローブも入っている。――小南は左利きだ。夕方過ぎ、鼻の頭がツンと冷える。夜からは雪が降るらしい。


 近所の公園はだだっ広い敷地の入口付近に遊具や広場があり、奥には木々や草むらが広がる。球技が禁止されている公園も多いと聞くが、幸いこの公園では禁止されていない。遊具から離れた広場の端っこの草むらの辺りで、いつも俺たちはキャッチボールをしていた。でも今日は一人だ。投げても捕る相手がいない。人もいない事なのでネットに向けて投げる事にする。


 目測で距離を取る。多分丁度18.44メートル。グラブを嵌め、ボールを握り、大きく振りかぶって、投げる。久しぶりの全力投球。本来なら準備運動もせずにするべきではない。でももう関係ない。


 ボールは幾つも持ってきている。足元に置いたバッグからボールをもう一つ取り出す。


 振りかぶって、投げる。緑のネットはパスッと軽い音を立てる。何度も投げる。大きく振りかぶって。全力で投げる。息が切れても、久し振りに投げた指先や掌が痛んでも、投げる。ボールは全部で十一個あった。全部投げたら拾い集めてまた投げる。


 何度もそれを繰り返した。心の中の何かを吐き出すように、何度も何度もボールを投げた。


 何球目かも覚えていない。いつしか掌の皮は剥け、血が滲んでいた。ボールを手に取り目を瞑る。


 この一球で終わりにしよう。小一のあの日から始めた、ただ白い球を投げたり打ったりするだけの、野球って言う名前の下らない球遊びを。俺と小南が出会った切っ掛けの大切な思い出を。


 高校三年の夏、甲子園大会決勝戦。九回の表、ツーアウト満塁、フルカウント。バッターはかつてのチームメイトであり春のセンバツMVPの蛇島竜太郎。


 瞼の奥、大歓声の中でマウンドに立っていたのは、俺ではなく小南だった。俺は、小南が投げるのを見ているのが好きだった。


 ズッと鼻をすすったのはきっと寒さのせい。目から水滴が漏れたのは結露か何かだろう。


「ちっっっくしょおおおおぉっ!」


 他の誰でもない、自分自身に対する怒りが声になって出る。そもそもライバルですらないのかもしれない。小南の方が自分より上な事はずっとわかっていた。本来なら小南が選ばれるべきで、何の間違いか自分だけが選ばれてしまったバツの悪さと微かな優越感を誤魔化す為に、あんな言い方しか出来なかった自分自身への怒りと恨み。


 そんな歪んだ思いを乗せて力任せに投げた球は、大きくネットの上部へと外れていく。そんな締まらない一球は俺の野球人生最後の一球にお似合いだろう。


 そのままゴロリと地面に寝転がり天を仰ぐ。


「……やめた」


 久しぶりに寝転がって見上げた空は、分厚い雲に覆われて星の一つも見えやしなかった。そしてその雲もすぐにじわりと(にじ)んで見えなくなる。そう言えば、雪が降ると言っていたっけ。多分それだろう。


 両腕で目を覆い、気が付くと人目を憚らずに声を上げて泣いていた。


 小六の夏、全国大会の決勝戦。小南が最後の打者を打ち取った時、俺たちの道は確かに甲子園に続いていると思った。でも本当はそんなことは無く、こんな近所の公園までしか続いていないような行き止まりだったんだ。いや、俺がそうしたんだ。


「風邪ひくよ」


 頭の上の方で聞き慣れた声がして、慌てて上体を起こす。


 俺が勢いよく起き上がったので、声の主はやや驚いた顔をして半歩あとずさる。声の主は小南だった。青いジャージに白のベンチコート。手には金属バットを持ち、呆れた様な心配そうな顔で俺を見下ろしている。


「大丈夫。バカは風邪ひかないから」


 俺の軽口にクスリと笑いながら小南は隣にしゃがみ込み、眉を寄せてジッと俺を見たかと思うと自身の目元を指さす。

「目、濡れてるよ」

「あぁ、問題ない。ただの結露だよ、結露。知ってる?」

「へぇ」

 素っ気なく答えると小南は俺の目元を指で拭い、あろう事か拭った指をそのままペロリと舐めて、べぇと舌を出す。

「しょっぱ。やっぱり涙じゃん」

 予想外の行動に思わず顔を熱くして何も言えずにいると、小南は構わずよしよしと俺の頭を撫でてくる。

「泣かないでよ」

「泣いてねぇ」


 この一年間が何だったのかと思うくらい、不思議なくらい普通に小南と話せた。


「何してたの?練習?」

 しゃがんでいた小南は俺と同様に地べたに座る。相変わらず服が汚れるとか気にしないやつだ。髪は伸びて、肌も白くなったがそのあたりは変わらないらしい。

「んー」


 何と言おうか正直に言うか言うまいか少し言葉に詰まる。


「まぁね。秘密の特訓だったんだけどな」


 そして少し得意げに真っ赤な嘘をついてしまう。間抜けな話かもしれないけど、小南に『野球は辞めた』って言われたのがショックだったから、小南にはそう感じさせなくないって思った。


「へぇ。部活にも出てないのに?」

「う」

 ぐうの音も出ない返しに思わず『う』と声が漏れる。最初から嘘だと気付いていただろう様子で、優しく微笑みながら言葉を続ける。


「こないだはごめんね。急に怒鳴ったりして」

「それは別にいいよ。そんな事より、野球……本当にやめたのか?」


 申し訳なさそうに眉を寄せながら、コクリと頷く。


「うん」


 なんでだよ、と声を上げそうになるがグッと飲み込む。


「じゃあ、俺もやめる」

「はぁ?馬鹿じゃないの?ダメに決まってるじゃん」


 理不尽な事を言いながら小南は首を横に振る。


「じゃあお前もやめるのやめろよ。つーか何で野球やめたやつがこんな時間に金属バット持って歩いてんだよ。通報もんだぞ」


 至極常識的な俺の指摘。さすがに小南も苦笑いだ。

「あはは、確かに。でも公園でおかしな叫び声がしたから見に行こうとしたら、危ないから持っていけってママに持たされたんだもん」


 まさかの暴漢対策。久しぶりの会話のキャッチボールはここしばらくの無常感が嘘みたいに心地よい。でも、楽しければ楽しい程、足りないものが際立ってしまう。


「……なぁ、小南」

 小南は次の言葉を悟っている様で、困り顔でほほ笑む。

「ん?」


「また一緒に野球やろうぜ」


 懇願にも似た俺の言葉に、小南は両手を口に当てて少し思案する。しばらく来ない間に公園の灯りは水銀灯からLEDに変わっていた事に今更ながら気が付いた。本当かどうか知らないけれど、LED灯は蛍光灯や水銀灯より紫外線の放出が少ないから虫が寄ってこないと聞いた事がある。どのみち今は冬だから知る由もないけれど。


 そして、小南は自分に言い聞かせるように一度『うん』と口にしてから、決意を秘めた目を俺に向ける。

「いいよ」


 小南は立ち上がり、傍らに置かれた俺のグラブを差し出してくる。

「翔都があたしの全力を込めたボールを捕れたならね。そうしたら、……また一緒に野球しよ」

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