section9『転写前夜』
日常の風景は、何も変わらないように見えた。
でも、真の中では確かに何かが変わっていた。
そしてその“予感”は、静かに現実になる——。
夕暮れの街を歩いていた。
帰り道の住宅街は、いつもと変わらない。
部活帰りの生徒たちがコンビニでアイスを買い、
郵便配達のバイクが細い道を抜けていく。
どこかの家からはカレーの匂いがして、
耳を澄ませば、テレビのニュースと笑い声が重なっていた。
(……本当に、何も変わってない)
それなのに、自分の中では確実に“何か”が変わっていた。
この数日で得た力。
神瀬から学んだこと。
訓練と反復で掴んだ、新しい感覚。
(世界の輪郭が、少しずつ違って見える)
きっと——いや、絶対に“来る”と思っていた。
でも、それが“いつ”かは誰にもわからなかった。
そんな予感だけを胸に抱えて、
真は、静かな住宅街の角を曲がった。
その瞬間だった。
空気が、一変した。
風が止まり、温度が平坦になる。
世界から音が抜け落ちて、時間の流れすら鈍くなる。
耳の奥で、心臓の鼓動だけが反響する。
(……来たか)
声にならない言葉が、自然と心に浮かぶ。
そして真は足を止め、ゆっくりと息を吐いた。
あたりを見回す。
だが、景色は何ひとつ変わっていない。
通りの家も、電柱も、さっき見たのと同じはずだった。
ただ——“質感”だけが変わっていた。
色が濁る。
影が揺れる。
遠くの雲が、逆流している。
空の端がねじれ、淡く光り、世界が“裏返り始めた”。
視界が波打ち、地面が下に引っ張られるように沈む。
平衡感覚がずれ、右と左の境界が曖昧になる。
(“転写”)
神瀬の言葉を思い出す。
“世界が選ぶ時は、こちらの都合なんて関係ない”
まさにその通りだった。
全身が、まるで“世界から抜け落ちていく”感覚に襲われる。
影が、真下から浮かび上がる。
街灯の光が逆流し、地面のタイルがぼやけていく。
音が割れた。
かと思えば、すべての音が吸い込まれた。
立っているはずの足元が、もうどこにもなかった。
——そうして。
真は、沈み込むように“世界の外側”へと引きずり出された。
白と黒が混ざり合い、昼と夜が重なり、
温度も色も音も、すべてが交差しては消えていく。
最後に見えたのは、
街の灯り。
それは、まるで“誰かの記憶”のように滲み、
光の粒になって、遠ざかっていった。
——静寂。
音も、時間も、重力も失われた、完璧な無音。
でも、その中にいた真の表情は、恐怖ではなかった。
(……ここからが、始まりだ)
そう思えたのは、
きっと、あの日から逃げずに立ち向かった自分がいたからだ。
そして、彼の姿は、ゆっくりと光に溶けていった。
世界がねじれ、音も重力も消えていく中で、
真はただ、静かにその瞬間を受け入れていた。
これは、逃げなかった少年が踏み出す、本当の始まり。




