第87話、腐敗の黄昏と冷徹なる日の出
第4ヶ月目に入った戦況は、泥沼の膠着状態にあった。神聖日本帝国が誇る革新的な防御システムと、中国軍の巨大な物量が、戦線の最前線で互いを削り合う。数週間にわたる局地的な激戦は、両軍に膨大な疲弊をもたらしていたが、決定的な突破口は見出されていなかった。この消耗戦の渦中、中国中央軍事委員会内部の、古く、強硬な派閥は、焦燥と苛立ちの極限に達していた。彼らの脳裏には、もはや国際的な非難も、人道的な制約も存在しない。残されたのは、腐敗した体制を維持するための、ただ一つの、最終かつ最も非道な手段——核兵器の使用という冷酷な決断だった。戦況を一変させ、傲岸不遜なる神聖日本帝国に、決定的な、回復不能なダメージを与えるための一撃。それが、彼らが選び取った地獄の選択であった。
最高指導者・唯華が指揮を執る地下の統合指揮所に、張り詰めた、異様な静寂が支配していた。その静寂を、一人の男の報告が、雷鳴のように引き裂いた。情報省大臣・山田剛は、普段の冷静さを完全に失い、額に玉の汗を流しながら、唯華の前に進み出た。彼の持つタブレットには、最重要機密の赤文字が点滅していた。
「唯華様、緊急事態です。コードE-M02、情報戦システムの最大レベル警告が発令されました」山田の声は、緊張で微かに震えていた。「システムが、中国軍中枢の最高機密通信を傍受しました。彼らは、わが国に対する核ミサイル攻撃を計画しています。目標は…」
山田は一度唾を飲み込んだ。その一瞬が、数時間にも感じられた。
「…東京の首都中枢。そして、横須賀、佐世保を含む、主要な軍事拠点、三ヶ所です」
報告が終わると同時に、会議室の空気が氷点下まで冷え込んだ。国防省、外務省、技術省の幹部たちの顔が一斉に青ざめ、誰もが動揺を隠せない。しかし、指揮席に座る唯華だけは、微動だにしなかった。彼女の整った顔には、感情の動揺の影すらなく、ただ瞳の奥に、深淵の底から湧き上がるような、冷たい怒りの炎が宿っていた。
「核…」唯華は、静かに、しかし、その一語が部屋全体に響き渡るような重みをもって呟いた。「腐敗し、滅びゆく体制の、最後の悪あがきに過ぎない。国際法も、人道も、全てを冒涜する愚行だ」
彼女は山田に、即座に、二つの核心を突く質問を投げかけた。「山田大臣。目標の発射基地は特定できているか?そして、迎撃は可能か?」
「はっ…!」山田は報告を続けた。「迎撃についてですが、残念ながら、現状の防衛システムでは、大陸深部からの極秘裏の発射に対し、間に合わせることは極めて困難です。しかし、E-M02システムは、発射準備中の三ヶ所の正確な座標を特定済みです。内陸深くに秘匿され、対地攻撃機F-J35による通常攻撃は、航続距離と防空網の点から不可能です」
唯華の判断は、電光石火だった。この一瞬の躊躇いが、数千万人の命運を決める。迎撃不可能ならば、破壊するしかない。
「吉岡大臣」唯華は、技術省大臣・吉岡健太郎に視線を移した。吉岡は脂汗でシャツを湿らせながら、直立不動で応えた。
「D-W10対艦ミサイルを、対地精密攻撃型に転用したD-P10の準備は整っているか?」
吉岡は、技術者としての誇りと、任務の重大さに顔を紅潮させた。「は、はい、唯華様!極秘裏に開発を進めておりました、対地精密攻撃用弾道ミサイルD-P10は、いつでも実戦投入可能です!通常弾頭ではありますが、核基地の地下施設を破壊するには十分すぎる威力があります!しかし、標的の三ヶ所同時座標入力と、システム最終調整、そして発射準備には…3時間を要します!」
「3時間…」唯華は、唇を強く噛み締めた。核ミサイルの発射準備が、残り何分で完了するのかは不明だ。この3時間が、東京にとって、永遠にも等しい待機時間となる。
唯華は、作戦総司令官である斉藤隆一に視線を向けた。斉藤は、その冷徹な軍人としてのキャリアの中で、数多くの非情な決断を下してきた男だ。
「斉藤総司令官。この3時間を、いかにして稼ぐ?中国軍の発射準備を、わずかでも遅滞させる策を提示せよ」
斉藤は、唯華の瞳の奥にある、国を守るという絶対的な意志を読み取った。彼は、自らの魂を切り刻むような、最も非情な選択肢を提示した。
「唯華様。唯一の方法は、発射基地への最終的な発射コードの伝達を物理的に不可能にすることです。特殊作戦部隊、中村健太の部隊を投入します。ウルムチ近郊の第一発射基地に最も近い、中国軍の高出力通信中継施設を目標とします。中村部隊は、30分以内に施設を破壊します。これは生還の可能性が極めて低い、決死の、決意の任務となりますが、我々に3時間の猶予を与える、唯一の手段です!」
唯華は、一瞬、中村健太という一人の人間の顔を思い浮かべた。しかし、彼女が背負うのは一人の命ではない。日本という国の全てだ。彼女は、全ての幹部を見据え、その声は、深淵の静けさを持ちながら、誰もが逆らうことのできない、決定的な重みを帯びていた。
「全幹部に告ぐ。これより、作戦名『暁の盾』を発動する。技術省は、3時間でD-P10の発射準備を完了させよ。吉岡大臣、貴官の指先一つに、日本の未来がかかっている。斉藤、直ちに中村部隊に指示を。命がけで時間を稼げ。我々は、非人道的な核兵器の使用を、絶対に許さない。この国を守るため、いかなる犠牲も払う」
特殊作戦部隊長・中村健太、階級は少佐。彼は、唯華からの直接指令を、内陸深くの秘密潜伏拠点内で受け取った。無線機から流れる斉藤総司令官の冷酷な言葉は、命令であると同時に、彼らへの弔いの言葉でもあった。
中村は、選抜された潜入班の精鋭十名を前に、静かに、しかし燃えるような眼差しで語りかけた。「この任務は、国の存亡に関わる。我々が、たった30分で、中国軍の通信とレーダーを麻痺させる。失敗は、即ち東京の壊滅だ。我々の命は、3時間の盾となる。生きることを考えるな。任務を完遂しろ。行くぞ!」
潜入班は、夜陰と砂嵐に乗じて、ウルムチ近郊にそびえ立つ中国軍通信中継施設へと侵入を開始した。標的は、核ミサイル発射基地への最終的な発射コードや、直前の気象データ、座標補正データを伝達する、まさに心臓部であった。
施設内部への侵入は、まさに地獄の5分間だった。赤外線暗視ゴーグル越しに見えるのは、施設の警備兵たちの錯乱した姿。サイレンは鳴り響き、施設の内部は、消音銃と短刀による激しい近接戦闘の音で満たされた。中村は先頭に立ち、冷静沈着に敵を制圧していく。彼の体には、複数の銃弾がかすめていたが、痛みを感じる暇はない。
「目標、中枢通信ケーブル!爆薬をセットしろ!」
命令が下ると同時に、高性能爆薬C4が、直径数十センチの通信ケーブルの束に、迅速かつ精密に設置された。そして、タイマーが30秒にセットされる。
ドン!
爆薬が炸裂し、凄まじい閃光と爆音、そして粉塵が施設全体を揺るがした。発射基地への最終伝達ラインは、物理的に、そして完全に切断された。彼らは、これで時間を稼いだと確信した。中村は、無線機に手を伸ばそうとしたが、既に中国軍の増援が施設を包囲し始めていた。
「…任務、完了」中村が呟いたその一言を最後に、無線は途絶した。
九州の山中に秘匿された、D-P10発射台。その地下指令室で、吉岡大臣は、顔の脂汗を拭うことも忘れ、モニターに映る中村部隊の映像がノイズに変わるのをただ見つめていた。3時間という時間が、まるで針の進まない拷問のように流れていく。
「…中村部隊が、命を懸けて稼いだ30分は、我々にとっての永遠だ」
吉岡の隣に立つ技官が、最後のチェックを完了させた。「大臣!対地弾道ミサイルD-P10への三ヶ所同時ターゲット座標入力、完了しました!発射システム、最終調整完了!発射準備、完了しました!」
発射ボタンを前に立つ唯華に、吉岡は報告した。彼の声は、歓喜と、目の前の決断への恐怖が入り混じっていた。「唯華様、中村部隊が時間を稼ぎました!3ヶ所の核基地全てを、確実に破壊できます!」
唯華は、静かに目を閉じた。彼女の脳裏には、中村健太と、その部下たちの、最後の雄姿が焼き付いていた。彼らの犠牲は、無駄にはしない。彼らの死は、東京を救う暁の盾となったのだ。
そして、彼女は短く、冷徹な命令を下した。その声には、一切の迷いや、感傷は含まれていなかった。
「…発射せよ」
唯華の命令と共に、九州の山中に設置された三基の秘匿発射台から、3発のD-P10が、天を衝く轟音と共に空へと打ち上げられた。その瞬間、山中の木々が震え、土砂が舞い上がった。D-P10は、通常の対艦ミサイルとは比べ物にならない、極超音速の弾道軌道に乗って、中国内陸の核基地を目指し、猛然と加速した。中国軍の防空網が、突如として再開された通信で異常を感知し、対応に動く暇すら与えなかった。
数分後。統合指揮所の巨大スクリーンに、三ヶ所の標的座標で同時発生した巨大な熱源反応を示すデータが飛び込んだ。
「成功です、唯華様!」山田大臣が、感極まった声で報告した。「各基地は、通常弾頭による貫通攻撃を受け、完全に破壊されました。核ミサイルの発射は、阻止されました!」
報告の最後に、山田は声を落とした。「中村部隊は…ウルムチ近郊の施設と共に、通信が途絶しています」
最高指導者邸の地下壕は、安堵の息と、静かな勝利の熱狂で満たされた。しかし、唯華の表情は変わらない。彼女は、モニターの向こうの砂塵の渦に、一瞬の黙祷を捧げた。それは、勝利の代償として、彼女自身が計算し、受け入れた非情な犠牲であった。
「…美咲」唯華は、副官に静かに命じた。「中国は、核という最後の、最も強固な盾を失った。体制を維持する抵抗の術は、もはや存在しない。これより、最終攻勢を開始する」
唯華は斉藤総司令官に、冷たく、そして力強い、勝利の号令を下した。
「斉藤総司令官。作戦名『天翔ける剣』を発動せよ。我が国の未来を、その手で掴み取れ」




