section5『崩れた境界』
どれだけ想像しても、現実はそれを超えてくる。
恐怖に震える身体。知らなかったはずの世界が、いま目の前で“痛み”と“血”をともなって突きつけられる。
まだ“何もできない”少女の心が、少しずつ、確かに揺れはじめていた。
粉塵の舞う通路で、真と隼人が前線を維持していた。
「……っ、鬱陶しいな……!」
短髪の男が低く唸り、振るった拳を隼人が受け止める。鍛え上げた腕とノアの強化がぶつかり、再び空間に鈍い衝撃が響いた。
「チッ、やるなテメェ……!」
隼人は応じるように踏み込む。だが男も引かず、わずかに後退しながらも身構え直す。
その一瞬、痩せ型の男がすかさず鎖を操る。しなる金属が地面を這い、横から真を狙った。
(……見えた)
視界の端に、危険な軌道だけが赤く浮かび上がる。
真のミロクの能力が未来の危機を示す。
その赤をなぞらぬように、真は一歩を踏み外す。
鎖が空を裂き、数センチ横を通過した。
(……こいつら、連携もしてる……)
敵のノアそのものは大した脅威じゃない。
けれど、地形と数と経験――それが積み重なれば、こちらも確実に削られていく。
(……あいつは……)
真がちらりと後方を見る。澪は通路の陰、凪の後ろに控えていた。
無理に前に出ることなく、ただその場に膝をついたまま。
目の前で何かが起きていることは、確かに理解している。
でも、それにどう対処していいのかが分からない。ノアも、この異常な世界も――言葉でしか知らない。
その様子を、鳴も視界の端で捉えていた。
(……震えてる……)
彼の識刻眼は、澪の微細な動きをも読み取っていた。
肩の揺れ。手の震え。焦点の定まらない目――“何もできない”という感情が、澪を縛っている。
(仕方ない。こんな状況、普通は動けない)
鳴はそう思いながらも、どこかで引っかかっていた。
(でも、あの子……見てる。目を逸らさずに)
恐怖に震えながらも、逃げてはいない。
そのとき――
「下がれ」
凪の冷たい声が響いた。
敵の鎖が、空間を縫うようにして放たれる。凪が展開した氷の壁が一部を防ぐが、一本――逸れた軌道の鎖が、物陰の澪を目がけて飛んでいく。
「っ……!」
凪の目が見開かれる。
だが、そのとき――
「……澪、下がって!」
鳴の声とともに、その身体が割って入った。
ガッ――!
鎖が鳴の腹部を貫き、地面に叩きつける。
「っ……ぐ……」
そのまま鳴は膝をつき、吐血した。
「鳴……!」
凪がすぐに駆け寄ろうとするが、もう戦線は崩せない。すでに次の鎖が空間を走っていた。
「……鳴、っ……!」
澪は目の前で倒れた鳴の姿に、ただ息を呑む。
――血が流れている。赤い液体が、地面にじわりと広がっていく。
鳴はもう、動かない。声も発しない。ただ、かすかに息をしているだけ。
(……私のせいだ)
澪の中で、何かが崩れた。
ノア――そう呼ばれる力については、転写されたときに簡単な説明を受けていた。
異常な世界。理不尽な力。そこで生き抜く術。
けれどそれは、まるで遠い物語のようにしか思えなかった。
なのに、今――
目の前で、人が血を流している。自分をかばって倒れている。
「……っ……」
澪の喉が震える。声にならない声が漏れた。
――現実だった。
怖かった。逃げたかった。けど、それ以上に――
(……いやだ)
手が、震えながらも伸びていた。
「お願い……誰でもいいから、お願い……っ」
言葉にできない祈りが、胸の奥で渦を巻く。
誰かの犠牲が、自分を目覚めさせる。
動けなかった理由は、もう通用しない。
目を逸らさなかったからこそ、澪は“感じた”。
その手は、祈るように、求めるように――未来に向かって、伸ばされていた。




